【2】
朝七時起床。隣の部屋から父さんのいびきが聞こえてくる。洗面所に行き、顔を洗う。鏡の中には、まだ少し眠そうで、釣り目でちょっと意地悪そうな顔。
キッチンに行き、牛乳をレンジにかける。クロワッサンを二つ、お皿に乗せる。母さんがいなくなってからは、これが日曜日の定番になった。ただ今日は、いつも一緒に食べていた兄さんがいない。
ラジカセのスイッチを入れる。父さんは昔から「食事中にテレビを見るな」と口酸っぱく言っていた。そんなわけで我が家の食卓では、ラジオの音が流れるのが普通である。
ホットミルクが喉からお腹を温めていく。ラジオからは「午後から雨模様でしょう」と。折り畳み傘を忘れないようにしないと。
「起きてたのか」
びっくりして振り返る。ぼさぼさの髪をかきむしりながら、パジャマ姿の父さんが立っていた。
「今日、大会だから」
「ああ……そうだったか。何のだっけ?」
「植木鉢大会」
「あれか。頑張れよ」
そう言うと父さんはリビングを出ていった。また寝るのだろう。
食器を洗い、ラジカセのスイッチを切る。忘れ物がないか確認。財布の中に支部会員証が入っているかもチェック。前回忘れて割引が利かなかったのだ。
「行ってきまーす」
誰も聞いていないとわかってても、言わないと出ていけない。
駅までは歩いて十分。日曜の朝は本当に静かだ。途中で、青いジャージのおじさんが、私を追い抜いて行った。それ以外は誰にも会わなかった。
無人駅の古い機械で、切符を買う。裏は白い。私以外には誰も待っていない。数分後やってきた列車にも、数人おばあさんが乗っているだけだった。
鞄の中から、ノートを取り出す。兄さんの四間ノートは、予想以上に深い考察がされていた。単なる定跡の研究だけではなく、相手が間違えやすい手をどう咎めるか、プロは指さないがアマには有力な変化、相手心理を揺さぶる端歩のタイミングなどがびっちりと書き込まれていた。
兄さんは小中高と全てで代表になった県内屈指の強豪だ。普段からずっと将棋のことばかりで、昔はそんな姿を馬鹿にしていた。兄さんは全国大会でほとんど勝てないことに悩んでいて、いつかベスト4ぐらいにはなりたい、とよく言っていた。全国の高校生の中でベスト4なんて大言壮語もいいことだと思ったけど、それに見合うだけの努力もしていた、と思う。
兄さんへの見方が変わったのは、自分も全国大会へ行ってからだった。中学の女子大会、県予選で参加が私一人だったので一局も指さずに代表選手になった。最初は旅行できてラッキー、ぐらいに思っていた。けれども大会に行ってみて、一勝もできなくて、負けることの悔しさを知った。私より強い人は、私より努力しているのだとわかった。だから、私も努力した上で勝てないのかどうか知りたいと思ったのだ。
努力は、どんどんと結果に結びついていった。地元の男子にも勝てるようになり、ついには兄さんに勝つことを目標にできるようになった。高校一年目は、まだまだ遠いと感じた。けれども秋にはいいところまで勝ち上がって、もう少しだ、そう思った。けれども、兄さんとの対戦はできなくなってしまった。
だから私の今の唯一の目標は、トップになることだ。高校県代表。女子でそれを成し遂げた人は、あまりいないらしい。だけど、全く届かない目標というわけではない。兄さんが出られない以上、ハードルは低くなったとも言える。
電車で約40分。そこからバスで10分。ようやく目的地の公民館に着いた。受付の前にはすでに何人か並んでいて、横には賞品の植木鉢が積み上げられていた。この大会はどこかにあるという「植木大会」に対抗して作られたのだが、半分冗談みたいなもので、植木鉢が欲しいという人はあまりいない。みんな将棋を楽しみに来るのだ。
「あ、佳乃子ちゃん久しぶり」
受付のお姉さんが、微笑んでくれた。よく会うのですっかり顔なじみだ。
「お久しぶりです。A級の支部会員で」
「はい、頑張ってね」
会場に入ると、いつも通りの面々が見える。一番多いのがおじさん。あとは子供たち。若者は少なくて、女性は数えるほどだ。
いつもは兄さんと一緒なので、大会に一人で来るのは初めてだったりする。予想よりも心細かった。一人で椅子に腰かけて、詰将棋の本を開く。ノートは、何となく見られたくなかった。
この大会はスイス式トーナメントで行われる。同じ勝ち数の人同士が当たるようになっていて、できるだけ細かく順位が付くようになっているのだ。負けた同士でも次の対局が付くので、実戦練習にはもってこいと言える。
開催委員長の挨拶が終わり、対局の組み合わせが発表された。名前を呼ばれ、指定された席に移動する。私の前に座ったのは、初めて見るおじさん。こちらを確認するなり、少し目を丸くした。会場に若い女性は私一人、A級に限って言えば女性自体私だけなのだからまあ当然の反応だろう。
振り駒をして、先手になった。
「お願いします」
礼をして、対局が始まる。私は角道を止め、相手は右銀をどんどん出てきた。棒銀だ。最も定跡の知識が試される戦型と言ってもいいだろう。
思い出しながらだけではなく、局面をしっかりとみて考える。これは、兄さんに教えられたことだ。相手が定跡を外した時も、流れの中で自然に対処できるように。兄さんは研究を重ねるだけでなく、臨機応変な対応でも秀でている。
駒がどんどん交換されていく。これは振り飛車ペース。あとは気を抜かず、仕上げていくばかりだ。時間をきっちりと使い、逆転の目がない順を探す。一気に攻めなくてもいい。相手の一発狙いを慎重につぶしながら、丁寧に、丁寧に……
「いやあ、負けた」
おじさんが頭を下げた。勝った。そのまま相手は立ち去ってしまい、感想戦はなかった。
午前中にもう一局やるようで、勝った者同士で次の対局が組まれた。指示された席に行くと、あまり歳の変わらなさそうな男子が座っていた。なぜか、私の顔をニヤニヤしながら見ている。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「飯伏さんって言うんだね。幹太の妹さん?」
「え」
まぎれもなく幹太は兄さんの名だ。私の方は、このにやけ男のことはまったく見覚えがない。
「……そうですけど」
「いやあ、やっぱりそうなんだ。全国大会でよく幹太とは話したんだよ」
「そうなんですか」
「今年からこっちに引っ越してきたんだ。幹太に会うの楽しみにしてたんだけど……」
「兄さん今日は来てませんよ」
「そっかあ。残念だなあ」
ふわふわしてへらへらしているけれど、全国で知り合ったということは彼もまた全国レベルということになる。心の中で、気合のギアを一段階あげた。
「あ、俺は貴島ね。貴島伸広」
「……佳乃子です」
「かのこね。覚えた」
きじまのぶひろ、私もその名前を覚えた。貴島が駒を振り、私の後手に。
「じゃあ、お願いします」
「はい、お願いします」
初手から、飛車先の歩を伸ばされた。居飛車党宣言だ。そうなれば私も、気合で飛車を勢いよくスライドさせる。四間飛車で勝負。
貴島は、するすると穴熊に囲った。四間飛車には一番多い、がちがちに固める戦法だ。当然対策も考えてある。
貴島も慣れた道なのだろう、ほとんど時間を使わずにぽんぽんと指す。駒の持ち方が独特で、中指に乗せて半回転させるようにして駒を落とす。かっこいいとは思わないが、こなれた感じがちょっと憧れる。
勝負所がやってきた。桂馬を跳ねるか、端歩を突くか。この後相手は攻めてくるだろうから、二つとも入れることは難しい。桂馬だと、直接中央から攻める手に厚みが加わる。その代わり終盤、端攻めが遅い。端歩だと端攻めの味はできるけど、すぐ攻めるのは断念しなければならない。
私は、端を突いた。これは兄が得意にしていた手だ。私が居飛車側を持った時は、この手の方が嫌だった。
ノートにも、この変化のことは詳細に書かれていた。勝ちきるのは大変だが、落ち着いて指せば、十分戦えるはず、なのだ。
ただ、貴島は私以上に落ち着いていた。攻め急がない。ノートに書かれていない、穏やかな手を続けてきた。ここから先は完全に自力だ。ゆっくりと。じわじわと。慎重に……
中指から、零れ落ちた歩。
まったく読んでいない手だった。
焦点をそっと閉じる、最も小さな駒。どの駒で取っても、瞬間形が悪くなる。すぐにどうこうなるのか、それはわからない。ただ、嫌な予感がする。どうすべきか……
時計の音に急かされ、私は攻めの一手を放ってしまった。歩を放置したままでは、効果的にはならない、相手の思うつぼだ。貴島の、ふっと息を吐く音が聞こえた。ギアが入れ替わる音ではないかと思った。
苦しくなった。攻め始めたら、休んではいけない。反撃されたら、穴熊の暴力は止まらなくなる。
貴島は、間違えなかった。最善かはわからないが、悪い手は一切指さなかった。ぼろ負けになった。三手詰めになるまで指して、投了した。
「居飛車党でしょ」
開口一番、貴島はそんなことを言ってきた。私はびっくりして何も言えない。
「何か……お兄さんの真似しようとしてる?」
「……ないです」
「ん?」
「そんなこと、ないです」
図星だと、認めるのは難しい。特に、将棋に負けた後は。
「そっか。ごめん」
「……また機会あれば、お願いします」
駒を直し、立ち上がった。感情が渦巻いて、爆発してしまいそうだった。ただ、はっきりと分かったことがある。貴島より、強くならなければいけない。
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