第3話

「おかえりー、兄貴。随分遅かったね」

「ん、ただいま」


 おや、優海の方から迎えに出てくるとは珍しい。スマホを見ると、時刻は午後十一時を過ぎている。僕なら寝るが、優海だったら覚醒し始める時間帯だ。


「ねえねえ兄ちゃん、大変だ! 大変なことがあったよ!」


 と、言いながら襖を開けて出てくる優海。満面の笑みを浮かべて出てきた彼女は、しかし一瞬で険しい顔つきになった。


「兄ちゃん、どうしたの! その包帯!」

「ああ、ちょっと転んでな」

「ちょっと? それにしては派手な包帯だねえ。フランケンシュタインの怪物みたいだ」


 そう。今の僕は、素顔ではない。軽くひびの入った鼻骨を固定するための包帯、というか分厚い湿布のようなもので顔の中心が覆われている。


「まさか、強盗にでも遭ったの?」


 ギクリ。僕は自分の背筋がピンと硬直するのが分かった。しかし、優海に余計な心配はかけたくない。


「い、いや、そんなはずがないだろう? もし強盗に遭ってたら、今頃この鞄は盗られていたはずだ」


 僕は肩掛けタイプの鞄を叩いてみせた。それから鞄を開く。


「ほら、財布もカードの類も、皆無事だろう?」


 こちらの鞄を覗き込んでいた優海は、『あ、本当だ』と呟いて顔を上げた。ちょうど僕を見上げる格好になる。


「じゃあ、なんで強盗は兄ちゃんを襲ったんだろうね?」


『本当に何故だろうな』と言いかけて、慌てて僕は口を塞いだ。そうだ。強盗騒ぎにならないようにと、わざわざ『転んだ』という嘘をついたのだ。強盗に遭ったことは伏せ続けなければならない。


「ん? 兄ちゃん、何か言った?」

「いや、これは軽微な交通事故っていうか、ただ電柱にぶつかっただけというか」

「ふぅん?」


 優海は相変わらず疑わし気な目でこちらを見ていたが、これはチャンスと思い、僕は話題を変えることにした。


「と、ところで優海、大変なことがあったんだろ? いったい――」

「FPSの世界大会が開催されるんだ!」


 な、何? 世界大会?


「ああ、それは凄いな」


 適当に相槌を打って、優海の機嫌やテンションを推し測る。


「でしょ? 優勝者には十万ドルだって! あたしも腕を磨かなきゃ!」


 約一千百万円といったところか。って、その前に。


「優海、お前は参加するつもりなのか?」

「モチのロンだよ、兄ちゃん!」


 眩しく輝く優海の瞳。いつも元気で戦績報告をしてくる優海だが、今日のテンションの高さはいつものそれと比較にならない。


「それに、世界大会の本戦はアメリカでやるんだ! ずっと行ってみたかったんだよね、アメリカ! 同伴者は二名まで許可されてるから、兄ちゃんも来なよ!」

「そ、そうだな、うん」


 僕は中途半端に頷くに留めたが、優海はそこに食いついてきた。僅かに唇を尖らせ、痛いところを突いてくる。


「兄ちゃん、兄ちゃんはあたしが勝つと困ることでもあるの?」

「あっ、いやいやいや! そんなことはないよ! 頑張れるものがあるのはいいことだ、うん」

「やっぱり! 兄ちゃんならそう言ってくれると思ったよ!」

「まずは国内予選だよな。いつなんだ?」

「あ、ちょい待ち。今調べるから」


 嬉々として、スマホで検索を始める優海。その姿を、僕は複雑な心境で見つめていた。

 きっと優海のゲームプレイ時間は、今より圧倒的に多くなるだろう。テレビ越しにとはいえ、殺人を犯すのだ。それがゲームの中で、合法なのか非合法なのかは分からないけれど。

 仮想世界でとは言え、ますます優海が暴力行為に突っ走っていく様は、あまり考えたくはない。


「なあんだ、まだ先じゃん!」

「国内予選か?」

「うん。今年の九月だってさ。ったく、待たせやがるよなー」

「……」

「兄ちゃん? どしたの?」

「えっ? ああ、いや」


 僕は軽く首を縮めて、『頑張れよ』と告げて優海の肩を叩いた。


「あたぼうよ! さてさて、ベレッタちゃん、今日もたくさん殺しましょうね~」


 そんな不吉極まりない言葉を発しながら、優海は襖の向こうに消えた。


「ふうーーーっ……」


 僕はベッドに横になり、今日あったことを振り返った。いや、振り返ろうとしたのだが、強盗に襲われたことが、どうしても筆頭に来てしまう。


 微かに聞こえる、コントローラーの操作音。テレビゲーム用のコントローラーの音より、硬派で金属質な音。

 そしてそれは、僕と優海が体験した、暗黒時代を思い出させるのに十分な時間と深さを有していた。


         ※


 十二年前まで、すなわち僕が六歳、優海が三歳の頃まで、僕たちには両親がいた。だが、『親らしい両親』とは言い難かった。

 母はパチンコと競馬に明け暮れ、それを正そうという使命感に駆られた父は、母に度々暴力を振るった。

 そんな父もまた、酒がないと鬱になり、まともに口が利けなくなるほどの、アルコール依存症だった。


 ある夜、母は自衛のために包丁を持ち出した。あのギラリ、という妖しい輝きは、忘れようにも忘れられるものではない。殺気だった母の目から発せられる、不気味な光もまた同様だ。

 そんな母に向かい、父はものを投げつけることで抵抗しようと試みた。もしかしたら、父の方こそ母を殺すつもりだったのかもしれない。


 誰も死ぬことはなかった――その日は。

 しかし、父の投げた湯飲みが母の額を直撃し、昏倒させたのはまずかった。

 僕は咄嗟に目を逸らしたけれど、まだ幼かった、否、幼すぎた優海は、その現場をじっと見つめていた。


 飛び散る鮮血。轟く悲鳴。背後に倒れ込む母。

 そんなものは僕の想像だけれど、今思えば、その時はきっと似たような状況が発生していたに違いない。


 直後、騒ぎを聞きつけたアパートの隣人たちが止めに入り、事態は収束した。

 そう、収束したのだ。大人たちの間では。しかし、それは両親の離婚に繋がるものであり、僕と優海にとっては新たな台風に呑まれるようなものだった。


『三つ子の魂百まで』という言葉がある。三歳までに脳にインプットされた事柄は、百歳になるまで、恐らくは死ぬまで、ずっと変わらずにその人物の思考や言動に影響を与えるものだ、ということを諭した言葉らしい。


 その、まさに三歳の時に、優海は父と母の暴力の最中にいたのだ。

 自分が虐げられたわけではない。それは僕も同じだ。しかし、親同士の暴力の応酬を眼前に展開されて、正気でいられる幼児がいるだろうか?


 こうしたストレスは、優海の場合、『自らの暴力性』という形で覚醒しつつあるのかもしれない。僕はそう思っている。

 十五歳。世間でいうところの『難しいお年頃』に入った優海にとって、暴力とはいったいなんなのだろう。今はゲームで発散しているであろう、暴力衝動。それがもし、他者や周囲のものに向けられたとしたら。その時僕は、優海の暴力性を食い止めることができるだろうか。


 カチッ、とコントローラー、ベレッタ92の、弾倉を取り換える音がした。今朝初めて聞いた音であるはずなのに、もう聞き分けることができる。


 いったい僕と優海の兄妹は、どこに向かっているのだろうか。

 暴力の渦の淵に立って、前後に揺れ続ける僕と優海。これから先、何が起ころうとしているのだろうか。


 そんな当てもない、しかし深刻な問題にぶつかって、僕は後頭部に鋭い痛みを覚えた。ストレス性の頭痛だ。こんな頭痛が治る日が来るといいのだが。

 そう思った直後、脳は思考を停止し、睡眠モードに入った。


         ※


「塚島くん」

「……」

「塚島くんってば」

「あ、須々木くん」


 翌日。午前中の講義が終わって、昼休みになった時のことだ。


「何かあったのかい? 二限に遅刻してきて、しかもほとんどノートを取らないなんて」

「え、あ、ああ。ごめん」

「いや、君が俺に謝ることじゃないと思うけど」


 不思議そうに僕の顔を覗き込んでくるのは、大学で友人になった、件の須々木武人だ。礼儀正しく穏やかな性格なのに、一人称が『俺』というところが、なんともギャップを感じさせる。いかにもスポーツ青年らしく、健康的に日焼けした肌に白い歯が眩しい。


「今日も学食でいいかい?」

「ああ。僕は何でも」

「りょーかい」


 僕と須々木の専攻は、工学部の電子機械開発学科。『開発』というとなんとも夢があるが、その『開発』のための基礎勉強をみっちりやろうという、案外地味なコースだ。

 今の僕たちは一年生だから、専門的なことは表面をなぞるくらいで、文系の科目でも単位認定される。僕と須々木は偶然、哲学・心理学・言語学が被っていた。


「それにしてもさ、塚島くん」

「ん?」

「その顔の怪我、随分大変そうだねえ」

「いや、電柱にぶつかっただけだから……」

「それはさっき訊いたけど?」


 ギクリ。さっき訊いたのなら、また訊くことはないじゃないか。それとも、いや、十中八九、僕がボロを出すのを狙っているな。


「取り敢えず、列に並ぼう。須々木くんの好きなから揚げ、なくなっちゃうよ?」


 そう言って、僕は無理やり話のベクトルを捻じ曲げた。

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