第9話
告げられた言葉は、僕の想像からは全く埒外のものだった。一瞬頭を掠めていった言葉を、僕は口にする。
「動物虐待……?」
「そうです。動物虐待です」
新山先生は、目を細めながらそう言った。秋山先生は僕を見ていられなくなったのか、顔を逸らしている。
僕の耳にようやく引っ掛かる場所を見つけたのか、ゆっくりと『動物虐待』の漢字四文字が脳内に浮かび上がる。
「ど、動物虐待ってどういう……?」
「言葉の通りです」
「突然言われてショックでしょうけどね、優翔くん」
新川先生のはっきりとした物言いに、フォローをかける秋山先生。二人はあらかじめ役割分担をしていたらしい。そんなことを頭の片隅で推し測りながら、僕はもう一度『動物虐待』と口にした。
「証拠はありません。ただ、塚島優海さんの入学から三ヶ月の間、飼育小屋の兎や鶏が不審な怪我をしているところが数回発見されました」
「怪我、ですか」
僕がほっと胸を撫で下ろした直後、
「死んでいた動物もいました」
と冷淡に告げられ、僕の心臓は再び凍り付いた。
「で、でも、さっき証拠はないって……」
「はい。優海さんに濡れ衣を着せるようなことはできません。しかし、彼女が不登校になってから、そのような事件はなくなりました。同時期に転校したり、転入したりしてきた生徒は優海さんだけです」
『それに』と、新川先生の追い打ちは続く。
「調べたところ、優海さんの通っていた小学校でも、四、五件の不審な動物虐待事件が起きています。あてにできるほどの数字ではありませんが、優海さんの卒業後、そんな事件はぱったりとなくなりました。死んだ動物こそ出なかったものの、飼育係の生徒さんが不登校に陥る事態にまで発展しました」
僕は何と言ったらいいのか、さっぱり分からなくなった。
不安。優海。恐怖。優海。絶望。優海。悲愴。優海。
僕の心は、悲観的な感情と優海の姿とで、繰り返し点滅した。
「どうして……」
自分の口から言葉が漏れたのは自覚した。しかし、続かない。どうして優海がそんなことをしたのか。それを尋ねたいのに。
すると、テーブルに載せて握りしめていた僕の手が、すっと温かい感覚に包まれた。秋山先生の手だ。
「私に考えられることはね、優翔くん」
ゆっくりと言葉を紡いでいく秋山先生。
「優海さん、きっと何かをため込んでいたのよ。ご両親が暴力でぶつかり合う様子をずっと見せつけられて、ストレスは相当なものだったはず」
「え、ええ、それは僕も、そう思います」
「かといって、他人に易々と相談できる問題じゃないわ。恋愛や友達付き合いとは、問題の次元が違うもの」
再び俯いた僕の方へと、秋山先生は身を乗り出した。
「どうする? しばらく一人にしましょうか?」
「いえ」
僕はさっと顔を上げて、即答した。マズい。今一人にされたら、これ以上の詳細が訊けなくなる。
メモを取るのも忘れて、僕はなんとか先生二人に食らいついた。
「辛くなるかもしれないけれど……。それでもよければ」
秋山先生は身を引いて、新川先生に詳細の説明を促した。
僕が聞いたのは、いずれも同じような状況だったということだ。
事件は、主に放課後から翌朝にかけて行われたらしいこと。
凶器は使われず、殴る蹴るの暴力だったこと。
付近のプランターや水飲み場といった、周辺の施設も損傷していたこと。
など。
「優海がクラスで暴力を働くようなことはありませんでしたか?」
自分に『落ち着け』『冷静になれ』と促しながら、僕は尋ねた。しかしボールペンは握りっぱなしなだけで、ノートは真っ白のまま。情報が脳みそに捻じ込まれ、刻まれていくような感覚に陥る。新川先生が答えるには、
「それはありませんでしたね」
とのこと。
「友達付き合いはあまり活発ではありませんでしたが、いじめに遭ったり、加担したりするようなこともなかったと記憶しています」
その時、はっとした。優海は、賞金稼ぎをする代わりに、僕に任せていることがある。それは、簡単に言えば家事全般だ。と言っても、洗濯と風呂洗い、それに簡単な掃除程度だが。
何かに集中し始めると、そこから動けなくなる。それは優海が、あの廃れた家庭で過ごすために身に着けた処世術でもある。優海の家事の担当といえば、須々木の勤めているコンビニに、余った弁当を貰いに行くくらいだ。
それを考えてみれば、まだFPSに出会っていなかったであろう幼少期から、何をストレスの捌け口にしていたか、見えてくるような気がする。暴力だ。それも、他人に認知、認識されるだけの。
しかし、すぐには分からない点がある。暴れる環境をいかにして選別したか、ということだ。
養護施設内で暴れてしまっては、僕も優海も追い出される可能性がある。だが、どうせ不登校になるのであれば、学校の教室で一暴れしてもよかったのではないだろうか。
どうして、自分に嫌疑がかからないような暴力の振るい方をしたのか。それが分からない。
人様に手を挙げることがなかったことを、不幸中の幸いとすべきか? しかし、先生二人から聞いたところでは、動物への暴力は日常的なものだったと推測される。つまり、執拗に暴力を振るいつつ、それでも自分に火の粉が降ってこないように注意を払っている。
何故だ? バレたらまずい事情があったのか?
「優翔くん、暑い?」
「え?」
「やっぱり汗、凄いわよ。冷房強くしましょうか?」
「あ、いえ、はい」
秋山先生に指摘され、僕はようやく、顎先から滴るほどの汗が発散されていることに気づいた。
僕がハンカチを取り出すよりも早く、秋山先生はタオルを差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
「もし気分が悪いときは言ってね。保健室に連れて行くから」
「そんなに僕、酷い顔してますか」
思い切って聞いてみた。すると先生二人は顔を見合わせ、『ちょっと顔色が優れないようだ』という旨のことを言った。
そこで、苦労して顔を上げてみると、いつの間にか夕日が差し込む時間になっていた。反射的に目を細めると、二人の先生が、逆光で黒い影になって見える。二人の真っ黒な姿を見て、僕はその影が、自分の心を反映しているように思われた。
「新幹線の時間、大丈夫?」
秋山先生の言葉に、僕は腕時計を見遣った。あと一時間ほどで、次の新幹線が出る。
「もうそろそろ、おいとましようと思います」
「そう。じゃあ、私が車で駅まで送っていくわ。新川先生、ごめんなさいね、付き合わせちゃって」
「いえ。私も優海さんのことは気にかかっていましたから」
新川先生は、やっと笑顔を見せた。僕を安心させようとしてくれたのだろう。
「それでは」
僕がお辞儀すると、新川先生は
「あ、私も昇降口まで見送ります」
と申し出た。
「いえ、そこまでは……」
僕が引き留めようとすると、秋山先生は『助かるわ、新川先生』と告げて、結局三人で元来た廊下を戻ることになった。
「どう? 何かヒントになることはあったかしら」
「そう、ですね……」
僕は歩きながら、顎に手を遣った。
謎が謎を呼ぶ展開だったが、自問自答はもう十分済ませてしまった。少なくとも、今考えられるだけのことは考えてみた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶん、ね」
秋山先生はすっかり元の調子に戻り、クスリと笑って僕の肩を叩いた。
「何かあったら、私たちも力になります。秋山先生に連絡していただければ、私も日程を合わせますから」
新川先生もまた、振り返ってそう告げてくれる。
僕と秋山先生は、新川先生に見送られながら中学校を後にした。そういえば、誰かの運転する車に乗るのは実に久し振りだ。
「優翔くん、シートベルト」
「あ、すみません」
そこから先生と何を話し、どんな行程で帰宅したのか、僕はよく覚えていない。ただ、無事にアパートの階段を上り、自室の前に立った時に気づいた。
「なんとか目的の駅で降りれたみたいだな」
僕はドアの鍵を開けようとして、優海が室内にいることを思い出し、開錠する必要がないことに気づいた。
「ただいま」
と言って静かな自室に入ろうとした時、甲高い怒声が聞こえてきた。
「あーったくもう! あんたもしつこいな!」
「あなたもね、優海さん。素直に学校に行けば、後は自由に生きられるのに」
ああ、今日は詩織が来てくれることになっていたんだった。すっかり忘却していた自分を内心罵倒しつつ、二人の仲介に入るべく、僕は廊下を渡って扉を開けた。
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