四間少女
清水らくは
春
【1】
四手目を前にして、私は瞼を閉じた。
右手はいつも通りに、飛車先の歩をつかもうとする。それを、心で抑制する。決意。これからはもう、居飛車は指さない。
息を吐き出し、右手をスライドさせる。6筋の歩を、すっと押し出す。角道を、止めた。
景色が全く違う。この瞬間飛車も角も攻めを断念している。他方相手はどちらも自由で、前へ前へという姿勢が見える。振り飛車というのは、卑屈だと思っていた。
感傷的だというのはわかっている。けれども、そうせずにはいられなかった。
慣れない形に、いつもより指し手がちぐはぐになる。たぶん今は、投手が野手に転向した直後のようなものなのだ。
「負けました」
いいところが全くなかった。負けるのはいつものことだったけれど、自分らしさも出せないのは、悔しい。
その後も何局か指した。いつも勝てる人には勝てた。いつも負ける人には当然負けた。そして、いつもいい勝負をする人にも負けた。
遠回りをしているのだろう。ただでさえ私はそんなに強くない。それなのに戦法を変えたりして、馬鹿なのだろう。
それでも私は誓ったのだ。兄さんの想いを背負って、四間飛車を指すのだと。
視線が吸い寄せられる。
「どしたの?」
立ち止まった私に気付いて、イヨリが振り返る。でも、私はそれに対して釘付けのままだった。
「あー、それいいね」
落ち着いたダークブラウンのサッシュシャツ。今私たちの目の前にあるものは、魅力的に光っている。値段もそれほどではないし、着てても怒られることはない地味さだ。ただ……
「我慢する」
「えー、似合うと思うよ」
「買うものあるし」
「ふうん」
最近、服とか小物とか、そういうものに全然お金をかけていない。道場に毎週通うようになって、あとは定跡の本を買ったり。全てが将棋に消えていく。
「なんかさー、佳乃子最近目が血走ってるよね」
「え、え、充血してる?」
「鋭くなってる。きーって」
そう言ってイヨリは、自分の目の端を人差し指で釣り上げてみせる。
「そんなことないよ」
「なってる。……やっぱり、お兄さんのこと?」
「全然大丈夫だから。ちょっとだけ体調わるいんだよ、たぶん」
街並みがゆっくりと過ぎていく。こうしてイヨリと歩く道は、ずっと変わらない。ただ、変わってしまったことはたくさんある。
「佳乃子はさあ、頑張り方が不器用なんだから。無理にでも休む時は休みなよ」
「……うん」
いつもの交差点で手を振って、「また明日」と別れる。イヨリとは小学生の時からずっと、こんな毎日を繰り返してきた。たぶん来年までは続くだろう。
変わってしまったのは、私の家だ。マンションの六階、3LDK。玄関を抜けても、誰もいない。二年前から父さんは事務所を構えて仕事をするようになり、家にいる時間は極端に減った。当時は突然頑張り始めたので驚いたけれど、今なら理由がわかる。
先月から、兄さんがいなくなった。ずっと体調が悪いのは知っていたけれど、入院するほどだとは思っていなかった。私は病名を知らされていないけれど、何となく簡単でないことはわかっている。
鞄を投げ捨てて、ベランダに向かう。帰宅後まずすることは、洗濯物を取り込むことだ。これは兄さんの仕事だったから、気を抜くとすぐ忘れてしまう。空は少し曇り。雨が降らないうちにいろいろと終えなければならない。
テーブルの上に置いてある、新聞の切り抜きを取り上げる。うちでとっている三紙の、将棋欄。父が読み終わったら切り取って、毎日ここに置いておくのが取り決めだった。それをファイルに挟み、着替えと一緒にバッグに詰め込む。
滞在時間は十分ほど。家を出て、自転車にまたがる。最初はバスで通っていたけれど、運賃がばかにならないとわかった。愛車は昔少し奮発して買った二十一段階切り替えのマウンテンバイクだ。坂道には強いけれど、荷物を運ぶのには不便。
住宅街を抜け、公園を横目に進むと、きつい坂道が待っている。どういうわけか大きな病院というのは山の上にあるのだ。ギアを切り替え、一気に駆け上がる。まあ、だいたいその決意は途中でくじけるんだけど。
自転車を押しながら、病院の前にたどり着く。この街で一番大きな建物かもしれない。私が生まれた時から、ずっと同じようにそびえ立っている。
受付を通り、脇の階段から三階まで上る。最初は異様な雰囲気に緊張したけれど、もう慣れてしまった。病院独特のにおいも、何となく好きになってきた。一人一人違うものを抱えながら、生きようとする活気が伝わってくる。
廊下を少し進んで左側。扉を横に押して開けると、そこは四人部屋だ。手前右の一つは空きベッドで、兄さんは奥の左。
「おう」
向こうから気付いて声をかけてきた。本を読んでいたようだ。
「どう」
「調子いいよ。不思議なくらい」
実際兄さんは見た感じどこも悪そうではない。本人も「何で入院しているかわからないんだ」などと言っている。でも、歩行が困難になったり、突然嘔吐したりすることがある。また、視力が悪くなっているようだ。それでも兄さんは、本を読み続ける。いつかまた、大会に出る日のために。
「急戦の?」
「そう。最新の。朝父さんが持ってきてくれた」
父さんは、時間のあるときは事務所に行く前に病院に寄っている。今日は読み終わった棋書を渡したようだ。
「角道あけたままのやつね」
私も読みたかった本だけど、一番最後ということになるらしい。仕方がない。
「着替え置いておくよ」
「ああ」
「明日も来るけど、いるものある?」
「いや」
兄はそっけないふりをしているが、家族が来るのを心待ちにしているよ、と看護士さんから聞いた。元々あんまり素直じゃないのだ。
「本当にないのー?」
「うん。あ、それより佳乃子、これ持ってけ」
「え」
兄はごそごそと引出しから一冊のノートを取り出した。表紙はぼろぼろで、黒いマジックで「四間ノート」と書かれていた。
「これ……」
「研究を書き溜めていたんだ。俺はしばらく指せないから、持ってろ」
「でも、大事なものなんじゃないの」
「大事だからこそ生かされなきゃ、さ」
ノートを持ったまま、答えを探した。確かに兄さんは、しばらく大会に出ることなどできないだろう。いつかはまた出てほしい。だから、ノートはずっと持っている方がいいとも思う。けれど、このノートにはいろいろな兄さんの知識が詰まっているに違いない。それを吸収すれば、私も強くなれるだろう。
「いいのかな」
「何が」
「私、兄さんよりも強くなるかもよ」
「なれるもんならなってみな」
その一言で、受け取ることを決意した。負けず嫌いは自覚している。
「じゃあ、借りるね」
「ああ。頑張れよ」
兄さんは普段からよく研究していた。私はそれを見て、憧れていた。口に出すことはないけれど、兄さんに勝つことは、すごくすごく大きな目標なのだ。
本当は、兄さんとともに競い合っていたい。相手が休んでいる間に前に進むのは、卑怯な気がする。でも、私が休んで待っていても、兄さんは喜ばないだろう。
「もちろん、超頑張るから」
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