第10話【第三章】
「で、何時頃いらしたんです、詩織さん?」
「真昼間に叩き起こされたよ、兄ちゃん」
「優海、お前は口を挟むな」
「まあまあ……」
僕と優海がぎゃあぎゃあ言い合うのを、なんとか静めようとする詩織。
「どうもすみません、詩織さん。僕が予定を忘れていたばっかりに」
「いえいえ、毎度押しかけているのはこちらの方ですから」
穏やかに答える詩織。
「優海、お客様に飲み物も出さなかったのか?」
「お客だあ? ただのお節介焼きの姉ちゃんだろ」
「あ、大丈夫です。私、自分の飲み物はいつも持参しているので」
ああ、そういえばそうだったな。でも、礼儀として何のもてなしもしないのは感覚としてどうだろう。そういうことを学べたのは、僕と優海が施設に入ることができたからだ。でなければ、僕もまたお客に気を遣う、ということに全く無関心だっただろう。
「それで、兄ちゃんはどこに行ってたのさ? たった一人でこの女の面倒を見るのは本当にしんどかったんですけどー」
「そんな物言いは止めろ、優海。どうもすみません、詩織さん」
お構いなく、と言って笑顔を見せる詩織。
その時、僕は思った。詩織は強い人間なのだ。どんな過去を背負っているにせよ、こうして他者に手を差し伸べることのできる。そこまでの回復を果たすには、一体どれほどの葛藤と苦悩があったのだろうか。
僕自身は、鬱病などの病気になったことはない。しかし、そのような疾患を乗り越えなければ得られないしたたかさが、詩織にはあるように思われる。
その感心は、すぐさま怒りに姿を変えた。矛先は優海。
優海が精神疾患を患っているのかどうか、それは分からない。だが、優海に『今の生活を改善しよう』という意識はあるのだろうか? 動物の虐待という犯罪を犯したことについて、罪悪感はないのだろうか? よし、ぶつけてしまえ。
「優海、どうして学校の飼育小屋を荒らしたんだ?」
「え?」
はっと振り返ったのは、優海ではなく詩織だった。詩織が属する組織には、この情報は届いていなかったらしい。
「優海さん、それは本当なの?」
「兄ちゃん、どこで聞いたんだ?」
視線が三者三様に交錯する。
僕はゴホン、と大きな空咳をして、立ったまま腕を組んだ。
「今日、お前の通っていた中学校に行ってきたよ、優海」
「はあ?」
驚きと疑念の混じった声で、怒りの眼差しを向けてくる優海。それがどうした、とでも言わんばかりに僕を睨みつけてくる。だが、微かに瞳が揺らいだのを、僕は見逃さなかった。
地雷を踏んだか? 上等だ。
「新川和子先生、覚えてるよな。お前が入学してから三ヶ月間、担任として面倒を見てくれていたはずだ」
「誰だよ、それ」
「新川先生に伺ってきたんだよ、優海。お前がどんな生徒だったか。飼育小屋を荒らして、動物たちに危害を加えたのはお前だな」
「優海さん、あなた、そんなことを……?」
この言葉に狼狽えたのは、詩織一人。
「詩織さん、メモを準備してください。優海、今から僕は、お前と話をする。詩織さんの邪魔をするなよ」
「な、なんなんだよ兄ちゃん! さっきから根も葉もないことを……」
「そう、なんの証拠もない」
僕はあからさまに肩を竦めてみせた。しかし、
「お前だって否定はしきれないはずだぞ、優海」
と言って、キッと彼女を睨みつけた。野生動物の威嚇というのはこういうものなのかもな。
「動物の虐待なんて、本当にやってたのか」
自らの攻撃性を調整しながら、飽くまで落ち着いた風を装う。うまく装っていられればいいのだが。しかし、優海の方が一枚上手であることを、僕は見せつけられることになる。
優海は、まるで仮面を脱ぎ捨てたかのように、表情を豹変させた。
「本当だったらどうする、兄ちゃん?」
そしてニヤリ、と口の端を吊り上げたのだ。
僕は一瞬、膝から下の感覚を失った。くらり、と足元が揺らぐ。バン、と膝の横を叩くことで、なんとかその場に踏みとどまった。
しかし、優海もその不気味な笑みを維持できるほど、メンタルが強いわけではなかった。冷たいため息をついて俯き、腰に手を当てる。
「バレちゃったか、兄ちゃんには」
笑みはいつの間にか、自嘲的なものに変わっていた。グッ、と音がする。詩織が唾を飲む音だろう。
「仕方なかったんだよ」
「何がだ? どうして?」
人間ではないとはいえ、生き物に暴力を振るい、挙句命をも奪った。それのどこが『仕方ない』ものか。
優海はしばし、口元を動かしていたが、もごもごとして音を成さない。
そうしている間に、外はとっくに真っ暗になっていた。
今のうちに。手遅れになる前に。なんとしてでも優海の心の闇を掴みださなければ。ここで後退したら、取り返しのつかないことになる。
「どうしてだって訊いてんだよ!!」
結果、響いたのは僕の怒声だった。優海どころか、詩織までもがびくり、と肩を震わせている。優海は呆気なく一歩退き、詩織はまじまじと僕を見上げてきた。当の僕はといえば、いつの間にか肩で息をしていた。こんなに焦りと怒りとを覚えたのは生まれて初めてだったのだ。
「ああ……」
これ以上言葉を発することは、今の僕には不可能だった。僕は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「詩織姉ちゃん、わりぃんだけど、今日はこのへんにしておいてもらえる?」
「え、ええ、そうね」
詩織は慌てて筆記用具類を鞄に仕舞い、『お邪魔しました』と言ってすぐさま出ていった。
優海はゆっくりと床に腰を下ろし、僕同様に俯いた。しかし、完全に沈黙した僕とは違い、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。そこに敵意はなく、むしろ僕を心配するような気配さえある。
僕があんな強い態度に出られる人間でないことは、優海もまた分かっているのだろう。だからこれ以上、優海は自分から、僕を責め立てようとはしないのだ。
今度は僕が、言葉に窮する番だった。
「兄ちゃん、大丈夫?」
僕の喉からは、なんとか肯定の意志表示と取れる音が絞り出されただけ。
「さっきの兄ちゃん、凄かったよ。あんな顔して、あんな大声で私を叱りつけるなんて、正直思わなかった」
『自分の感情が制御できなかっただけだ』と言おうとしたが、上手くはいかなかった。どうしても言葉が細々となってしまう。そうか。さっき言葉を継げなくなった優海は、こんな気持ちだったのか。
「どうしてあたしが動物虐待をしたのか、っていうのが兄ちゃんの疑問だったよね」
黙って頷く僕を見て、優海は目を逸らした。
「今は、答えられない。今は、ね」
「どういう、ことだ?」
なんとか言葉を繋ぐ僕。会話のキャッチボールは、今は僕が投げ返す番だ。
すると、優海はがっくりと項垂れてから、ぱっと顔を上げた。
「あたしはFPSの訓練に戻るよ。今日のことは、悩むなり忘れるなり、兄ちゃんの好きにして」
その言葉は、割と優しい口調だった。僕のリアクションも待たずに、優海は襖を開け閉めして、再び無音でゲームに戻った。
結局のところ、今日は優海の先生に会いに行き、詩織と話し、僕が怒鳴り散らしたところでなんの成果もなかった、ということか。
優海は何かを隠している。その一端が動物虐待であり、それを優海が行ったということは間違いようがない。そう断定できるくらいに、彼女の不敵な笑みは僕の心に刻み込まれた。
※
それから、今まで以上に優海は自室に閉じこもるようになった。食事も片手間で済ませるようになり、常にスマホを手放さない。どうやら歴戦の猛者たちのプレイ動画を見ているらしい。
以前だったら『食事の時くらいスマホは止めろ』と言えたのだが、FPSの世界大会予選の予選、すなわち都道府県別大会が一週間後に迫っている。これは依存症だな、と僕は思うものの、優海を精神科に連れていくのは骨が折れるだろう。
優海が、スマホとゲームに呑み込まれていく。僕にそれを止めることはできない。誰か、相談できる者はいないのか。
※
そんなことを考えながら、日はまた昇って翌日となり、僕はその日の講義を終えていた。
「塚島くん、大丈夫かい? 集中が切れてるように見えるんだけど」
「ああ、須々木くんか」
「おいおい、しっかりしてくれよ。隣に座ってるんだからさ」
「うん」
「生返事だなあ」
須々木は僕の肩を叩いてきたが、僕は席に座った姿勢で動かなかった。否、動けなかった。
「今日もまた、賞味期限切れの弁当を持って行くんだろう?」
須々木の言葉に、僕は『そうだったね』と一言。次に何をするか、指針が立ったところで、僕はようやく一つの閃きを得た。
「須々木くん、心理学のノート、見せてもらえるかい?」
「ど、どうしたんだ、突然?」
「ちょっと勉強しそびれていたんだ。相談に乗ってほしい」
「ああ」
須々木は目を丸くしながらも、コクコクと頷いてみせた。
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