第4話
その日の夕方。僕は早々に勉強を切り上げ、家路についた。二日連続で強盗に遭っては、たまったものではない。
雑草に包囲された敷地。錆びついた手すり。築三十年という、年季の入ったアパート。無論、エレベーターなどあるはずもなく、僕は三階まで登って行く。
「ただいま」
案の定、優海からの返答はない。それほどベレッタがお気に召したということだろう。さらに言えば、FPSの世界大会に向けて臨戦態勢に入っている、とも解釈できる。
何か熱中できるものがある優海。僕は、いつかはそれがリアルな暴力に繋がってしまうと危惧している。しかし、何も熱中できるもののない自分は、一体どうなのだろう?
勉強を頑張っているのも、好成績を維持して奨学金を貰い続けるためだ。幼い頃に抱いていた夢、デジタル・エンジニアになりたいという希望も、今や霞の向こうである。
しかし、僕が裕福な家庭に産まれ、夢を抱き続けてエンジニアになったとして、結局創ったのは『こういったもの』、すなわち『現実逃避する術を人々に提供する何か』に過ぎなかったかもしれない。
かと言って、一概に現実逃避が悪い、とも言えまい。
幸先不透明な仕事をし、不透明な賃金を得て、不透明な世界情勢を見つめる。
そんなことを繰り返すだけの現代人の『生』にどれほどの価値があるというのか。
そこまで考えてから、僕は冷たいため息をつき、鞄を机に載せた。何はともあれ、勉強を頑張らなければならないのは、それこそ確固たる現実なのだ。
僕は鞄から今日の講義ノートを取り出し、勉強机に広げ、回転椅子に腰を下ろした。ちょうどその時だった。
ピンポーン。
僕はさっと顔を上げた。勉強部屋と廊下を繋ぐ扉を開ける。
誰だ? 何者だ? まさか、強盗がこの家まで僕をつけてきたのか?
ピンポーン。ピンポーン。
居留守を使おうかとも思ったが、相手の意志は固いらしい。
「塚島さん、いらっしゃいますか?」
聞こえてきたのは、細く、しかし芯の通った女性の声だった。まだ若い。僕はできるだけ用心深く、低い声で『はい』と答えた。すると逆に、相手は安心したらしい。緊張が緩んだのが、口調から判断できる。
「私、不登校児のサポートボランティアをしている小坂詩織と申します。塚島優海さんはいらっしゃいますか?」
ああ、その手の類か。僕はその対応を幾度となくしてきたけれど、どうしても上手く断ることができない。
「あ、えーっと」
さて、どう説明しよう。
もちろん、優海はいるにはいる。だが、脳内は全くの別世界だ。誰かの訪問を受けられる状態ではあるまい。
「あの、僕、塚島優海の兄で、塚島優翔といいます。僕でよければ、お話を伺いますが」
「かしこまりました。では、お邪魔してもよろしいでしょうか」
「あ、その前に、身分証を提示していただけますか?」
「ええ、もちろんです」
僕はチェーンをかけたままで、少しだけ扉を開けた。
そこに立っていたのは、予想通りの若い女性だった。だが、予想以上に若い。僕と同い年くらいではないだろうか?
身長は僕とほぼ同じ。長髪を束ねてポニーテールにしている。服装は、スーツのような堅苦しいものではなく、しかしフォーマルで真面目な印象を与える地味なツーピースだった。
ぱっちりとした目元に、すっと通った鼻先。控えめながら笑みを絶やさない唇。他人に安心感を抱かせるに十分な印象を与える。
なるほど。確かに彼女は正規の職員らしい。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょう?」
言い淀む僕に、詩織はやや気遣わし気な表情を見せる。
「もし不都合がございましたら、また後日お伺いいたしますが」
「あっ、いえ、そうじゃないんです。優海は、今忙しくしておりまして」
「あら、そうですか」
口元に手を遣る詩織。
「それに、カウンセラーや臨床心理士の方の訪問は度々お受けしているのですが、あなたもそのような立場の方ですか?」
「カウンセラーというより、優海さんのお尻を叩いて社会復帰させることを目的とした架け橋――そんなところですね」
ああ、そうか。優海に社会復帰を促す、か。これは厳しい手合いだな。
「どうなさいましたか、優翔さん?」
「えと、気を悪くせずに聞いていただきたいんですが」
「はい」
小首を傾げる詩織。僕はそっと詩織と目を合わせ、すぐに逸らした。
「妹は、いえ、優海は、カウンセラーや臨床心理士といった方々を信用していないんです。ましてや、社会復帰をさせようという立場の方ですと、すぐに拒否される可能性が高いです。せっかくなんですが、あまり会っていただいても意味がないんじゃないかと……」
今まで、優海が心を開いたカウンセラーや相談員がいなかった、というわけではない。
しかし、大人たちはいつも、そこで油断してしまった。『塚島優海は精神的な回復を果たした』と思ってしまうのだ。そして、優海を担当するカウンセラーは代わってしまい、信頼関係を零から再構築しなければならなくなる。
まあ、優海以外にも助けを求める子供たちは多いわけで、優秀なカウンセラーが人手不足に陥るのも分かるのだけれど。
そんな都合があるにせよ、『どうせ仲良くなっても、すぐに大人は掌を返すものだ』と優海が思ってしまうのは無理もない。
そうしてカウンセラーをシャットアウトするようになったのは二年前。その『二年前』というのは、僕たち兄妹がこのアパートに引っ越してきた時と重なる。県外から越してきたため、住民票やらなにやらの処理には苦労させられた。
保護者のいない、成人にも満たない兄妹。それでも、どうしても二人で生活する必要があった。僕の勉強ならまだしも、優海がゲームで賞金を稼ぐことは、施設では到底できないことだったからだ。
賞金がなければ、僕たちが好きに使える資金は無きに等しい。それは、僕が大学に行けなくなる、ということを意味していた。
逆に言えば、僕が自分の夢を叶えるために、一方的に、優海の得る賞金に頼りっきりになっている、ということだ。
「まったく、情けないな……」
「どうかなさいましたか、優翔さん?」
「え?」
気がつくと、眼前に詩織の顔があった。
「ああいや、なんでもありません、なんでも……」
「で、優海さんはこちらにいらっしゃるのですね?」
そう言うと、詩織は無造作に襖に手を伸ばした。
マズい。優海は、賞金稼ぎを邪魔されるのをとにかく嫌う。その邪魔者が『自分の社会復帰目的とする人物だったら尚更だ。
「塚島美海さん、いらっしゃいますか?」
そう言って襖をノックしようとした詩織の腕を引き留めようと、僕は慌ててその腕を取った。そのつもりだった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「えっ、きゃっ!」
途中でつまずき、僕は転倒。そのまま詩織を押し倒すような格好になった。
「いててて……。あ、大丈夫ですか、詩織さん?」
僕は慌てて身体を離しながら尋ねる。
「あっ、はい、大丈夫です。そこまで仰るのであれば、また後日お伺いしても――」
詩織は転倒したまま、落ち着いた口調を崩さない。しかし、このタイミングで襖が向こうから開かれたのはまずかった。
「あー、喉乾いた!」
三人分の沈黙が、この場を圧迫する。
一番最初に口を開いたのは、優海だった。
「何やってんの、兄ちゃん」
「え、は、えっ!?」
「てか、その女の人、誰?」
「あっ、私は、その……」
すると、優海はゆっくりと息を吸って、
「どうぞごゆっくり」
と言って頭を下げ、スタン! と襖の向こうに消えてしまった。
「ちょ、待て! 優海! お前は何か勘違いをしてる!」
「……」
「そ、そうです優海さん! 私たち、やましいことは何も……!」
「って、やましいことって何ですか詩織さん!」
「は、はあ!? なに妄想してるんですか、優翔さん!」
「それはお互い様でしょう!?」
「うるさい!!」
この最後の優海の怒号が、会話を強制終了させた。
「す、すみません、私、ちょっと気が動転して……」
「い、いえ、こちらこそ……」
ひそひそ声に切り替える僕と詩織。姿勢を正し、各々襟や袖の乱れを直した。
「もしよろしければ、また今度お邪魔しても?」
「え、ええ! 僕もこのくらいの時間には帰ってくるようにしますから」
「では、今日のところはこれで」
そう言って、詩織はすっと立ち上がった。
「失礼します」
「はい。あ、アパートの下まで見送ります」
「いえ、大丈夫です」
そう言って、詩織はくるりと振り返った。
「それにしても、素敵な妹さんですね」
「はい?」
僕は一瞬、何を言われているのか分からなくなった。
「きっとやきもちを妬いていたんですよ、さっきは」
「そうなんですか?」
「あら、鈍いお兄様ですこと」
詩織は楽し気に、顔を綻ばせながら口元に手を遣った。
「取り敢えず、今日はありがとうございました。優海さんともお会いできましたので、今日の私は六十点、といったところでしょうか」
「なんですか、それ?」
不思議な言葉遊びに、僕は一瞬、ついていけなくなった。
「自分を肯定的に見るんです。でないと、自信も持てないし、人生を前に進められなくなります」
「そういうもの、ですか」
「ええ」
しばしの間、僕は詩織の黒い瞳に見入った。この人は一体どんな経験をして、こんな活動をしているのだろう。
「それでは、失礼します」
「あ、ど、どうも」
僕は慌てて、深く頭を下げた。顔を上げた時には、詩織は既に背を向けて、狭い階段を下りていくところだった。
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