第3話 夜明けのケーキ
一晩だけのことだとはいえ、なんとも気まずいことの数々。
麻子は『今までこんなにずっと緊張し続けたことはなかったよ』と肩をグキグキ鳴らしました。
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもありません」
昨日、電話?のようなものがあってから、マクスの機嫌は地を這っています。
声まで低く地を這っています。
どこに寝るか、何を食べるか、トイレはどうするか、タオル一枚をお借りするだけでもマクスの顔色を伺ってビクビクし通しだった麻子は、いいかげん疲れてきました。
その反動で少々反抗的な気分にもなっていました。
そんな大胆な気持ちでいたために、うっかりミスを犯してしまったんでしょうね。
イレーネたちと一緒に食べるつもりで持ってきていたロールケーキを、台所にあった料理用ストーブで温めて、朝食のデザートとして出してしまったのです。
麻子としては、一夜の宿を貸してくれたことへのほんのお礼の気持ちでした。
カチコチに凍っていたケーキは、薪オーブンの強めの熱で温めてしまったため、表面をパリリと焦がしてしまいました。けれど中の
「……これは何だ?」
ケーキを無造作にフォークで切って一口食べた途端に、マクスは物思いから一気に覚めてしまったようです。
心ここにあらずといった感じで、麻子が作った朝食を黙々と食べていたマクスでしたが、今は鋭い目つきで麻子を見据えています。
「ロールケーキです」
「それはわかっている。これは卵を多く使うはずだ。今はもう冬に入っている。鶏は滅多と卵を産まない。したがって、パントリーにこんなに多くの卵はなかったはずだ」
……この人、料理をしないのかと思ってた。昨日の昼も夜も、今朝だって、麻子が台所のことをするのに異を唱えたりしなかった。だからてっきり料理が好きじゃないのかと思っていたけれど、ケーキに卵を使うなんていうことも知ってたのね。
「これはカバンに入れて家から持って来ていたんです。こちらのパントリーにご迷惑はおかけしていません」
「……お前の家はいったいどこにある? 薄手の冬服、この贅沢なケーキ。異国の名前。言葉の
あっちゃー
とうとう核心を突いてきましたね。
お互い自分のことは話さないようにして、ダレン村の店やラデル山脈に生えている植物のこと、今後の天候のことだけを会話の話題にしてきました。ここにきて、こんなことを聞かれるとは思ってもみませんでした。
明るくなってきた窓の外を見ながら、麻子はどう説明すればごまかせるか頭を悩ませました。嘘をつく時は真実を混ぜて話すのがいいと聞いたことがあります。
「えっと、大岩と背の高いミモザの樹がある道をずっとエスタル山の方に登ったところが家です。そこに独りで住んでいます」
噓は言ってないよ、実際あるのは洞窟だけど。
「大きな洞窟があるところか?」
ギクッ。この人、あの辺りのことも知ってるの?
「そ、そうです。夏から住み始めたので、この国の冬にまだ慣れていないんですよ」
「ふーん。まあ、いい。明るくなってきたようだから、今日は村まで行けそうだ。迷わない辺りまで送ってやる」
ほっ、細かいところまで追及されなくて助かった。
麻子はそう思って安心したのですが、この説明をしたことが今後の運命を決定づけたといっていいかもしれません。
樹々の合間からダレン村が見えるようになった時、マクスは麻子を置き去りにして
「あの……ありがとうございました!」
マクスの背中に声をかけると、彼は振り返りもせず手を上げただけで、すぐに樹々の合間に見えなくなっていきました。
丸一日を狭い山小屋の中で一緒に過ごしていたので、少しは親しくなれたと思っていたのですが、彼の方はそうでもなかったようです。
一人になったことで何か寂しい気持ちになりました。けれどダレン村で待っているイレーネとパルマおばさんのことを思い出して気持ちを切り替えると、麻子は村を目指して山を降り始めました。
雪が深く積もっていたので、村に降りるのにいつもより長い時間がかかりましたが、村はずれにあるパルマおばさんの家に着いた時、麻子の中にはまだ充分な体力が残っていました。
「こんにちは。昨日は来れなくてごめんなさい」
「まぁ、アサコ! よかった、心配してたんだよ。あんたが分別を働かせて、
パルマおばさんは編んでいた毛糸の塊をテーブルの上に放り投げると、ヨタヨタとできうる限りのスピードで戸口のところまで出てきてくれました。そして満面の笑顔を浮かべて、冷たくなっていた麻子の頬を両手で挟んでゴシゴシこすると、ふくよかでやわらかい胸にギュッと抱きしめてくれました。
どうやらだいぶ心配させてしまったようです。
麻子がおばさんを抱き返していると、イレーネもその上から二人をハグして言いました。
「今年は冬が早くきたみたい。私も
「ごめんね、二人とも。私も今回のことでここの冬のことがよくわかりました。これから気をつけます」
携帯があったら連絡もできたんですが、この国ではまだ電化製品が発達していないようです。時計もゼンマイ式ですし、燃料も薪を使っています。でもマクスの山小屋には電話のようなものがありました。この国ではなくて、この村限定の事情なのかもしれません。
北にラデル山脈をのぞむ高原地帯に位置するダレン村は、地球でいうとアルプスの山々に点在しているような可愛らしい村です。
都会に行けば、もっと便利な電化製品があるのかもしれません。
イレーネに昨日のことを聞かれて、麻子は森に住んでいる男の人に助けられたということを話してしまいました。二人は昨日、洞窟の入り口で吹雪を見た麻子がパルマおばさんの家に来ることを諦めて、あっちの家に引き返していればいいなと願っていたようです。麻子が雪が降っている森を歩いたことを聞いて、ずいぶんと驚いていました。
「でも森に人が住んでいたなんて知らなかったわ」
「もしかして、店屋のパンダルが言っていた『謎の男』のことじゃないかい? 秋の終わりに馬車一車分も食料を買い込んだんだって! 一か月ほど前に都の人がその男のことを聞きに来たそうだよ。その時は『そんな男は知らない』ってパンダルは言ったけど、食料を買いに来た男を見て、ああこいつのことだったのかって、思ったんだってさ」
「へぇ~、なんか訳ありみたいね」
イレーネとパルマおばさんは、噂話が大好きです。娯楽の乏しい小さな村に住んでいたら、無理もないことです。けれど麻子のことは『昔、外国に引っ越して行った遠い親戚の子どもだよ』と村の人たちに説明してくれていますし、異世界のことも誰にも言っていません。
「おばさんもイレーネも、私が男の人に助けられたってことは内緒にしといてね。命を助けられたのに迷惑をかけたくないから……」
「わかってるよ。アサコを助けてくれた人は、私たちにとっても恩人だから。悪いようにはしないよ」
パルマおばさんはそう確約してくれましたし、イレーネも大きく頷いてくれました。
この二人は本当に、ずっとその約束を守ってくれたのです。
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