第7話

 僕は鼻をすすり、かといって泣いているわけでもなく、両膝を抱いて襖に背をつけた。

 もう僕には、優海を止めることはできない。誰か助けてくれ。だが、一番の協力者であるところの詩織が来てくれるまで、あとまるまる二十四時間はある。

 この丸一日を、僕にどうやって過ごせというのか?


 誰かと喧嘩などしたこともなければ、体育の成績は下の中。決して、僕は運動に秀でているとは言えない。優海を止めるだけだったらそれでも構わないだろうが、止めてどうする。口頭で注意でもするのか? そんな勉強は辞めろと? まさか、それで優海が辞めるとは到底思えない。

 そっと襖を開け、勉強机に向かう優海を覗き見る。表情までは窺えない。しかし、彼女が本気で取り組んでいることは明らかであると判断できる。その根拠は、今まで兄と妹として接してきた故に生まれた絆というか、以心伝心的なものだ。


 よりよい待遇の奨学金制度へ編入されることを目指して、五里霧中ともいえる勉強をこなしている僕。エンジニアになることが夢だけれど、目先の目標は奨学金だ。手段と目的が逆転している。


 それに比べ、優海はと言えば、『何故かは分からないけれど』僕のために賞金稼ぎをしている。考えればすぐ分かることだが、普通は兄や年長者が、幼い弟妹を養うために働くのが筋ではないだろうか。

『何故かは分からない』ことはもう一点。どうして優海の賞金獲得手段がFPSなのか? ただのゲームにしろeスポーツにしろ、他の手はいくらでもあったように思えるのだが。


 そんなことを考えている間に、はっと僕の脳裏に電球が灯った。気づいたのだ。今更変えようもない事実――『僕は優海のことをあまりにも知らなさすぎる』という、その一点に。


 大きくため息をつき、僕は立ち上がった。真昼間ながら、やはり優海の部屋は真っ暗だった。僕は優海のことが理解できるような『何か』を求めて、周囲を見渡した。

 優海の部屋のあちこちに、視線を走らせる。僕の妹だけあって、それなりに掃除はしているらしい。床に散らばっているものは、これといって目立たない。

 しかし、すぐに僕はこの部屋の異常に気づいた。


 壁だ。壁があちこち凹んでいる。前回入った時は何もなかったのに。これは、まさか。


「優海が、殴った……?」


 僕に隠れて、優海は暴力行為に走っていたということか。

 僕はシャツと背中の肌の間に、すっと氷の板を差し込まれたかのような感覚に襲われた。既に優海の暴力性は、仮想空間から現実世界へとシフトしつつある。なんとかして、優海を止めなければ。


 それから先の僕の行動は早かった。ポケットからスマホを取り出し、アドレス帳をめくる。目的の連絡先はすぐに見つかった。優海の通っていた中学校だ。

 二年前、ここに引っ越してきてから、優海はロクに通学していない。だから、今の学校より、以前通っていた学校の方が、優海を知っている人は多いはず。そう思って、かつての優海の登校先を狙ったのだ。


 手の汗をスラックスで拭い、滑り落ちそうになるスマホを握りしめ、僕はその学校へダイヤルした。


 一回……二回……三回……。


《はい。もしもし》


 来た! 僕は慌てて声を低め、『も、もしもし!』と応じた。

 落ち着け、僕。勢い込んでしまっては、相手に怪しい奴だと思われかねない。


「あの、二年前までそちらに在籍していた塚島優海という生徒のことを伺いたいんですが」

《ご父兄の方ですか?》

「そ、そうです。兄の優翔と申します」

《あら、優翔くん!》


 返ってきたのは、意外にも温かな声音だった。


《ほら、私、あなたが三年生のとき担任だった――》

「あ、秋山千穂先生ですか?」

《そう! 覚えていてくれたのね!》


 秋山千穂先生。僕が三年生の時の担任で、担当科目は家庭科だった。二児の母にして、臨床心理士の資格を持つ問題児解決のエキスパート。


《それにしても、久し振り! どうしたの?》


 言葉少なに尋ねてくる秋山先生。うちの事情はよく知っているから、下手に深入りしないようにしているのだろう。


「あの、僕の妹の優海、覚えてますか?」

《ええ》

「彼女のことで是非相談したいことがありまして……。よければお会いできますか?」

《大丈夫よ。でも優翔くん、今県外に住んでるんでしょう?》

「あ、交通費の問題は大丈夫です。その、奨学金があるので」

《そう?》


 本来の利用目的とは違うけれど、是非ともお会いしてお話がしたい。

 そのために、奨学金を少しばかり切り崩しても構わない。


 そう言うと、秋山先生は『そこまで言うなら』と、会う日時を設定してくれた。ちなみに、秋山先生は優海を担任したことはなかったわけだが、優海が通学していた約三ヶ月間、担任をしていた新川先生という人も同伴してくれることになった。若い女の先生で、面倒見のよさは確かだという。


「分かりました。では明日の午前九時、そちらに参ります」

《ええ。気をつけてね》

「はい。失礼します」


 そう言って僕は通話を切った。そして、大きくため息をつく。


「結局話せなかったな……。妹の稼ぎで暮らしている、なんて」


 恥ずかしかったわけではない。罪悪感故に、というわけでもない。ただ、『普通の』学生とは大きく異なる人生航路を取っているのだろう、と思ったのは事実だ。

『普通』という言葉を、口の中で咀嚼する。いつの間にか、僕の中には羨望の気持ちが芽生えていた。

 普通に両親に甘え、普通に友達に囲まれ、普通に勉強して将来を掴み取る。

 それができない僕の、なんと無力なことか。


 今くよくよしても仕方がない。『よし』と小さく呟いて、両頬をパチンと叩く。そして立ち上がった僕は、襖を開け、優海の背中に向かって『ちゃんと晩ご飯を食べるように』と指示して、自分の晩ご飯(コンビニのカレーだ)を電子レンジにかけた。


 ホカホカになったカレーを持って部屋に戻ると、優海が伸びをしていた。


「あれ? 兄ちゃんいたんだっけ?」

「ご挨拶だな」


 きっと優海は、僕がどれほどショックを受けたのかも知らずに机に向かっていたに違いない。だが、明日になれば、僕は優海の心の闇を打ち砕くヒントを得て帰って来られる。


「兄ちゃん、部屋戻そうか。あたし、やっぱりベレッタ92で出場するから。今から訓練しないとね」

「ああ、分かった」


 そう言うと、優海はチキンカツになど目もくれず、自室に戻っていった。


         ※


 秋山先生と話した翌日、僕は珍しくぱっと目を覚ました。スマホと財布と定期入れをリュックに入れる。メモ用のノートと文房具は、昨日の間に既に入れておいた。

 新幹線で往復、八〇〇〇円。手痛い出費だ。だが、それで優海の人生を矯正できるなら安いものである。


 新幹線など、二、三回しか乗ったことはなかったが、みどりの窓口でなんとか往復自由席のチケットを手に入れ、改札を通った。

 新幹線は在来線の上の線路を通るから、ホームは屋外だ。天井はない。昨日の雨雲を拭い去ったような晴天下、じっとりとした暑さが僕に貼りついてきた。

 汗を拭うためのタオルを持ってくるべきだったと後悔する。生憎今は、ハンカチとティッシュしか持参していない。

 だが、いざ新幹線の車両に乗り込むと、キンキンに冷えた空気の出迎えを受けた。これなら拭うまでもなく、汗は止まるだろう。そう思いながら、空いている席を探す。

 すると、左側の座席の一番通路に近いところが空席だった。一番窓側には、僕より二回りほど年上の女性が座っている。その腕に、すやすやと眠る赤ん坊を抱いて。


 僕が席に着くと、軽くお辞儀をしてきた。こちらも無礼のないよう、頷くくらいのお辞儀をする。僕は、熱中症予防にとコンビニで買ったウーロン茶を取り出し、ぐびりと一口。

 そうこうするうちに、新幹線は走り出した。赤ん坊は目を覚ますこともなく、母親の腕の中で静かに寝息を立てている。


 不意に、この母親と話がしたいという願望が、僕の胸中で芽生えた。話がしたい、というよりは、一方的な質問攻めかもしれない。

 

 あなたはこの子を愛しているのか。

 あなたは今の生活に満足しているのか。

 あなたは一生、この子の面倒を見切る覚悟があるのか。


 まさか本当に尋ねたわけではない。ただ、母親の横顔を見ていると、答えは当然『YES』であろうと見当はつく。

 きっと立派なご主人をお持ちなのだろう。年収が人並み以上の配偶者。もちろん合法的な仕事をして、家庭を支えている。

 もしかしたら、この女性自身もバリバリのキャリアウーマンなのかもしれない。育児休暇をぞんぶんに取得できるような、女性の社会進出に理解のある会社に勤めていたりして。


 これらは全て、僕の妄想に過ぎない。けれど、あながち外れてはいないのではないかと自負している。

 そうは言っても、結局のところ、『幸せとは何だ』とか、『夢を持つことの善悪』とか、抽象論にしかならないような気もする。

 もし実際に、隣席の女性の家庭が高給取りだったとしても、亭主からのDVがあれば、幸せなど簡単に吹き飛んでしまうだろうし。

 まあ、破滅的金銭感覚と暴力性とが同居していたかつての僕たち家族よりは、マシであるとは思うのだけれど。


 そんなことを考えている間に、新幹線は僕の故郷に停車した。両親同士の暴力に自分たちが晒されていた、その故郷に。

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