【3】

 白髪の数学教師が、ぼそぼそとつぶやいている。

 あの日以来、何かが変わってしまった。強く、もっと強く、兄さんよりも強く。それが私の想いだった。けれども、貴島は圧倒的な印象を私の頭の中に残していった。ただ勝つだけでなく、私の中身まで見抜いてしまった。悔しい。本当に悔しい。

 まず私がしたことは、自分のノートを作ることだった。兄さんのノートはそれ自体完成されたものだと思う。だからそこに書き加えるのではなく、自分なりの研究を独立したものとして残すのだ。

 ということを、授業中にしている。先生はまったく生徒を気にしないので、何をしていても注意されない。そして何を言っているかほとんど聞き取れないので、授業はまじめに受けるだけ損なのだ。

 定規で縦横に線を引く。81マスが出来上がれば、将棋盤の完成だ。たったこれだけの広さの中から、数えきれないぐらいの棋譜が生み出されてきた。将棋は異様に奥が深い。

「起立」

 気が付くと、授業が終わっていた。あっという間だった。

「佳乃子さあ」

「ん?」

「ずーっとなんか書いてたよね」

「うん。ちょっとね」

「将棋?」

「ま、まあね」

「テストは大丈夫?」

「あー、どうかな」

 イヨリは呆れながらも心配のまなざしを私に向けている。一年生の時は大変お世話になってしまった。私は客観的に見て勉強が得意ではない。

「でもまあ、どうせ授業聞いてもわからないし」

「何という開き直り。このままだと再試とか補講で将棋する暇とかなくなるよ」

「うー」

 イヨリはいつも現実的だ。そんな彼女に助けられることで私は何とか生きている気がする。

「計画的に、ね」

「はい」

 私の頭の中は、将棋の計画でいっぱいだ。そこに勉強をねじ込むのは大変だけれど、確かに今それを疎かにすると後々もっと大変になってしまう。

「ま、佳乃子は結局は何とかしちゃうよね。不思議と」

「底力ってやつね」

 チャイムが鳴った。次は古典、厳しい先生なのでちゃんと受けないといけない。



「きじまのぶひろ……ああ、あれか」

 いつもの病院にて。兄さんは貴島のことをあれ呼ばわりした。

「どんな人だった?」

「生意気だった。一つ下だけど」

「え……そっか、同学年か……」

「会ったのか」

「引っ越してきたんだって」

「へー。どこの代表だったかな……。対戦した時は負けたんだけど、やたら褒められて。振り飛車っぽい手がいいって」

「ふうん」

 はっきりとその光景を想像することができた。態度からすっかり先輩だと思い込んでいたが、きっと誰に対してもあのような感じなのだろう。

「やたらと馴れ馴れしかったけど、将棋はしっかりしてたかな。ベスト8とか行ったんじゃないかな」

「そっか。……勝てるかな」

 兄さんは私の顔をしばらく見つめて、首をかしげて、そして頷いた。

「頑張ればね」

「良かった」

「まあ、あいつがどれぐらい強くなったかは知らないけど。勝てない相手なんてそうそういないもんだ」

「ふふ、兄さんの全国での成績では説得力ないけどねえ」

「ははは、そっか」

 兄さんはこうしていると、とても元気そうだ。今すぐにでも退院して、将棋だってできそうな気がする。けれども父さんの様子を見る限り、そんなことはないのだ。日に日に眉間の皺は深くなっていく。私には心配させまいと何も話さないのだろうが、もう十分心配している。

「まあ、秋は出られるだろうし、俺も貴島との対戦楽しみだなあ」

「秋出るの? 受験は?」

「病院で飽きた。俺、学校行ってない方が成績伸びてるかも」

「そうかなー。私も入院した方がいいかな」

「佳乃子はどっちにしろ勉強しないだろ」

 兄さんは私のことをよく知っている。私も兄さんのことをよく知っているつもりだ。けれども今、どんな苦しみを抱き、何を解決すればいいのか、それを知らない。

 とりあえずは、できることをするしかない。こうして毎日病院を訪れること、そして、将棋をがんばること。

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