第6話
勉強机に手を当てた僕の額から、嫌な汗が滲んでくる。クーラーが効いているはずなのに、僕は顔が熱くなるほど、血流が頭部にどっと集中する感覚を得た。
詩織の身に何があったのかは分からない。だが、僕とそう違わぬ歳で、暗い影を抱えながらも他者を救おうとする彼女の姿勢は眩しかった。
それに比べ、今の僕はなんだ。優海に支えてもらってばかりではないか。それでよくもまあ、学生だ勉学だと騒げたものである。もっと大事なことが――それこそ『義務』があるのではないか。
考えがここに至り、僕は椅子から立ち上がって部屋の反対側に回り、ノックもなしに襖を引き開けた。
「優海!」
ベレッタを握っていた優海は、すっとその銃口を僕に向けた。
「うわっ!」
義務感に駆られて優海を諭してやろうと思ったのが、返り討ちにあった。見事に尻餅をつく僕。
「兄ちゃん、出てって」
いつもだったら、ここで身を引くのが普通だ。それは僕と優海との暗黙の了解だった。誰でも間違って、ドアやら襖やらを開けてしまうことはある。
だが、今日はそうはいかなかった。このまま引き下がっては、二度とチャンスはない。そんな勘が、僕の脳内で渦巻いていた。
詩織と話した直後で、そして彼女の身の上を考えたことで、このまま自分だけのうのうと生きているわけにはいかないという思いが、僕の背中を押してくる。優海の方へ向けて。
僕はゆっくりと立ち上がり、後ろ手に襖を閉めた。流石にこれは異常事態だと察したのか、優海はゲームに一時停止をかけた。
「どうしたのさ、兄ちゃん」
言葉も口調も穏やかなものだが、その視線には暴力的な威圧感が込められている。
「学校へ行け、優海」
「さっきの女に惚れたの?」
冗談めかした、いかにも優海らしい台詞。だが、生憎そういうわけではない。詩織が美人だとは思うけれど、それと恋愛感情とは別だ。そもそも、恋愛云々で僕の優海に対する態度が変わるわけではない。
じっと見返す僕をまた見返して、優海は僕からの言葉を待っている。ちょうどアニメやコミックで、視線がバチバチ鳴るような雰囲気だ。僕はずっと無言でいることで、優海に対する僕の考えが確固たるものであることを示した。
優海はベレッタを床に置き、あぐらをかいて僕に向き直った。再び自分に会話のボールが放り投げられたことに気づいたらしい。
「兄ちゃん、分かってるよね? ってか、さっきのあの女との会話、聞いてたよね? どうしてそんなこと言い出すのさ? 『学校に行け』だなんて」
「お前こそ分かっているだろう、優海? 義務だからだ」
「義務、ねえ……」
優海はぼんやりと視線を泳がせながら、肩を竦めてみせた。
「じゃあ訊くよ? あたしたちの両親には、あたしたちの面倒をきちんと見る義務があったと思わない?」
会話が飛んだ。変化球を返された気分で、僕は『そ、それは』と言葉に詰まった。咳払いをしてから、なんとか投げ返す。
「それは当然だろう。せめて僕たちが義務教育を修了するまでは」
「先に義務を放棄したのは親父とお袋の方だよ、兄ちゃん。だったら、あたしが義務を破っても構わないっしょ?」
「それはお前の持論だ。勝手な言い分だよ。屁理屈だ」
その時、ふっと優海の顔から感情が滑り落ちるのが見えたような気がした。ゆっくりと立ち上がる優海。首をカクン、と下げてため息をつく。聞いているこちらが足先から凍てつくような、そんな冷たいため息だ。
「へえ、似てきたね」
「何がだ?」
そう尋ねると、優海は速足で僕に近づき、思いっきり掌を僕の胸に叩きつけた。
「どうして……なんでだよ兄ちゃん! なんで親父になんて似てきちまったんだよ!」
「ッ!」
俯いたまま、心を吐き出すように叫ぶ優海。
「そんな、あたしの言い分を屁理屈だ、なんて……。頭ごなしにそんなこと言うなよ! それでどれだけあたしが我慢してきたか、兄ちゃんに分かるのかよ!」
僕は驚いた。僕が父に似てきたと指摘されたことに。優海がこれほど激昂していることに。
しかし、最も驚いたのは、優海の身体があまりにも華奢だということだった。抱き締めるには、あまりに細すぎる。
今の僕に、『じゃあ、何があったんだ?』などと尋ね返す蛮勇はない。しゃくり上げる優海の肩に手を載せ、軽く引き離しながら、僕は急いで身を反転させた。
やっぱり。やっぱりだ。優海は僕に隠している過去がある。いったい何が彼女を苦しめていたのか。そして苦しめ続けているのか。
そのわけの分からない疑問に押し出され、僕は襖の向こう、自分の部屋へと戻った。スタン、と襖の閉まる音が、急にゆっくりしたものに聞こえてくる。
僕はその場でへたりこみ、膝を抱くようにして顔を太腿に押し当てた。
その日は珍しく、再びベレッタの操作音が聞こえてくることはなかった。
※
そんな日の翌日でも、僕は大学に足を運んだ。無遅刻は達せられなかったが、無欠席は達成しなければ。何が何でも、奨学金制度の対象者に残らなければならないからだ。
ちなみに講義は午後からで、午前中は病院に行っていた。強盗に襲われた時の怪我は、すでに完治したという。お陰で、ようやく鼻先の湿布を外すことが許可された。
その日は、しとしとと静かな雨が降っていた。昨日はあんなに晴れていたのに。
それが原因だろうか、起床時からずっと、僕の心臓は様子がおかしかった。ドロドロとした何かを全身に送り込んでいる。血液ではない。心理的に粘性のある、不快な何かを、だ。
つと傘を上げると、眼前に電柱が迫っていた。おっと、先日の嘘が本当になってしまうところだった。そのくらい、僕の注意力や集中力は削がれていた。
こんな状態で講義に出て、意味はあるのだろうか。いや、『意味はある』と信じて出席するしかない。これだけ勉強しておいて、欠席があったがために評価を下げられてはたまったものではない。
「やあ、塚島くん」
講義室に入ると、最前列で須々木が手を振っていた。僕は無言で手を振り返し、笑顔を作ろうとしてすぐ諦めた。
「どうしたんだ? 塚島くん、酷い顔だよ?」
「ん、ああ」
しばしの沈黙。この講義が大教室で行われることに、僕は安堵していた。狭い教室だったら、皆の注目を引いてしまう危険があったからだ。ここなら、なまじ話している人が多いが故に、静かな会話ができる。まあ、何も話せないというのが実情だったのだけれど。
「昨日は優海さん、来なかったね。せっかくいろいろ、賞味期限ギリギリのものを用意して待ってたのに」
心の底から心配している。それが伝わってくるような須々木の言葉に、僕は僅かに救われた気がした。しかし、『何から救われたのか』を考え出すと、再び心に暗雲が立ち込めてしまう。
出会って二、三ヶ月の須々木に、僕と優海の兄妹の間に何があったか、教えてもしょうがない。
「ちょっと、いろいろあってね」
「そうか」
須々木はそれ以上、追及してくることはなかった。
講義が全て終わってから、僕は須々木から売れ残りの弁当をもらい、ビニール袋と傘を手にして帰宅した。
「ただいま」
返答がないのは慣れっこだ。いや、慣れっこだったのだが。
「おかえり」
「ん!?」
なんだ? 今の声は?
優海の声であることは分かる。しかし、『おかえり』だと? 何事かと、僕は鞄を玄関に置きっぱなしにして廊下を渡った。自室のドアを開ける。
するとそこには、案の定優海がいた。ちゃっかり僕の勉強机に腰かけ、文庫本を読んでいる。彼女の両脇には、文庫本の山が一つずつ。片方が未読で、もう片方が既読なのだろう。
「優海、お前、何やって――」
「ああ、ごめん。今勉強中なんだ。できればあたしの部屋にいてくれない? ゲームならいっぱいあるから。あ、音立てても構わないよ」
僕はしばし、その場に立ち尽くした。
優海が、勉強をしている。それも、昨日のトラブルがあった後にだ。
ゲームの腕を落としてでも、義務教育に戻ってくれるというのか。まあ、それに伴って得られる賞金は減ってしまうが、仕方がない。
僕は咄嗟に、須々木から貰って来た弁当を差し出した。
「ほら、チキンカツ! お前、好きだっただろう?」
「そこに置いといて」
素っ気ない態度だが、僕は構わなかった。部屋中央のテーブルに弁当を置き、椅子越しに優海の方を覗き込む。さて、何の勉強をしているのか。国語か英語か数学か。できることなら僕が教えてあげてもいい。
そんな浮かれ気分は、一瞬で消し飛ばされた。
優海は確かに勉強していた。ただし、学校で習うような類のものではない。多くの銃器について、だ。
「な、なあ優海、これって何の勉強なんだ?」
「見れば分かるじゃん。今度のFPSの予選大会で使用可能な火器のリスト」
「お前、勉強は?」
「だからこれが勉強だって」
僕はくらり、と頭を揺さぶられるような感覚に囚われた。
優海の胸中には、いわゆる普通の学業に専念する気はさらさらない。好きなことだけをやって食べていくつもりなのだ。
僕は一、二歩、衝撃のあまり後ずさった。
僕が『相手を叱る・責める』ということに慣れていれば、まだ対応の仕方もあったのだろう。だが、それほど僕は自我の強い人間ではない。それに、詩織が次にやってくるのは明日の予定だ。
もう、どうしようもない。僕には、今の優海を止められない。
僕は昨日に引き続き、また尻餅をついた。そして、優海から逃れるべく、急いで彼女の部屋へと跳び込んだ。
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