第2話 謎の男
山小屋の暖炉の火がパチパチと音を立てて燃えています。
冷え切った身体を解凍するために、麻子は火にあたる向きを右に左にと交互に変えて、じっくりとあぶっていきます。
やっと感覚が戻ってきた指先を使って頭にかぶっていたマフラーを外すと、凍りついた雪の塊がいくつも落ちてきました。
わぁ、床がビチョビョだ。後で雑巾を借りて拭かないと。
死にかけていた麻子ですが、変なところが律儀なんです。
あの森の中で男の人に「ついてこい」と言われた時、麻子は一瞬、
男の人が近づいて来た時、背中がゾクゾクと震え身体中が警報を鳴らしていたからです。人に出会った時にこんな感覚を覚えたのは、26年生きてきて初めてのことでした。
この人は、大悪党なのかもしれない。女の人を襲う変質者の可能性もある。
普段だったら危険を感じた途端に飛び上がって、一目散に逃げていたところです。けれど状況がそれを許しませんでした。
この人について行ったら何が起こるかわからない。でも、ついて行かないとすぐそこに死が待っていることもわかっていました。
一瞬の逡巡で麻子は覚悟を決め、わずかな生への可能性を取ったのです。
台所でゴソゴソと動いていた男の人が、いい匂いのするコーヒーを入れて持って来てくれました。
「中から温めたほうがいい。飲むんだ」
言葉数は少なくて、言い方もぶっきらぼうな男ですが、思っていたよりも親切な人なのかもしれません。いえ、麻子の中にいる希望的推測くんが、そうであってほしいと願っているのです。
男の人が暖炉のそばにやってきて毛皮を脱ぎ始めたので、麻子はその場を譲ってソファに座りました。テーブルに載せてあった大きなマグカップを一つ手に取ると、ホッとするような温もりに包まれました。
あ~、生きてるんだ。
ゴクンと一口飲みこむと、甘く味付けされた熱いコーヒーが喉元から胃、そしてお腹の中を通っていくのがよくわかります。
いつもはミルクだけ入れて、砂糖を入れない麻子です。甘いコーヒーがこんなにおいしいと思ったのは中学生の時以来かもしれません。
部屋の中がやっと暖かくなってきたので、麻子は湿っている上着とマフラーを脱いで、椅子の上に置きました。
この家に入る前、ひどく寒い差し掛け小屋で、男の人に手袋と靴を脱いで雪で手足を強くこするように命令されたのです。しばらくこすっているうちにジンジンと血が通ってきて、凍傷にかかっていなかったことがわかりました。
けれど部屋が暖かくなってくると、今度は手先や足先が
しもやけになっちゃったみたい。
コーヒーを飲み終わった麻子が赤く腫れあがった手を掻いていると、そばに来ていた男の人にクスリと笑われました。
「叩くだけにしとけ。皮膚が傷つくと治りが悪くなるぞ」
麻子がビクリとして手を掻くのを止めると、男の人の笑みが深まりました。
……やっぱりこの人、悪い人じゃなさそうです。
じゃあ何故あの時、危険な香りを感じたんでしょう?
麻子は思い切って男の人に話しかけることにしました。
「助けていただいて、ありがとうございます。三浦麻子と申します」
「ミウラアサコ? それがお前の名前か? 言葉もなまってるな。それに子どもだと思っていたけど、もっと年がいってるのか?」
ものに動じないと思っていた男の人の顔に、疑問と当惑が見えました。少し麻子を警戒し始めたようにも思えます。
「この国の人間ではありませんが、怪しい者ではありません。ダレン村の知人と一緒に手芸店をやっています。今日も仕事をするためにダレン村に向かっていたんですが、途中で道を間違えたらしくて、遭難しかかっていました。あそこであなたが見つけてくださっていなかったら、死んでいたと思います」
麻子の説明に、男の人はようやく腑に落ちたという顔をしました。
「子どもがこんな雪の中で何をしているのかと思った。しかし無謀なことをしたもんだ。そんな薄手の服じゃ、この国の冬は乗り切れないぞ」
「……それは骨身にしみました。今度はもっと装備を整えてこちらにこようと思います」
麻子の言葉に男の人はやっと安心したようでした。
「あの、あなたのお名前を教えていただけますか? お礼を用意してまた訪ねてきます」
名前を聞かれると男の人の様子が変わりました。すっとベールの向こうに退いたようにも思えました。
「マクシ……いや、マクスと呼んでくれ。お礼はいらない。もうこんな森の奥深くには来ないことだ」
マクスには何か事情がありそうです。そういう麻子も異世界の人間なのですから、深く事情を探られたくないのはお互い様です。
「マクスさんですね。私はアサコと呼んでください。雪が小降りになったら、村に行く道を教えてもらえませんか? ご迷惑にならないうちにお
「ふん、どっちにしろ今日は無理だな。心配しなくても今夜はここに泊めてやる。村に行けるかどうかは明日の天候次第だ」
な、なるほど。
どうやら男の人の家に泊るという、初めての体験をしなければならないようです。
二人の間に何ともいえない沈黙が漂いました。
麻子にはこういう時に話をそらして、朗らかな空気に変えるような話術はありません。マクスの方も他人と話すことに積極的ではないようです。
マクスがコーヒーをゴクリと飲み込む音だけが、シーンとした部屋に響いていました。
時計の針がカチリと立てた音に、二人とも椅子から飛び上がりそうになりました。麻子が思わずマクスと目を見交わした時のことです、隣の部屋から電話の呼び出し音のようなものが聞こえてきました。
マクスは顔色を変えると、麻子に「ここにいるように」と言いおいて、隣の部屋に入って行きました。
緊張から解き放されて、麻子はふぅ~と息を吐き出しました。
そんな麻子の耳に「何だってー?!」というマクスの怒鳴り声が聞こえてきたのです。
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