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 懐妊したことは、それからしばらくのちに認められた。あまりに簡単で、拍子抜けしてしまうほどであった。住居も、今までの偽りの身分とこれからの身分も与えられて、帝都から離れた街に落ち着いた。オストエンデの方まで視野に入れてはいたけれど、いくらある程度の訓練も受けているとはいえ、長旅は身体に良くないと窘められた。

 子どもが皇家の者の血を受けたのは確かだから、傍には庭番が居る。一人はステラという。今まで、皇妃の、カノンの近くに控える一人だった。彼女は、子が生まれれば、その子につくことになる。長く続く慣習だ。それに異を唱えるつもりもなかった。

 初めに、「思い切ったことをなさいましたね」と言われた。以前は人を揶揄するようなところがあったが、エリザと共に来て邸に落ち着いて以降はそんな素振りも見せない。

 幸いに、大きな災厄は無かった。天候が安定しているから、食糧供給も安定していた。だから、国民にも特段不満は見当たらない。時折見る旅商人や、街の人々もずいぶん笑顔で居る。それだけのことで、エリザも安堵した。

 そうしてまた、実にあっさりと、エリザは時期を迎えて身二つになった。安産で、庭番も経験豊かな産婆も居たが、彼らをして驚くほどに、エリザは案ずることなく子を迎えた。肥立ちも良かったから、だからこそ彼女らの助言もよく容れた。つい自身で動こうとしてしまうのは、エリザの悪い癖だった。

 子どもも、……元気な娘だ。名前は迷ったけれど、皇妃が好きだと言った花の名から採ることにした。

 気負うことの無い穏やかな生活は一年になろうとしている。

 しかしながら、帝都に、また、……以前に遭ったのは二十年以上前だ――病が流行っていると報せがあった。老若男女問わずに罹患する。発熱以外に目立った症状も出ないから、気づいたときには解熱剤を処方し、熱が引くのを待つよりない。それだって、効かぬ者も多く死者も出る。以前に流行ったときは、時の皇妃や、退任していた将軍など、中央宮やそれに連なる貴族の邸からも斃れる者が出た。現皇帝の母もだ。

 まだ、こんなことがあるのか。

 エリザにわざわざ知らされたのは、他でもない。生まれたばかりの子に病が降りかからぬように留意すること。客人を無暗に迎えぬことを厳命された。

その折に中央宮からも病に斃れた者が出たことも伝えられた。リヒャルト皇子は隔離されたとも知らされた。

「なら、誰が?」

 まさか皇帝ではあるまい。一度罹った者は、再度に発病することは無いと聞く。それに、そうであるならば、庭番である彼女がこんなに落ち着いているものか。

「……妾妃様です」

「ルナリエル様が?」

「ええ。子も生まれたばかりで弱っていたのでしょうね」

「生まれたばかりって……妾妃様は、私よりも先に懐妊していたはず。そんなに、お悪かったのですか」

 そういえば、生まれたとの知らせも無かった。そんな話も聞かなかった。もしや何事かあって、故意に知らされなかったのかとも思ったが。

「……エリザ。あなたには教えておきます。他言はしないと信じてるからよ。正直、わたしはちょっと、いいえ、本当に信じられないし。クラウス殿から言われたのじゃなきゃ信じるものですか」

「何が、あったのですか?」

「アゼルヴァイド陛下の第二皇子は生まれたばかり。妾妃様の妊娠期間は、普通よりもたぶん半年くらい長かったわ」

「無事に、お生まれには、なったのでしょうね」

 侍女はそれには頷く。

「そう。また、元気な男の子」

「それなら、……何の問題も無いでしょう」

 ステラがわずかに俯く。そうして、思い切ったように顔を上げた。

「エリザ。御子は、銀の髪をしているそうです」

「……何ですって?」

 ルナリエルの、妾妃の髪は真っ白だった。それは、彼女が受けた禍にも関係しているけれど、彼女はそんな素振りはまるで見せなかった。そうなる前は金髪で、彼女の弟たる現フランドル伯もまた、同じ色の髪をしている。

「それは、だって」

「間違えようのない銀の髪。白でも金でも黒でもなくって。髪も、歯も揃っていたとか。少なくともクラウス殿はそう言いました。皇妃殿下と同じ銀の髪だって」

「……何故?」

「判りません。少なくとも、そこまでは伝えられていないわ。あなたこそ、何か知っているのではないの? だから、あの人たちから離れたのではなくて?」

「それは違う!」

 叫んでしまって、唇を噛んだ。離れたかったのではないのだ。違う。

 それでも、あの折に思ったではないか。子ども染みたことをした妾妃ルイーゼは許せないと。あの心も、よく分かったでないか。あまりにも、見えなさすぎる故の疎外感は、傍に居る故に辛い。想いがあるから辛いのだと。

「……皇帝陛下は、妃殿下が生んだことにするみたい。発表する前に妾妃様が亡くなってしまったし、このところ妃殿下もほとんど外に出てなかったから」

「そんな」

「妃殿下は妾妃様が亡くなってひどく取り乱しているそうよ。少しでも何かさせないと、ダメになってしまうかもって。ルイーゼ様のときもそんなことは無かったのにね」

 ルナリエルでなければ駄目なのだと。散々、カノンはそう言っていた。エリザは庭番だから。庭番は、それ故に出来ないからと。それは、そういうことか。何をどうしたかは分からない。床を共にしただけで、そんな風になるとも思えないけれど。

 エリザには、見せなかった、見えなかった、何かが在ったのだろう。

「わたしには、分からないわ。やっぱり。正直怖い。何があったかも知らないけど。何にせよ、あなたのしたこと、正しかったのかもね」

「……いいえ、ステラ。正しいとか、そういうことじゃない。私は、我儘を言ってしまったの。カノンさまは、それを叶えてくれただけよ」

 ステラは、幼さの残るような顔に、呆れたような、困惑したような表情を浮かべた。

 今ならばようやく判る。カノンが、エリザがルイーゼと同じことをするだろうと懸念したであろうことが。実際そうしてしまったろうことも。あのままあそこに居たら、多分、件の子が、生まれるよりも早く。いつ生まれるか、カノンにも判らなかったのだろう。

 エリザは、ルイーゼよりもよほど簡単に出来たろう。妾妃を手に掛けることなどきっと厭わなかった。可能であったかは別にして、皇帝もだ。自身の命など、あのときならば簡単に捨てたに違いなかった。カノンの想いとは裏腹に。

「でも、そう言って欲しかった。教えて、欲しかったわ」

「……エリザ。それこそ、我儘ではなくて」

「そうね。そうだわ、本当に」

 赤子が泣く声が聞こえた。女中が呼びに来るより速くそちらに向かう。乳母はまだ雇っていない。この時分では遅くなりそうだ。幸いに、まったく幸いにエリザの状態は良い。

 部屋の内では、赤子が元気に泣いている。何も知らずに泣いている。だから。抱き上げると同時に泣きたくなった。

共に、声を挙げて、泣きたくなった。

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エリザ 高野 圭 @veritas

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