第8話

「秋山先生でしたら、今授業中でいらっしゃいますよ」

「ありがとうございます」


 見知った校舎とはいえ、来客用の昇降口から入るのは、それなりに緊張を伴うものだ。僕は軽く汗をかき、駅からダッシュで中学校まで来たのだけれど、到着したのは約束の面会時刻の三十分も前だった。焦り過ぎたか。


 いや、それでも今回の事態に関して、『早すぎる』ということはあるまい。少しでも広く、深く、そして迅速に優海のことが知りたい。自分の妹に何があったのかを探りたい。そのことばかりを考えていた。


 僕は来客用受付で『来賓』のカードをもらい、首からぶら下げた。授業中なのか、淡々とした教師陣の声が、静かな廊下に響く。すると扉の隙間から、時折ふわりと冷気が流れてきた。そういえば、僕が卒業した時は、まだ各教室にエアコンが入ってはいなかった。ようやく市の予算が回ってきたのか。


 秋山先生は、まだ授業中とのこと。僕は職員室前に立ち、少しばかり待つことにする。職員室の向かいの窓からは、職員駐車場が見える。ナンバープレートを眺めながら、今日先生に尋ねようと思っていることを脳内で反芻した。

 今更ながら、僕の意識に蝉の鳴き声が入り込んできた。こうして落ち着くまで、全く気にならなかったのに。いかに無意識に、駅からここまで駆けてきたかということの証明だろう。


 胸に手を当て、『落ち着け』という自己暗示を繰り返す。すると、この中学校の生徒だろう、白シャツと黒のスラックス、またはスカートを着用した少年少女たちが行きかい始めた。

 優海があんな格好をしていたら? ううむ、想像できない。今日この瞬間も、パーカーとだぶだぶのズボンを穿き、ベレッタで戦場を駆けているのだろう。

 

 もちろん、実際の戦場の少年兵と、目の前の中学生を比べるわけではない。しかし、できうる限り貧困を避け、必死に生活費を稼がねばならないこの社会も、一種の戦場と呼んでいいのではないだろうか。

 そのために、勉学に励むことができないという点では、少年兵と優海の関係も、近からず遠からずといったところなのかもしれない。それを確かめるために、今日僕はここへ来たのだ。


 よし、行くぞ。僕は自分で自分を励ましながら、目を閉じて深呼吸を数回。

 恐らく五回目くらいの時だろうか、 


「あら塚島くん、お待たせ!」


 秋山先生がやって来た。長身で、長い黒髪を背中に伸ばした姿だ。僕がお世話になっていた時は、髪は後ろで縛っていた記憶がある。


「すごい汗よ、大丈夫?」

「はい。ご無沙汰しています、秋山先生」


 ふと隣を見ると、若くて小柄な女性の先生が立っていて、僕にお辞儀をした。ブルーライトカット仕様の眼鏡が、キラリと光る。


「紹介するわ。こちら優海さんの担任だった、新川和子先生」

「初めまして、塚島さん」

「こ、こちらこそ、初めまして」


 やはり初対面の人と話すのは苦手だ。この学校に秋山先生が在籍していてくれて、本当に助かった。


「じゃあ、場所を移しましょうか」

「え?」


 会って早々、何事だろうか。首を傾げる僕に、秋山先生は声を潜めて『優海のことはあまり広く知られない方がいいかもしれない』と告げた。


「何かやらかしたんですか?」

「それも含めて、あなたにはお話したいんです。優翔さん」


 新川先生はそう言って、空き教室の時間割を確認した。


「秋山先生、第二会議室が空いてます」

「分かったわ。それじゃ優翔くん、一緒に来て」

「はい」


 僕は大きく頷いた。

 職員室を出ると、新川先生が先導し、僕と秋山先生が肩を並べて歩くような格好になった。


「背が伸びたわね、優翔くん」

「あ、そうですか?」

「ええ。私よりも小柄だったから。卒業するまではね」


 秋山先生は、女性にしては背が高い方だったから、僕にしてみれば意外な反応だった。


「大学はどう?」

「なんとか授業に食いついてます。一応単位は全部取れそうですけど、それら全部が『優』とはいかないんじゃないかと」

「そうね、確かに上には上がいるものね」

「ああいえ、そういうわけじゃないんです」


 僕は、大学の生徒評価のシステムが、相対評価ではなく絶対評価になったことを伝えた。上から何番目までが『優』、というわけではなく、個別に成績を見て、条件を満たしていれば『優』、という風に評価するようになったのだと。


「頑張れば頑張った分だけ、成績に反映されるんです。だからこそ今が正念場かな、と」

「ふむ」


 廊下を歩きながら、僕は秋山先生と会話を続けた。学食は美味しいか。友達はいるか。ちゃんと三食食べているか。

 話題の中でも、優海のことには触れないようにしてくれたところに、僕は秋山先生の思慮深さと優しさを感じた。


 見慣れた階段を上り、廊下を進んでいると、新川先生が振り返った。


「お二人は先に会議室へどうぞ。私は飲み物を持ってきます」

「あら、ありがとう。優翔くん、何がいいかしら?」

「僕はなんでも構いません。ホットでなければ」


 これは結構真面目な答えだったのだけれど、新川先生はそれを僕なりのジョークだと判断したらしい。くすりと笑って口に手を当ててから、来た道を戻り始めた。


「それじゃあ、ここからは真面目なお話といきましょうか。優翔くん」


 会議室の扉を空けながら、真剣な眼差しで、秋山先生はそう言った。


         ※


 会議室に入るなり、秋山先生はすぐに冷房を入れた。


「どうぞ、好きなところに座って頂戴」

「はい」


 僕が在学中は見たことがないほどの、秋山先生の鋭い眼差し。それを以て僕は察した。新川先生が飲み物を取りに戻ったのは、忘れていたからではなく、意図してのことだと。つまり、本格的な相談に入る前に、僕自身が大丈夫かどうかということを、秋山先生が自分で確かめようとしているのだと。


「ここまでは何で来たの? 交通手段は、ということだけれど」

「新幹線と、駅からは徒歩です」

「わざわざ新幹線を使って来たのね? 交通費はどのくらいかかったの?」

「往復で八〇〇〇円ちょっとです」

「ふむ」


 僕は隠し立てすることなく答えた。嘘をつくこともなく。

 僕にその覚悟があると思ってくれたのだろう、秋山先生は身を乗り出した。


「奨学金だけで暮らしているわけじゃないわよね。かといって、あなたにバイトをするだけの余裕はない。当たってるかしら」

「はい」


 短く返答する。事実だけをきちんと認めていくことが、僕自身の取るべき態度だと思った。


「優海さん、何をしていらっしゃるの?」


 おっと、『YES』『NO』で答えられない質問が来てしまった。僕の心はやや揺らいだが、何も応答案を考えていなかったわけではない。


「優海は今、中学校に通っていません。一日中、ゲームばかりしています」

「それで生計を立てられるのかしら」

「はい。賞金が出ますので」

「優秀なゲーマーなのね、妹さんは」

「僕もそう思います」


 そこでようやく、先生は手帳を開き、胸ポケットから三色ボールペンを取り出した。

 僕も鞄を下ろし、ノートと筆記用具を引っ張り出す。ちょうどその時、新川先生ががらりと扉を開け、緑茶のペットボトルと紙コップを二つ、それに来客用のグラスをお盆に載せて入ってきた。


「お待たせしました~」

「ありがとう、新川先生」


 笑顔を再構成する秋山先生。片腕を上げて、新川先生を自分の隣席へと導く。新川先生は席につき次第、お茶を三人分注いで、僕の方に差し出してくれた。


「ありがとうございます」


 しっかりお辞儀をしてから、僕はお茶を手に取った。気づけば、ひどく喉が渇いている。一気飲みしてしまった。この渇きは、夏の暑さのせいばかりではあるまい。


「お茶はいくらでもありますから、遠慮なく」


 再びお辞儀をする僕。そんなに急いで飲んだように見えたのだろうか。


 僕が顔を上げると、秋山先生が手帳に書き留めた内容を新川先生に見せていた。新川先生は薄いクリアファイルを手にしており、プリントを選びながらテーブルに並べている。きっと、優海のデータだろう。


「じゃあ、今度は私たちがあなたの質問に答える番ね。ゆっくりお話していきましょう」

「はい」


 僕はテーブルの下で掌をスラックスに擦りつけ、ゆっくりと言葉を繋いだ。


「優海のことだったら何でも知りたいんです。本当はもっと質問を絞りたかったんですけど、正直僕は、妹のことについて、知らないことが多すぎる。そう思いまして」

「分かったわ」


 秋山先生はゆっくりと背もたれに身体を預け、新川先生にアイコンタクトを取った。


「私が担任していたのは三ヶ月だけでしたが」


 そう言いながら、新川先生は僕と目を合わせた。


「残念ながら、ほとんどの先生方は別な学校に異動なさっていて、ここにはいらっしゃいません。ですが、優海さんについて気になることを尋ねて回ったところ、共通する意見が挙げられました」


 僕の落ち着きは、一瞬にして吹き飛んだ。


「い、いったいどんなことですか!?」


 身を乗り出しながら、僕はボールペンを握りしめる。先生は二人共、僕を見つめて、それから意を決したように口を開いた。

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