天才の愛し方

夢崎かの

天才の愛し方

「ただいま」


 いつもと同じ時間。主人が帰ってきた。


「おかえりなさい。ご飯の用意、できてますよ。お風呂も沸いてます」


 私もいつものように玄関まで迎えにでる。セリフもここ数年、一字一句、変わっていない。


「ご飯とお風呂、どちらにしますか?」


 主人は、何も言わず、私に脱いだ上着とカバンを渡して、自分の部屋へと入っていった。質問への返事はない。

 しばらくすると、部屋の中から、パソコンのキーボードを叩く音が聞こえてきた。


 彼はいつも、食事は自分の部屋の中で食べる。作業の合間に食べるのだ。だから、いつも部屋の前にご飯の乗せたお盆を置いておく。朝には、綺麗に空になっているので、食べてくれてはいるようだ。すべてにおいて無駄を嫌い、効率を重視する彼らしい行動だ。


 結婚して5年。ずっと、こんな感じだ。いや、大学2年の時に付き合い始めてから、こんな感じだった。


 彼は、天才と呼ばれているプログラマーだ。ハンドルネーム「Gamma1900」と言えば、業界では知らない者はいない。

 大学時代から研究していた人工知能の論文が高い評価を受け、一躍、注目を集めるようになった。


 卒業後は、ベンチャーキャピタルの支援を受けて、自分で会社を立ち上げた。会社といっても、他に社員はいない。自分1人の研究室といった方が正しいだろう。


 彼が今、開発している最新の人工知能は、近い将来、人々の生活を飛躍的に向上させると、テレビで紹介されていた。

 でも、そんなことより、私は彼と一緒に食事をしたかった。何気ない会話を交わし、お風呂に入って、眠りにつく。そんな普通の生活が欲しかった。


「フェェ。オギャー」


 寝かしつけていた娘の雫が起きたようだ。慌てて、ベビーベッドに駆け寄り抱き上げる。すると、すぐに泣き止んでくれた。本当に手がかからない、気立ての良い子だ。

 お腹を空かせて泣きだす前に、離乳食を与える。今日はリンゴのすりおろしだ。


 子どもが欲しいと言ったのは、2年前のこと。結婚して3年が経ち、そろそろいいのではないかと思ったからだ。

 実家に暮らす両親も、それとなく孫の顔が見たいとアピールしてくるようになっていた。


 何より、私自身がまともな会話のない彼との生活に寂しさを感じていた。子どもが生まれれば、何かが変わるかもしれない。そんな淡い期待があった。


 しかし、彼からの回答は、私の想像の遥か上をいくものだった。


「体外受精をして欲しい」


 最初は、何を言ってるのか意味がわからなかった。彼曰く、受精するかしないかわからない性行為は、効率が悪いと言うのだ。


「1年頑張っても、妊娠する確率は約80%らしい。実に非効率だね。子どもが欲しいだけなら、体外受精でいいだろう」


 お金と精子は提供するからと言われた。


 どこまでも、効率を優先する人。人の気持ちを理解しない冷たい男。効率のために、私のプライドがズタズタになったことさえ気づきもしない。


 主人と出会ったのは、大学2年の頃。友達に誘われた合コンだった。


「美嘉、今度の合コンは、帝工大だよ。就職率ナンバーワン。将来性、抜群だからね」

「そうなの?」


 合コンを仕切る真由が、どうしてそこまで張り切っているのか、よくわからなかった。でも、真由の機嫌を損ねて、ボッチになるのが怖くて、無理矢理、ノリを合わせていた。


 その合コンの席で、異彩を放っていたのが主人だった。合コンで、女性陣に目もくれず、ノートパソコンと睨めっこをしていたのだ。


「ごめんね。こいつ、変わり者なんだ。名前は岸真(きしまこと)。みんなからは『ガンマ』って呼ばれてる。欠員が出たから、頭数だと思ってね」


 帝工大を仕切っていた男子が、申し訳なさそうに謝っていた。そんな状況を作り出した張本人は、意に介さず、マイペースを貫いていた。


 私たちの合コンには、決して破ってはならない秘密のルールがあった。

 まず、仕切り役でリーダーでもある真由が、気に入った男子の方に自分のおしぼりを向ける。他のメンバーは、真由のお気に入りに手を出すことは許されない。

 もしその男子が、真由以外の女子に気がある素ぶりを見せたら、彼氏がいるフリをしたり、早く帰ったりしなければいけない。そうしなければ、真由に何をされるかわからないのだ。


 実にめんどくさいルールだと思っていた。私はどうせ頭数合わせでしかないのだから、同じ頭数合わせのこの変わり者を担当しようと思った。それなら、間違いが起こるはずはないからだ。


 そうして見ていると、実に興味深い習性があることに気づいた。ノートパソコンが汚れるのが嫌なのか、ドリンクを飲む時は、丁寧にグラスについた水滴を拭き取っていた。おつまみのフライドポテトを食べる時は、指に油がつかないように割り箸で食べていた。

 愛着がある物に、ここまでするのなら、好きになった女性にも優しくするのではないだろうか。


 それが間違いのはじまりだった。


 離乳食を食べ終わった雫は、ベビーベッドで静かに寝ていた。このまま、明日の朝まで静かにと望むのは、無理な注文だろう。


 窓を開けて、ベランダに出てみた。眼下に広がる綺麗な街明かり。まるで宝石をちりばめたかのようだ。あそこには、自由がある。きっと夢や希望も溢れている。


 私を縛りつけている妻という鎖。新米ママというレッテル。それら断ち切って、あの街に飛び出したいと思うことがある。あそこに行けば、自由になれるのだ。あの街では、妻以外の別の私になれるのだ。


 ただ、大学の家政学部という、何に役立つのかわからない学部出身の自分が、あの街で必要とされる自信はない。あの街に否定されるのが怖くて、今でも妻の座に収まり続けている。


 合コンを仕切っていた真由は、要領良く保育士の資格を取り、好きでもない子どもを相手に笑顔を振りまいて、給料をもらっているようだ。大学時代に、合コンで鍛えられたスキルだ。

 他の仲間も、事務職や介護の仕事などをしているらしい。


 住みたい街ランキングで上位にも入るようになった武蔵小杉のタワーマンションの最上階。主人からは、人並み以上のいい暮らしをさせてもらっている。

 パートなどをしなくてすんでいるのも、全部、主人のおかげだ。


「ドサッ」


 突然、背後から大きな音が聞こえた。咄嗟に、雫がベビーベッドから落ちのだと思った。

 慌てて、ベッドに駆け寄ると、雫はさっきと同じように、ぐっすりと寝ていた。


 そうなると、音は主人の部屋からとしか考えられない。私は主人の部屋のドアを叩いた。


「何か音がしたけど、大丈夫なの?」


 部屋の中から、返事はない。先ほどまで響いていたキーボードを叩く音も止まっていた。


「ねぇ、返事をして。開けるわよ」


 ドアノブを回す。カギはかかっていない。ドアを押し開けると、床に主人が倒れていた。横向きになった顔の口の部分から大量の血を吐いている。


「きゃあ……」


 予想外の事態に、叫び声に力はなく、小さなものとなった。全身の力が抜け、へなへなと座り込んでしまった。

 目の前の出来事は、きっと悪い夢だ。もうすぐ目が覚めて、いつもと変わらない日常がはじまる。その期待は、脆くも崩れ去った。


 倒れていた主人の指がピクリと動いた。それを機に、一気に現実に引き戻された。這いずるように部屋を出ると、スマホを握りしめて救急車を呼んだ。

 何を喋ったのかは覚えていない。ただ「助けて」と連呼していた気がする。


 主人と一緒に救急車で運ばれた。雫を残していく訳にはいかないので、暖かい服を着せて、抱きしめていた。雫を抱きしめる私の手は、小刻みに震えている。


 病院に着くと、緊急手術がはじまった。手術室の前で、娘を抱きしめながら、私はただ祈りを捧げていることしかできなかった。目を閉じて、ひたすら、神に祈りを捧げる。


 どれくらいの時間が流れただろう。気づかないうちに、手術中のランプが消え、執刀医が出てきた。

 私は娘を抱えたまま立ち上がり、先生に近づいた。


「あの、先生。主人は、主人は大丈夫なんですか?」

「奥様でいらっしゃいますか?」

「はい。あの、主人は……」


 途中で、言葉にならなくなった。様々な思いがこみ上げてきて、声を発することを邪魔する。

 先生は、ひと呼吸置いて、ゆっくりと話しはじめた。


「奥様。落ち着いて聞いてください。ご主人は、悪性リンパ腫を発症しておられます。血液のガンです。そして、すでにガンは全身に転移しており、とても手術できる状態ではありませんでした」


 頭の中が真っ白になった。抱えていた娘を落としそうになった。天と地がひっくり返ったようにグニャリとなって、立っていられなくなった。先生の横にいた看護師さんが支えてくれなければ、倒れていただろう。


「先生、主人はどうなるんですか?」

「おそらく、このまま意識が戻ることはないでしょう。あと数日、持つかどうか……来週までは持たないと思います」


 あまりにも残酷な宣告だった。


 病室の中、ベッドに横たわる主人。口には酸素吸入器が取り付けられている。他にも色々なチューブやコードが、ベッド脇の機器と繋がっている。


 まともな会話さえない夫婦だった。それでも、生きていれば、言葉を交わす可能性はある。死別してしまえば、それすら叶わない。


「何なのよ。何だってのよ」


 言い知れない怒りが、悲しみが、織り交ぜになり、言葉の形をとって漏れていく。ただそれに答える声はない。

 部屋の中には、酸素吸入器の無機質な音が響くだけだった。


「ウゥッ」


 主人が苦しそうに呻いた。うっすらと目を開け、何かを探すかのように目を動かしている。


「真さん、わかる?私よ。美嘉よ」


 口を主人の耳元に近づけて、大きな声でゆっくりと語りかける。少しでも、この声が届きますようにと、祈るような気持ちだった。


 私の声が聞こえたのか、ピクッと主人の右腕が動いた。そして、ゆっくり持ち上がり、自分の口を覆っている酸素マスクを指差したのだ。


「何?苦しいの?外して欲しいの?」


 酸素マスクを外そうとしたが、外し方がわからなかった。外すと、彼の呼吸が止まるような気がして、怖かった。


 薄緑色の酸素マスクの向こうで彼の口が動いている。懸命に何かを伝えようとしているのだ。

 耳を酸素マスクに近づけて、懸命に聞き取ろうとした。


「……と、う」


「あ、り、が、と、う」


 その言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように涙が溢れてきた。


「こんな時に、何言ってるのよ……」


 結局、それが彼の最期の言葉になった。享年26歳。将来を嘱望された天才の若すぎる最期だった。


 私も主人も、人付き合いがうまい方ではない。そのため、通夜に訪れる人は少なかった。近親者のみと言っても良いほどだ。

 主人の仕事上の付き合いは、把握してなかった。それでも、ネットニュースなどで情報を知った人が誘い合って通夜に来てくれた。


 告別式の日。火葬場の煙突から立ち上る煙を眺めていた時のことだった。不意に後ろから声をかけられた。


「岸真さんの奥様ですね」


 驚いて振り返ると、白髪で小太りの男性が立っていた。確か、私と主人の結婚式でお祝いを述べてくれた主人の恩師の教授だったと思う。


「突然、申し訳ありません。私は帝工大で人工知能を研究している河原城と申します。少し、お時間よろしいでしょうか?」

「あ、結婚式ではお世話になりました。生前、主人が大変、お世話になったようで……」


 自分の口から、生前という言葉がすんなり出たことに驚いた。気持ちは、まだ主人の死を受け入れてはいない。でも、頭のどこかでは、主人の死を受け入れつつあるのだろう。


「覚えていていただけましたか。実は、ご主人から頼まれごとをしておりましてな。自分が亡くなったら、これを奥様に渡して欲しいと言われておりました」


 そう言って、河原城教授は1枚のDVDを差し出した。


「これをご主人のパソコンで再生するようにと。パスワードは、奥様との結婚記念日だそうです」


 パスワードが結婚記念日。そんなことを気にする人ではないと思っていた。事実、結婚してから、記念日を祝ったことはない。


「わからないことがあれば、遠慮なくおっしゃってください。力になれることもあるかと思います」


 河原城教授から、名刺を受け取り、丁寧にお礼を言って別れた。


 自宅に戻ると、喪服のままで主人の部屋に入った。娘は家まで送ってくれた母に任せている。


 パソコンを起動すると、パスワードを聞かれた。ハンドル名は「Gamma1900」になっている。

 結婚記念日は11月13日。1並びがいいと11月11日を狙ったのだが、式場の予約が多くて2日ずれたのだ。籍を入れる日だけでも11月11日にすれば良かっただろうが、挙式の日と入籍の日が異なるのは、記憶するのに非効率だといって彼が同意しなかった。

 パスワード「1113」と入力する。セキュリティ的には、お世辞にも推奨できないパスワードだ。


「ヒュイーン」


 DVDが起動する音が響く。やがて、画面にウィンドウが表示され、そこに主人の姿が現れた。


「アー、アー。聞こえますか?この映像を見ているということは、僕はもうこの世にいないんだと思う。今日は2018年12月6日、木曜日」


 今から、約3ヶ月ほど前の主人だ。見れば、頰はこけ、目の下にはクマができている。

 主人のことはわかってるつもりだったのに、こんなになっていることさえ気づいてあげられなかった。言葉が返って来ないから、会話がないから、愛されている自信が持てなくて、いつの間にか、主人の足元ばかりを見るようになっていたのだ。

 自責の念が込み上げる。


「今から、2ヶ月ほど前に、体調が悪くて病院に行った。そこで悪性リンパ腫と診断された。抗がん剤治療をしなかったら、余命は半年くらいだと言われたんだ」


 そんな重大なこと、何で一言、相談してくれなかったのだろう。私はそんなに信用されてなかったのだろうか?


「抗がん剤治療も考えた。でも、死ぬまでにやらなければいけないことができたので、入院生活が長引く抗がん剤治療は拒否した。それをやるためにね」


 やらなければならないこと?何のことだろう?


「僕には、愛すべき妻と可愛い娘がいる。僕が死んだあとも、この2人には幸せに暮らしてもらいたい。だから、今まで僕が取得した人工知能に関する特許のライセンス料を君が受け取れるようにしておいた。これで、自宅のローンも、娘が将来、大学に進むまでの学費も賄えるはずだ」


 愛すべき妻と可愛い娘。主人がそんな風に考えていたなんて思ってもみなかった。家庭を顧みない冷たい人だと思っていた。


「ゴホッ!ゲホッ」


 咳き込むような音が響いて、主人が画面から消えた。口を押さえて、咳き込んでいるようだ。

 思わず、ディスプレイに近づき、画面を鷲掴みにした。しかし、そこに主人の姿はない。

 再び、画面に現れた主人の唇の端には、血を拭ったような跡がついている。


「話を続けよう。このDVDが終わると、僕が作った人工知能『Gamma1900』が起動する。これは僕の考え方を覚えこませた人工知能だ。僕の脳みそだと思って欲しい。僕の死後、君や娘が何かに悩み、相談したいことがあったら、僕が返事をするのと同じように答えてくれる。音声入力は、精度を高めることができなかったので、キーボード入力になっているのは許して欲しい」


 主人は毎日、部屋にこもって、こんな物を作っていたのか。


「馬鹿ね……本当に大馬鹿よ」


 思わず、口から本心が零れた。

 全然、私の気持ちをわかっていない。私はもっとあなたと話したかった。言葉を交わしたかった。こんな物を望んでいた訳じゃない。


「最後に、いつの日か大きく成長した娘と会話できることを願っている。どうか幸せになって欲しい。今まで、本当にありがとう」


 映像が止まって、DVDが終了した。黒いウィンドウが、いくつも出てきては消えていく。

 そして画面に「Gamma1900」と表示された。これが、彼の遺作。彼の集大成。彼の頭脳なのだ。


 文字の入力を促すかのように、カーソルが点滅している。私は恐る恐る、文字を入力した。


〉あなたは妻、岸美嘉を愛していますか?

》もちろん、愛している。最愛の妻だよ


 こんな愛情表現なんて、ない。最低だ。こんな風には言われたくなかった。

 でも、嬉しかった。涙が止まらなかった。これが天才の、天才流の愛し方なのだ。


 この言葉を聞けたから、もう大丈夫。娘と2人で生きていける。

 私は微笑みながら、パソコンの電源を落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天才の愛し方 夢崎かの @kojikoji1225

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ