SLゆうづる号

特別急行ときわ77号は、定刻通り21時50分に水戸駅に到着した。ホームに降りたつと、北関東とはいえ生暖かい空気が淀んでいるのは東京と変わらないらしい。でもその蒸し暑ささえ、今の僕にはこれから始まる夏の夜旅を盛り上げてくれるスパイスとなっていた。

1本後の「ひたち」でも間に合ったのだが、この時間の「ときわ」に乗ってやってきたのは、半分は早めに来て買い物の時間を取るためで、もう半分はこの旅行の目的である列車を入線から腰を据えて味わうためだった。とはいえその入線までは30分、発車までは1時間近くもある。今のうちにと一度改札を出て、駅近くのスーパーでビールとチューハイ、それにおつまみや夜食のおにぎりなんかを買っておく。今夜は長い夜になりそうだった。

買い物とトイレを済ませてホームに戻ると、ちょうど22時11分発のいわき行き「ひたち」が発車していくところだった。つまりまもなく、この4番線に僕が乗るあの列車が入線するということだ。

と、遠くから汽笛の音が聞こえてきた。そしてそれは気のせいではなく、力強いドラフト音が着実に近づいてくるのを感じた。上り方の彼方に、黄白色のヘッドライトが揺れている。

駅員の構内アナウンスが流れる。「お待たせいたしました、まもなく4番線に、22時40分発、臨時特急SLゆうづる号仙台行きが参ります。黄色い線の内側にお下がりください」

改めて電光掲示板の発車標に目をやると、「SLゆうづる 22:40 仙台」の表示。旅の実感に胸が高まる。

やがてその振動と音は僕の身体まで確かに響いてくる。暗闇から姿を現したその姿に、僕は思わず声を漏らしていた。―黒光りする急行用蒸気機関車C61形20号機の迫力ある駆体が、朱色地に真白の鶴が舞う「ゆうづる」のヘッドマークを誇らしげに掲げながら、紺青色の寝台客車編成―「ブルートレイン」を牽引してプラットホームに滑り込む。ずっと憧れていた光景に感激しながら、僕はミラーレス一眼のシャッターをしきりに切っていた。


夜のターミナルにブルートレインが佇んでいる―全ての鉄道趣味者が夢見ていたといっても過言ではない景色を目の当たりに、僕は武者震いがするようだった。今から僕は、この列車に乗り込むのだ。

さらに何枚かのスナップを収めてから、高まる胸のポケットからきっぷを取り出す。「特急券・A寝台券/水戸(22:40発)→仙台(6:03着) ルーメット/7月11日 SLゆうづる 1号車 3番 個室」と記された横長の券だ。指定された席番を確かめて、いよいよ列車に足を踏み入れる。電源車の隣、旅客車としては一番後ろに連結されている1号車は編成唯一のA寝台車にして個室車だ。中央に通路があり、その両側に個室が並んでいる。後ろから2つ目の右側が僕の今夜の宿だ。

個室のドアを開けた瞬間、「おお」と感嘆の声が漏れた。ソファのように幅のあるクロスシートが向かい合わせにセットされている。この座席の背もたれを座面に向けて倒すと壁の中から寝台が出てくるという仕組みだ。かつての「ルーメット」と違い上部に折り畳み式の寝台が設けられ定員が2名になっているものの、個室寝台としての風情は十分だった。

カメラと貴重品以外の荷物を置いて、暗証番号式の鍵を閉めていったん部屋を後にする。ホームに戻って今度は列車の最後尾へ。青い客車の先にはカメラを構える人々の姿があった。僕もそこに交じり、列車にレンズを向ける。20系カニ21形にそっくりの電源車はC61とは異なり「ゆうづる」の文字と英字だけが記されたシンプルな横長のヘッドマークを掲げていた。赤く灯るテールランプがまた旅情をそそる。

また何枚かのスナップを撮って満足した僕は、人の群れを抜けて車内に戻ろうとしたところで声を掛けられた。「あの」

見ると同年代くらいの女性だ。彼女は僕のより一回りごついカメラを差し出すと、「すみません、写真撮ってもらえませんか」と問いかけてきた。

「あ、いいですよ」ずっしりとカメラを受け取って構える。ヘッドマークがファインダーに収まるようにしながら、3枚ほどシャッターを切った。

「こんな感じで大丈夫ですか」確認してもらうと、彼女は指でOKサインを作った。「ばっちりです」

「乗られるんですか?」

尋ねてみると、彼女は首にカメラを提げながら応じた。「ええ、乗りますよ!あなたもですか?」

「はい!10時打ちでルーメットが取れまして」

「おーそれはそれは!あたしは開放Bを狙い打ちしました」

「あー迷ったんですよね~。ブルートレインというからにはそっちもかなり雰囲気あるので…」

「もしよろしければあたしの席見に来ます?」

「いいんですか!」

「ええ、でもその代わり、ルーメットの方も見せてくださいね」

「もちろん!」

意気投合した僕たちは一緒に行動することにした。彼女は名前を鳩野鳩野さんというらしい。旅行が趣味だそうで、これまでの旅先を訊いたところかなり歴戦の猛者らしかった。東京から飛行機を使わずに沖縄とか常人のやることではない。

彼女の寝台がある2号車に入ると、片側に寄せられた細い通路、薄紫色のカーテンで閉じられた寝台がずらりと並ぶ。紛うことなき開放B寝台車だ。

「あたしの席はここですよ」

彼女に指されたのは4番下段の寝台だった。上段と向かいの3番には荷物だけおいてあって誰もいない。まだ発車まで時間があるので外で写真でも撮っているのだろう。

「撮らせてもらっても?」カメラをかざすと彼女は快く頷いてくれたので、何枚か収める。この“新”20系の開放B寝台は2段だ。元の20系は3段だけれど、さすがにそれでは現代の設備として成り立たないのだろう。だからどちらかといえば24系に近い感じがするが、そちらも乗れずじまいだったので僕からすれば新鮮なことには変わりない。

「いやーいいですね開放Bも。今度乗るときはこっちにしようかな」

「いやほんと、これぞ寝台列車って感じしますよねえ」

続いて今度は彼女を僕の寝台に案内する。貫通路を渡って1号車へ。

「そっか、こっちは通路が真ん中なんですね」

3号室を開けると、彼女はさっきの僕と同じような感嘆の声を上げた。

「こう言っちゃなんですけど、サンライズのシングルツインを豪華にしたみたいな感じですね」

「それ僕も思いました。あっちよりは幾分広いですが」

通路を配置する関係上、横幅が狭いのは仕方ないのだが、前後方向はだいぶ広く取られていた。出入り口と上段への階段がベッドの足元にまとめられているおかげで、寝台の幅が個室いっぱいまで取られている。A個室らしく折り畳み式の洗面台もついており、この辺りは“再現度”が高い。

鳩野さんは興味深そうに室内を眺めたり写真を撮ったりしている。

「いやー、天井が高いですねえ」

「そうなんですよ、一人利用だと上段が折り畳まれてるので。サンライズと違って壁側に跳ね上がるので、上の窓も見られて贅沢ですよね」

「これなら上りの昼行便でも楽しそうですし、星空もよく見えそうですねえ。次乗るときははこっちだな…」

さっきの僕と同じ感想を呟いたのが少し可笑しかった。完全に同類の人間だ。

「あ、良ければ寝台出してみましょうか」

「いいんですか」

そういえば僕も見てみたいなと思い、壁を引っ張り出してみる。背ずりが座面に倒れて寝台が現れた。

「おお!」

「あとはそこのシーツと枕を載せれば完成ですね」

「これはルーメットだ…」

彼女がパシャパシャと写真を撮る横で僕も何故かシャッターを切っている。後でも撮れるのだが、いま目の前にして撮らずにいられないのは趣味者の性かもしれない。

と、ふと腕時計に視線を落とすと発車3分前になっていた。「あ、もうすぐ発車ですよ」

「わ、もうそんな時間ですか」

鳩野さんが通路に戻ろうとするが、ちょうど皆同じように自席に行こうとしていて細い通路は混みあっていた。

「あちゃー、これは戻れないな…」

「あ、そしたら鳩野さんがもしよろしければ、ここで発車見ていきますか?せっかくですし乾杯しましょうよ」

「いいんですか」

遠慮してはいるが、乾杯という言葉に彼女は目を輝かせた。

「ええ。ビールとチューハイどっちがいいですか」ビニール袋からさっきキオスクで買った酒たちを取り出す。

「じゃあ、サッポロで」

350ml缶を手渡し、寝台を元に戻しながら向かいの席を勧める。僕もレモンサワーを手にして座席に腰を下ろす。進行方向右側の部屋なので停まっている4番ホームは見えないが、隣の5番線に停車中の上り列車、青いラインのE531系がここがいつもの常磐線であることを感じさせた。と、その時だ。

『ボオオーッ!』

太い汽笛の音が確かに鼓膜に響いた。ガチャン、と連結器に力が伝わる衝動、そして、車窓がゆっくりと動き始める。

「発車しましたね…!じゃあ、乾杯!」

「乾杯!」鳩野さんの缶に僕の缶をぶつけて、サワーを喉に流し込む。ドアを開け放った通路の方からも同人たちの乾杯の声が聞こえてきて、思わず口許が緩む。車窓から青い帯の見慣れた電車が消えると同時に、あたりは一気に暗くなった。―水戸駅を発ったSLゆうづる号は、非日常の夜へと飛び込んでいった。


折り畳みテーブルを引き出し、3口ほど飲んだレモンサワーを一旦置いておつまみを広げようとしたところで、スピーカーから放送が流れ出した。今一番聞きたかったチャイム―「ハイケンスのセレナーデ」を枕に、車掌による車内アナウンスが始まった。

『…本日もJR東日本をご利用くださいましてありがとうございます。この列車は特急ゆうづる号、仙台行きです。只今水戸駅を定刻通りに発車しております。これから停まります駅と到着時刻、車内のご案内を致します。次はいわきに停まります。いわき0時52分の到着です。いわきを出ますと富岡2時6分、原ノ町3時40分、終点仙台には明朝6時3分の到着を予定しております。列車は6両で運転して参ります、先頭が6号車、一番後ろが1号車です。1号車がA寝台個室車、2号車B寝台車、3号車は食堂車ですが、この列車では食堂の営業はしておりませんのでフリースペースとしてご利用ください。4号車5号車6号車が座席車、また6号車の前寄りにサロン室がございます、譲り合ってご利用ください。この列車は個室内を含めましてすべて禁煙とさせていただいております、お煙草はご遠慮ください。お手洗い、洗面所は5号車、4号車、2号車、1号車のそれぞれ前寄りに、自動販売機は3号車にございます。携帯電話のご使用はデッキでお願いいたします。またお休みになられるお客様もいらっしゃいますので、車内での話し声にご配慮をお願いいたします。盗難防止のため貴重品にはお気をつけください。担当車掌は水戸運輸区のカワダ、ヨシノが終点仙台までご案内いたします。なお時間も遅くなっておりますので、明朝の仙台到着前まで車内放送は控えさせていただきます。本日は特急ゆうづる号ご利用くださいましてありがとうございます』

締めにもう一度「ハイケンスのセレナーデ」が流れると、車掌のアナウンスは終わって英語の自動放送が流れ始めた。

放送中ずっとスピーカーを注視していた僕と鳩野さんは顔を見合わせた。「いやあ~、よかったですね…!」

「あの放送の長さがまさに寝台特急のアナウンスですねえ」彼女は満足そうに缶ビールを口にした。

「まさか寝台列車で『ハイケンスのセレナーデ』を聞ける日が来るとは…」

「ほんとは20系なら『ブラームスの子守歌』とか『アルプスの牧場』の方が使われてたんですけど、やっぱりブルトレといったらこっちのイメージの方が強いですからね」

感動すら覚える胸にレモンサワーを飲み込む。令和の世にこんな素晴らしい列車が走り始めるなんて、誰が予想できただろうか。

「ブルートレインの復活は鉄道ファン皆が待ち望んでましたけど、まさか実現するとは正直思ってませんでしたよね」

僕の問いかけに鳩野さんも頷く。「ですねえ…しかも“20系”でSL牽引とは」

このSLゆうづる号が走り始めたのは1年前だ。だが、そこに至るまでにはもっと長い経緯がある。

2011年の東日本大震災で被災した常磐線が9年後の2020年に全線再開し、上野から仙台までの鉄路が再び繋がった。東京直通の特急“ひたち”が設定されるなど、震災復興の象徴としての意義も大きくなった常磐線に、復興推進のために観光列車を走らせることが構想された―それこそがこのSLゆうづる号だ。かつて東北路のもう一つの幹線でもあった常磐線を走った優等列車であり、黄金期を象徴する列車であった特急ゆうづる号が、再び常磐線のシンボルにふさわしいとして選ばれたわけだ。実際のゆうづる号は20系客車から583系電車や14系、24系へと変遷していったが、観光列車としてはまずSLを走らせることが決まり、そこからSL時代の客車である20系をモデルとすることになったという。

JR東日本の「のってたのしい列車」としては初の夜行列車となったSLゆうづる号、そして新20系であるが、これにも理由がある。2015年に北斗星が引退し日本からブルートレインが消えたが、戦後日本を象徴するものの一つでもあったブルートレインの復活を望む声は大きく、2020年にJR西日本が運行を開始した夜行観光列車「WEST EXPRESS 銀河」の成功もそれを後押しした。また観光列車の運行区間は外からのアクセスを考えると最短でもいわき~仙台地区となり、SL牽引だと所要時間からどのみち日中に往復はできない。であれば、ブルートレインの始祖でもある20系をモチーフにした昼夜兼行車両を造り、片道を夜行、片道を昼行として運転する方式としよう、となったとのことだ。幸いかつての20系にも座席車があり、イメージを損なうこともないとされた。

「そんなこんなで出来上がったのがこの新20系と…」鳩野さんが感慨深そうに頷く。

「もちろん色々と現代ナイズドされてはいますが、それにしたってここまでやるとはって感じですよね」

「ほんと、上手く落とし込んだなあと思いますねえ」

夢に溢れるこの新20系だが、さすがは現実主義者のJR東日本が手掛けただけあって効率性もしっかり現れている。最も特徴的なのはやはり客車編成だけで自走できる点だろう。今乗っている1号車のさらに上り方に繋がっている電源車は実は電源車ではなく、車号を「キヤ21 701」と言って、実のところハイブリッド気動車なのだ。見た目はカニ21そっくりだが中身は事業用車両GV-E197系をベースにしており、一両丸ごと機器室でサービス電源と動力両方を担うエンジンを備える。機関車の調子に合わせて補機として後押しもできるし、何よりこの“電源車”の運転室や編成の反対側6号車の編成端のミニサロンに隠してある運転台を使えば客車編成単独で自走することができ、これによって機回しの手間を大いに省略することに成功している。JR東は釜石線のSL銀河でも同様に「自走できる客車」を採用したが、SLゆうづる号では夜行列車であることや寝台客車の防災上の設計から、全車にエンジンがあるSL銀河と異なり動力車を単独で分離したようだ。

また、水戸発仙台行きは夜行だが、反対の仙台発水戸行きの昼行での利用も重視しており、車内設備も寝台列車一辺倒というわけではない。編成の半分は座席車だし、開放B寝台は座席に転換すれば4人定員のコンパートメントに、A寝台ルーメットはそのまま2人用個室になる。また3号車は食堂車となっており、昼行便では沿線の特産物を使ったメニューを提供しているとのことだ。さらに上り水戸行きでは最後尾となる6号車車端は先ほどのアナウンスにもあったようにミニサロンとなっており、元祖20系のパノラミックウィンドウ2枚窓のデザインそのままに後面展望を楽しめるようになっている。

「じっさい昼行便もかなり魅力的ですよねこの列車」

鳩野さんも頷く。「単純往復になっちゃうので今回は乗りませんけど、いずれ乗りたいですねえ…あ」

ばつが悪そうに笑う彼女。「ビール、無くなっちゃいました」

「あらら…まだあと1本ありますけど飲みます?」

「いえいえ!それはさすがに申し訳ないです。あたしもお酒持ってきてるので、今度はそれで食堂車で飲みましょうよ」

「お、いいですね」

僕も残りわずかになっていたレモンサワーを飲み干して、鳩野さんと部屋を出た。隣の2号車で彼女の寝台に寄ってお酒を回収し、そのまま3号車へ移る。

「おー、なるほど」

食堂車もといフリースペースは、色合いこそ昭和っぽさを意識しているとはいえだいぶ現代的な内装だ。まあ元の20系のような設備では貧弱すぎるだろう。向かい合わせ固定の座席はソファ様で、テーブルは大理石模様の小ぎれいな感じだ。

「思ったより空いてますね」

「あれじゃないですか、皆一番前のサロン室の方に行ってるとか」

「あー確かに」

適当な席に腰を下ろし、持ってきた酒とつまみを並べる。

「こうするとなかなか贅沢な感じですねえ」鳩野さんがにやけながら言う。

「こういうフリースペースがあるのはありがたいです」

今度は鳩野さんが持ってきたハイボール缶で乾杯する。

窓の外は真っ暗で、ときおり住宅の灯りが遠くを流れていくほかは何も見えない。だが、先頭の蒸気機関車が力強く客車を牽引する振動はかすかに伝わってくる。汽笛やドラフトの音がどこからともなく響いてくる夜汽車の風情は、それだけで最高の酒の肴になった。

「…いい夜ですね」

鳩野さんも同じことを思っていたようだ。

「本当に、『ブルートレイン』で宵越しの旅をしているなんて夢みたいです」独り言のように呟くと、彼女もしみじみと頷いた。

「あたしも、サンライズやWEST EXPRESS 銀河、カシオペア紀行にも乗りましたけど、ずっと追い求めていたのは他でもないブルートレインでした」

2015年に北斗星が引退したとき、僕はまだ高校生だった。当然金銭的にも年齢的にも鉄道旅行に行けるような歳ではなく、子供の頃から夢を抱き憧れていた「ブルートレイン」にはついに乗ることが叶わなかった。それは僕や鳩野さんだけでなく同年代の鉄道趣味者共通の、一種の十字架のようになっていた。

だからこそ、このSLゆうづる号は、大げさに言えば救いなのだった。幼き日々の夢を叶えるべく、皆この列車に乗り込むのだ。もちろん、あの頃走っていた「ブルートレイン」とは車両も運転区間も違う。それでも、ここまで忠実に、そして魅力的につくられたこの列車の前では些細な違いに感じられた。この新20系と24系の違いなんて、24系と20系の違いとさして変わらないのではないかと思えるほどに。

「この客車も『SLゆうづる』だけでなく色々と出張運転も計画されてるみたいですしね」

鳩野さんが言う。

「そんな噂は聞きますね」

「機関車にこだわらなければどこでも行けますからねえ。この前“中の人”にちらっと聞いたんですが、秋田支社が『あけぼの』コースをやろうとしてるとか…」

「本当ですか!?」

「まだ内緒ですよ」

彼女はいたずらっぽく片目をつぶった。

JR東は工臨を事業用気動車に置き換えて以来、機関車の数を大幅に減らしているが、それでもSLや客車を走らせている関係上何両かは残されている。その中でも交直流機のEF81を使って新20系を牽引すれば、電化区間ならほぼどこでも運転できるだろう。

「赤い機関車が『ブルートレイン』を牽引する光景、見たいですねえ…」

「いやほんと、あたしも楽しみです」

そうこうしているうちに、ふいに車内放送がかかった。

「まもなく、いわきに停まります。右側のドアが開きます、ご注意ください。なお、いわきでは機関車の給水作業のため約20分停車します、発車は1時12分です。発車時刻までには車内にお戻りください。まもなくいわきです」

腕時計を見ると0時50分を指している。いつの間にか水戸を発ってから2時間以上も過ぎていたようだ。列車は最初の停車駅、いわきに凡そ定刻通り着こうとしていた。

「せっかくなんで外の空気でも吸いましょうか」

僕の提案に鳩野さんも同調する。「ですね。あたしも“吸いたい”ですし」

彼女は苦笑いしながら右手の人差し指と中指を口許に持ってきた。

やがて客車は機関車に押し戻されるように減速し、ガクンと停まった。僕らの他にも何人かの乗客たちがぞろぞろと降車していく。一つのイベントみたいなものだ。

彼らの後についていわき駅のホームに降り立つ。海が近いこともあってか、さっきより少し涼しい気がした。そして、真夜中の駅にブルートレインが佇んでいる光景はやはりたまらない。

降りた乗客たちはほとんどが先頭の機関車の方へ向かったようだ。給水作業を見に行ったのだろうが、当然“前出し”の停止位置になっているので写真を撮るのは難しいだろう。おとなしく客車のスナップでも撮りつつ、気分転換できればいいやと背伸びをした。鳩野さんも少し離れたホームの喫煙所で美味そうに煙草を吸っている。

SLゆうづる号は上下ともこのように何駅かで長時間停車が設けられている。ダイヤ上の都合というよりは、アナウンスでも言われていたように蒸気機関車に給水をしなければならないからだ。ここいわきの後にも富岡と原ノ町でそのための停車があり、これら各駅ではSLゆうづる号の運転のために給水設備を設けたという。長距離SL列車ならではだ。

ただ、駅として乗降の扱いがある途中駅はいわきだけだった。富岡と原ノ町でもドア扱いはあるとのことだが、2,3時台という時間のため改札の営業は終わっていて、ホームに降りられるだけだという。まあむしろ運転停車ではなくドアを開けてくれるだけでも良心的だ。

ホームをぷらつきながら何枚かスナップを撮り、夜風にあたって程よく酔いも覚めたところで発車時刻が近づいた。「そろそろ戻りましょうか」と鳩野さんと声を掛け合い、車両に乗り込む。

「もう1時も回りましたし、そろそろ各自の席に戻りますか」提案すると鳩野さんも頷いた。

「そうですね。じゃあ、また明日ということで」

「ええ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

2号車B寝台の彼女と別れ、1号車の自室へ向かう。しばらくぶりに戻ってきたが、やはり良い個室だ。備え付けのJR柄の浴衣に着替え、背もたれを引き出して寝台に展開する。軽くベッドメイクをして横たわり、部屋の灯りを消すと上段の曲面ガラスの窓から星空が広がった。あと少しで満ちそうな夏の月がこちらを見守っているようだった。

「おやすみ」

誰に言うでもなく呟いて、僕は目を瞑った。


~~~~~


『ボオオー、ボッ!』

夢のように遠くから聞こえてきた汽笛の音で僕は目が覚めた。だが意識がはっきりしてくるにつれ、蒸気機関車特有の前後の揺れにこれが夢でないことを実感させた。

起床は音や揺れのためだけではなかった。僕は寝台から上半身を起こしながら、車窓を前に右手をかざした。眩しすぎる朝日が室内に差し込んでいる。時刻は5時前、ちょうど「坂本」と書かれた駅名標が流れて行った。目を細めながら窓辺に近づくと、そこには高架橋の眼下に陽光に煌めく緑の美しい田園風景が広がっていた。

「そうか、ここは…」

常磐線移設区間の単線高架だ。このあたりでは津波で被災した線路を復旧するのに高架化がされたのだが、ちょうどその区間でSLゆうづる号は日の出を迎えたのだ。以前ここを通ったときも見晴らしが良いと思ったが、こんなに清々しい車窓で朝を迎えられるとはなんと贅沢であろうか。僕は一つ伸びをしてから、しばらく朝日に照らされた田んぼ達が流れていくのをぼんやり眺めていた。こういう時間のために僕は旅をしているのだと、改めて噛みしめた。

しばらくして思い出したように着替えをし、カメラと買っておいた缶コーヒーを手に個室を出る。仙台到着まではあと1時間ほど、自室でゆっくりしていても良いのだが、せっかくなので昨晩行かなかった6号車の展望ミニサロンに行ってみよう。1号車から連結部を渡って2号車のB寝台車に足を踏み入れると、進行方向右側にある細い通路で壁から折り畳み腰掛を引き出して、朝日の車窓を眺めている乗客の姿があった。近づくまでもなく誰の後ろ姿かは分かった。まだカーテンの中の寝台で寝息を立てている乗客に気を遣って、小声で声をかける。

「おはようございます」

彼女―鳩野さんは振り向くと、僕に気づいて左手を上げた。「おはようございます」

「B寝台車で目覚めて、通路の折り畳み座席から朝の車窓を眺めるなんて最高じゃないですか」

「そりゃあもう」

鳩野さんは満ち足りたような表情をしていた。きっと僕も同じような顔をしているだろう。

「6号車のミニサロンに行こうと思って」

「お、確かにこの時間ならまだ空いてそうですねえ。あたしも行きます」

鳩野さんとともに3号車のフリースペースを抜けて座席車へ。日の出直後のこの時間ではまだ半分以上の乗客がブラインドを下ろして眠りについているようだ。座席とはいえリクライニングはかなり深くまで倒れるらしく、最近の車両にしてはしっかりした造りもあって14系ドリームカーに近い雰囲気を感じる。夜行バスにでも慣れていれば十分休息できそうだ。物音を建てないように4号車、5号車と通り抜け、いよいよ6号車の先頭へ。サロン室入口の引き戸をそっと開けると―。

「おー…!」

20系客車の象徴的な曲面ガラス2枚窓のすぐ目の前で、「C61 20」のナンバープレートが連結部の隙間に差し込む日の光に照らされながら揺れている。そして右側の窓からはその朝日が先程より幾分高い位置に昇って、曲面ガラスの端に垂らされたカーテンを橙色に染めていた。

サロン室に居た先客の男性に軽く会釈をしながら、手近な丸椅子に並んで腰を下ろした。本来の20系は左半分が車掌室だったが、この新20系では車掌室を反対側の車端に移し代わりに全幅を展望室として、丸椅子を半円状に並べたサロンとしていた。テーブルなどは無く敢えて長居しづらい設えになっているが、長い列車旅の気分転換にはこれ以上ないスペースだ。

1号車の自室よりずっと力強く感じるC61形の牽引を目の当たりにしながら、僕は持ってきた缶コーヒーを開けた。ほろ甘い味わいに一息つくと、ちょうど太い汽笛がサロン室に響いた。鳩野さんは揺れる炭水車をじっと眺めている。

「お二人で旅行ですか」

ふいに、先客の初老の男性に声をかけられた。なんだか懐かしそうな目をしている。

「ああいえ、お互い一人旅なんです。昨晩たまたま意気投合しまして」

答えると男性は感嘆しながら頷いた。

「それは良い、旅は道連れというわけですな」

「そちらは?」今度は鳩野さんが男性に尋ねた。

「孫と一緒に来ております。まだ寝ておりますがね」

そう言って彼は優しそうな眼差しを客室の方に向けた。

「お孫さん、良い思い出になるでしょうね」

鳩野さんの言葉に“おじいちゃん”は顔をほころばせた。

「ええ、私自身そうだったものですから」

「私自身、というと?」

「私も子供の頃、父親に連れられて『ゆうづる』号に乗ったんです。20系でシロクニ牽引のね」

「それはすごい!生き証人じゃないですか」

「それからも大学生の頃まではお金を貯めては夜行列車で旅に出る、なんて繰り返して。勤めるようになっても出張やなんやでブルートレインに乗ることは度々あったんですが、それがいつの間にか無くなってしまっていてね。でも孫が電車好きに育って、あの旅の素晴らしさを味わわせてやりたい、そう思っていたときにこの『SLゆうづる』号が走り始めたんです」

「へえ…お孫さんが羨ましいです」

笑いながらも本心だった。幼少期にブルートレインを夢見て、それが叶わず、今こうしてやっとあの頃の憧れを叶えることのできた僕や鳩野さんのような世代からすれば、子供の頃からこんな列車旅に連れて行ってもらえるとは幸せなことだ。

男性は続けた。「とはいえ孫はまだ6歳ですから、将来覚えているかどうか」そう言いつつも、孫と一緒に旅ができることが嬉しそうだった。

「もし覚えていなくても、心の成長にはきっと繋がりますよ」

鳩野さんが付け加えると、男性はまた微笑んだ。

「いやはや、突然話しかけて失礼しました。あなた方を見たら、昔20系『銀河』の展望室で結婚前の女房と語り合ったのを思い出しましてね」

「おお、それもまた素敵な思い出ですねえ。…僕らはただのオタク同士ですが」

「ははは、そうでしたな。でも趣味仲間というのも素晴らしいものです、いろんな境遇を越えて繋がれますからね。ではこの先もお気を付けて」

「ええ、そちらこそ」

片手を上げて初老の男性は客室へ戻って行った。

鳩野さんと顔を見合わせて少し笑う。「面白い人でしたね」

「でも、こういう出会いも旅の醍醐味ですよねえ」

と、力強い汽笛が響き渡った。実はさっき列車は岩沼駅の運転停車に入っていたのだが、発車時刻らしい。展望窓から連結器を覗き込むと、動き出したC61は客車をガチャンと引き出し、ゆっくり、しっかりと加速を始めた。

転線が済み、SLゆうづる号は複線区間を進み始める。

「…よくよく考えたら東北本線をこんな形で乗れるのもすごいですよねえ」鳩野さんがしみじみ言った。

「確かに、SL牽引のブルートレインですからね」

「このまま青森まで行ってくれないかなあ」

客室の方を見ると、5時半を過ぎ仙台到着まで30分となったこともあって、大方の乗客が起きてきているようだ。

「そろそろ降りる準備をしましょうかね」

声をかけると彼女も頷いた。

「そうですね。ではまた仙台駅で」


自室に戻り荷物を鞄にまとめたら、再び寝台の上に足を延ばし足元に掛け布団を載せながら車窓を眺めた。旅館の朝のような贅沢なひとときだ。朝日はもうだいぶ高い位置まで昇っており、あたりには住宅や工場が増えてきて仙台都市圏を感じさせた。上り始発らしい東北本線の電車とすれ違ったところで、スピーカーから「ハイケンスのセレナーデ」が流れた。

『みなさま、おはようございます。今日は7月12日、ただいまの時刻は5時43分、列車は定刻通り運転しております。あと20分で終点仙台に到着します、どなた様もお忘れ物ございませんよう、ご準備をお願いいたします。次は終点仙台です』

名取で仙台空港アクセス線の高架が合流し、そのまま川を渡って今度は東北本線が高架を上り始めた。高い建物も見え始め、ターミナルの匂いが近づいてくる。高架を下りればいよいよ終点だ。

『まもなく仙台、仙台に着きます。お出口は左側です。本日もJR東日本、特急ゆうづるをご利用下さりありがとうございました。この先もどうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ』

仙台駅に入線する右カーブ、後ろから2両目の車窓からは先頭を牽くSLの姿が見えた。いつの間にか線路が何本にも分かれており、SLゆうづる号はその一番左の線路を進んで東北一のターミナルに収まっていく。構内に進入しながら、機関車に押し返されるように客車編成は減速していく。最後にガクンと小さな衝撃を残して、列車はついに仙台駅に到着した。

荷物を持って列車から降り立つ。仙台駅1番線、由緒あるこのプラットホームに、一夜の宿となったブルートレインが停車している。東北の街の早朝は空気もどこか涼やかで、深呼吸すると充実感が胸に広がった。

前方の改札へ歩いていく旅人たちの中を、こちらに向かってくる姿がある。鳩野さんだ。

「改めておはようございます。着きましたねえ」

「ええ。とても良い夜でした」

「本当に」

青い客車の横を歩いてコンコースへ向かう、こんなことさえも感慨深く感じられた。

エスカレーターで上りながら鳩野さんに訊いてみた。「そういえばこの後のご予定は?」

「あたしですか?せっかくこの時間に仙台に居るので、8時前発の阿武急の仙台直通便に乗ろうかなあと。今日は8100系運用なんですよ」

「あーその手がありましたね…!自分は快速湯けむりがまだだったので、それで新庄から陸羽西線で酒田まで抜けようかと」

「再開しましたもんね。阿武急の旧型もそろそろなので機会があればオススメですよ」

改札を出ながら、せっかくなのでと一緒に朝食をとることになった。旅の縁を嬉しく思いながら、僕らは駅ビルのカフェに向かった。


(了)

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Imaginary Trip -「夢」編- ナトリウム @natoriumu

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