第5話【第二章】

 翌日。


「ううむ……」


 僕は襖の前で唸っていた。もうすぐ詩織が、優海の相談にやって来る。しかし、それを言おうが言うまいが、優海は受け付けないだろう。この襖の向こうから出てこない可能性だってある。

 さて、どうやってこの襖の向こうから優海を引っ張り出すか。


 襖に耳を当ててみる。聞こえてくるのは、カチャカチャというベレッタの操作音だけ。音楽なし。効果音なし。それらは全て、僕に対する配慮だ。その均衡を破ることは、土足で優海のプライベートや心配りを侵食することになる。どうしたものやら。

 

 僕が眉間に手を遣ったり、部屋の中を歩き回ったり、来客用のグラスを手にしてじっとその模様を見つめたりしている間に、詩織はやって来た。


 ピンポーン。


「こんにちは」


 ああもうまったく。僕は詩織にではなく、かといって優海にでもなく、この状況にイラついていた。取り敢えず、昨日同様に『はい』と答えながら、玄関へ向かう。

 ドアを押し開けると、昨日よりも少し明るい、しかし飽くまでフォーマルな姿の詩織が立っていた。


「どうもすみません、ご足労をおかけして」

「いえ、お気になさらないでください。私共は飽くまでボランティアですから」


 そう言って、笑みを浮かべる詩織。


「何もお構いできませんが、どうぞ」


 僕は靴を脱いだ詩織に先立って廊下を歩き、僕の部屋へ続くドアを開いた。そして、仰天した。

 なんと、優海がそこにいたのだ。しかも、しっかりと正座までして。あれほどカウンセラーや相談員との接触を拒んでいたことを考えると、まるで別人だ。


 しかし、その目は鋭く、どこか攻撃性を孕んでいる。


「どうしました、優翔さん?」


 背後から声をかけられ、僕ははっと正気に戻った。無言でわきに避け、優海と詩織を対面させる。


「あら、こんにちは、優海さん。待っててくれていたの?」

「滅多に来ないお客様ですからね」


 嫌味ったらしい言い方。どこで習ってきたのかと思うほどだ。しかし、襖の向こうから出てきたということは、優海の胸中に『話をしてみよう』という意志があることの証左だろう。


 驚きのあまり蚊帳の外状態だった僕は、ようやく言葉を発する準備を整えた。


「あの、二人っきりの方がいいですか? それとも」

「もしよろしければ、優翔さんもご同席ください。なにも難しい話をしに来たわけではありませんから」

「はあ」


 つい出てしまった間抜けな声を打ち消すべく、僕は詩織に何か飲み物を、と尋ねた。しかし、詩織は持参した水筒から自分の飲み物を取り出し、『お気遣いなく』と一言。

 僕は部屋の隅で、優海同様に正座をした。


 今更ながら、僕は日頃、掃除を欠かさなかったことに安堵した。子供だけの、あるいは親が遊び呆けているだけの家庭だと、大抵屋内はゴミ屋敷になってしまうと聞く。

 それを未然に防ぎ、人並みの生活ができているのは、やはり優海が稼ぎ頭だからだ。僕も、種類は少ないながらも、毎日着ていく服を選ぶ自由がある。食料品に関しては、須々木にカバーしてもらっているけれど。


「まったく暑いわね、毎日毎日。優海さん、その格好、暑くはないの?」


 全く以てさり気ない風に、詩織は会話を切り出した。さて、優海はどう出るのか。


「本題に入りましょう、小坂さん」


 バッサリ斬った。それはもう既に準備していた言葉なのだろう、一刀両断といった感じだ。

 しかし、詩織の立ち直りも早かった。否、立ち直る以前に、全く動揺していない。一番動揺しているのは、誰が見てもこの僕だ。


「そうね。塚島優海さん、あなたはまだ義務教育を全うしていません。今すぐにとは言わないけれど、学校に戻ってはくれないかしら?」


 厳密には、義務教育の『義務』というのは、『親が子供に教育を受けさせる義務』のことだ。優海にとっては『教育を受ける権利』ということになる。


「優海さん、今現在のところ、あなたの伯父様、つまりお父様のお兄様が、形式上あなたと優翔さんの保護者になっています。彼には義務がある。そしてその義務の流れに沿って権利を行使するのが順当な人生の送り方というものです」

「お断りします」


 取りつく島のない、不穏な空気が漂う。しかし、沈黙が訪れることはなかった。攻撃体勢に入ったと思われる詩織が、せめて最後の中学三年の夏からでも、と促したのだ。

 これにも『お断りします』と即答する優海。それに対し、特別な施設に入れられてしまいますよ、と警戒心を抱かせる詩織。


「特別な施設?」


 これには流石に優海も引っ掛かったようだ。『ええそうです、特別な施設です』と、ゆっくり繰り返す詩織。

 恐らくは、児童相談所を経て、『病気で必要単位が取得できなかった』ことにでもしてもらうのだろう。そして、再び中学三年生(もしかしたら三年間)を繰り返させられる。

 だが、優海は優海で、他にやらねばならないことがある。


「あたしが施設に入ったら、兄はどうなりますか?」

「お兄様、優翔さんは、成績が極めて優秀です。生活費込みで、奨学金が出るでしょう」

「でも、それって返済義務はあるんでしょう?」


 無言で頷く詩織。


「それではお話になりませんね。だったら、返済義務のある奨学金など使わなくてもいいように、このままの生活を続けた方がいい。義務教育を受けても、あたしはeスポーツの一種としてのFPSでプロになります。誰にとっての義務なのかは、興味ありません。学校に通うメリットは皆無です」

「メリットの有無で判断しないからこその義務なんですよ、優海さん」


 詩織も綺麗に返してきた。


「それに、学校に通っても、余った時間で十分ゲームはできるのでは?」

「できません」

「それは何故?」

「プロを目指す以上、いくら練習したり、賞金を得たりしても、やり過ぎということはないからです。生活最低限の活動以外、あたしは何物にも縛られたくはない」


 すると、詩織は『分かりました』と一言。


「優海さん、貴重なお時間を、どうもありがとう」

「いえ」


 互いの意見が平行線を辿るのが見えたのだろう、詩織は優海より先に立ち上がった。優海も腰を上げ、さっさと襖の向こう、真っ暗な部屋に姿を消した。


 ふう、と息をついて、詩織は立ち上がった。僕も合わせて腰を上げる。やや足が痺れていたが、コケるほどではなかった。詩織が廊下に出た時、僕は前回のように声をひそめて問いかけた。


「これでいいんですか? まだまだ理論武装しているんでしょう?」

「ええ。でも、今日はこのくらいで」


 僕にも笑顔を向けてから、詩織は履いてきたスニーカーを足に被せた。


「こういう案件は、当然時間がかかります。私たちがもっと早くに、優海さんの望むような相談員を、それも継続的に送ることができていたら、と後悔するばかりですが」

「いや、そんな」


 一方的にお世話になっている以上、僕は、詩織の自虐的な言葉や表情を否定したいと思った。


「うちの優海が偏屈なだけです。もしよかったら、またいらしていただけますか?」

「ええ、もちろん!」


 小声ながらもしっかりと、詩織は答えた。その表情は、既に曇りないものに戻っている。


「でも、今日の私はせいぜい四十点くらいでしょうか。ひとまずは、お兄様に相談継続の依頼を頂けた、という点で」


 その自己評価はいくら何でも低い。優海のために、尽力してくれたじゃないか。

そう思ったけれど、とてもそれを口にできる状態ではなかった。僕の見込みに過ぎないけれど、詩織も『何か』を抱えているのだ。もしそこから脱却できていれば、僕も手放しで協力を要請できるのだが。


 今日の心理学の講義を思い出す。鬱病の患者に、同じく鬱病の者が相談に乗るのは危険なのだそうだ。

 優海はどこから見ても鬱病ではないだろうが、心に傷を、それも恐らくは僕よりも深い傷を負っている。


 詩織も、こんなボランティアをしている以上、何か思うところがあるのではないか。そう僕は予想した。

 詩織はどうやって、自分の問題と優海の問題に折り合いをつけ、接していくつもりなのだろうか。詩織を玄関先で見送りながら、僕はそんなことを危惧していた。


 振り返り、玄関を閉め、短い廊下を経て自室へ。そして、気づいた。


「あっ……」


 うちには、エアコンがある。机もある。ラジオもある。冷蔵庫も、洗濯機も、キッチンも。

 そしてそこで生活しているのは、大学生たる僕なのだ。

 

「そうか」


 僕は今頃になって、ようやく理解した。自分がいかに恵まれた環境にあるのかと。

 勉強ができる環境がある、ということが、いかに重要なのかと。

 いや、それ以前に、衣食住がほぼ安定していることが、いかに人を安心させるのかと。


 すると急に、僕は恥ずかしくなった。

 世の中全体で見れば、僕と優海の生活も、恵まれたものではないのかもしれない。だが、少なくとも僕は、自分の意志で勉強に取り組むことができている。優海の脛を齧りながら。

 とはいっても、勉強は勉強。すぐに換金され得るものではない。


 優海は僕のために、義務教育すら放り出そうとしてるのだ。それなのに、すぐに生活の足しにできるようなことを、僕はしていない。

 勉強が学生の本分とはいえ、成績もギリギリのところで奨学金を得ている。バイトは不可能だ。成績が下がれば、奨学金が打ち切られる。


 いったい僕は、何をしようとしてここにいるのだろう?


「くそっ」


 小さく悪態をついて、僕は回転椅子に座り、掌を軽く勉強机に叩きつけた。

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