隣の異世界

秋野 木星

第1話 雪の中の出会い

 麻子の今朝のご飯はベーコンエッグのようです。


平屋の一軒家の大きさには似合わない業務用の四つ口コンロに、ピンク色のフライパンをのせて油をひくと、薄切りのベーコンを三枚放り込みます。油がパチパチと音を立てて跳ねるのを我慢しながら、ベーコンの上へ大きめの卵を一つ割り入れます。ベーコンがチリチリと縮んで波打ちながらいい匂いをたて始めると、麻子は卵の上に塩と粒コショウをパラパラとふりかけて、蓋をします。卵の白身が固まりかけてきたら、ほんのちょっぽりお湯を入れて、再び蓋をして一気に蒸し焼きにするのです。


トースターがチンと音を立てて、食パンが焼けたことを知らせます。

こんがりと焼けたパンに、たっぷりとバターをぬって、温めた野菜スープを黄緑色のスープマグに注いだころには、ベーコンエッグもほどよく焼きあがりました。

シャキシャキしたフリルレタスと真っ赤なトマトが待っているお皿へ、ベーコンエッグをスルリとのせます。

麻子は半熟に焼いた卵に、中濃ソースをかけて食べるのが好きなのです。


洋風の朝ご飯を食べながら、麻子は満足そうに自慢のキッチンを眺めます。

木の香りがするウッディなインテリアで統一された部屋の中に、クリーム色のキッチンカウンターがあります。冬の穏やかな日差しが降りそそぐ窓辺には、一人用のダイニングテーブルがしつらえてあります。


お正月に出窓に飾った花が、さすがにしおれてきているのが目に入りました。

「シクラメンの花が咲き始めてたよね」

麻子は庭の東側の棚にズラリと並んでいる鉢の中に、毎年咲いてくれているピンクのシクラメンがあったことを思い出しました。

「あれを出窓に持ってこようかな」

それがよさそうです。あたたかい部屋の中に入れてやると、シクラメンもホッとすることでしょう。



 美味しくいただいた朝ご飯の片付けをすませると、麻子は茶色のカバンを開けて、隣に出かける前に忘れ物がないかどうかチェックをします。


今日は春の花柄を縫っていくので、カバンの中には色とりどりの糸が入っています。特に鮮やかな黄色の糸は大量に持っていく予定です。春の花といえば黄色の花がポイントになりますからね。

麻子はカバンの中の荷物を確かめて、よしと頷きました。

鮮やかな色が好きなイレーネはこの糸を見て、嬉しくてニンマリすることでしょう。しっかり者のパルマおばさんはもう作業を始めているかもしれません。


「お茶のケーキも持ったし。うん、鍵もオッケー」

麻子は戸締りを指さし確認で確かめると、大きなカバンを肩に掛けて隣の家に歩いて行きました。

芝生が敷きつめられた庭を通り、白い玄関扉の前に立つと、麻子は上着のポケットから取り出した銀色の鍵を使い、お隣の家の中に入りました。


そこはいつもの洞窟の中でした。


よく本の中に書かれている「異世界」といったらいいのでしょうか?

麻子は去年の夏、時たま窓を開けて換気しておいてくれるようにと、外国に行くことになった隣の家の人に頼まれたのです。ところが初めて隣の家の鍵を開けて中に入ると、そこは見たこともない洞窟の中だったのです。

そこから麻子の冒険が始まりました。


森を抜けてラデル山脈のふもとの村に着いた時、最初に会ったのがイレーネでした。これは麻子にとって人生を変える出会いとなりました。イレーネは一緒に住んでいるパルマおばさんを、麻子に紹介してくれました。この二人に異世界の言葉を習い、そしてこの二人と手芸品の店を出すことになったことで、麻子は勤めていた会社を辞め、日本とグレン村を往復する生活をおくることになったのです。



乾いた冬の風がヒューヒューと音を立てて洞窟の中に吹き込んできています。


「わ、やっぱりこっちは雪かも……」

あまりの温度差に、麻子はブルリと震えながら上着のボタンを一番上までとめました。腕にかけていたマフラーで頭から首回りまでぐるりとおおいます。

パルマおばさんの天気予報って、正確だ~

昨日、麻子が帰る時に、おばさんは「夜更けから雪になるよ」と言っていました。「明日はしっかり着込んでくるんだよ」と心配してくれていたので、麻子は気をつけるとおばさんに約束したのです。イレーネは眉を上げ下げして、おばさんの心配が過ぎると茶化していましたが、年寄りの言うことは聞いておくものです。麻子は口までおおった毛糸の温もりに包まれて、ふうっと息を吐きました。


麻子が洞窟の入り口から外を見ると、そこは一夜にして真っ白になった銀世界でした。もこもこした雪の畝の上に、まだ細かい雪が降り続いています。

うーん、スキー用の服の方が良かったかも。

冬でも比較的温暖な地方で育った麻子は、雪の怖さを知りませんでした。


まぁなんとかなるだろうと洞窟を出て、村に向かっていつもの道を歩き出したのですが、谷間になると雪が深くなってきて、なかなか前に進めません。

ラッセルのように雪を掻き分けて歩いていると、だんだんと足が冷たくなってきました。息を切らして運動しているので身体の中は火照っているのですが、手足の先は凍ったように感覚がなくなってきました。降りしきる雪をずっと受け続けていたことで、身体は芯から疲れ切ってきています。


ヤバい。

まさか遭難のフラグが立っちゃった?


冗談めかしていましたが、麻子の顔からは色が消えていきました。

もう抜けてもいいはずの森の中から、まだ抜け出ることができないのです。もしかしたら道に迷ったのかもしれません。

けれど歩き続けるしかないのです。どこでわき道にそれたのかわからないのですから……

麻子の周り中に雪に覆われた森が立ちふさがっていました。


麻子がもう何度目かに立ち止まって、大きなカバンの底についた雪を払い落していた時に、微かに鈴の音が聞こえてきました。


やった! 人がいる!

雪をかぶった森の樹々の間からこんもりとした黒い塊が、こちらに近づいてきます。ザッザッと重たいものを引く音とチリリとなる鈴の音が、麻子の疲弊した身体を喜びで満たしました。


「すいませーん! 助けてください!!」

大声で叫んだ麻子の声が聞こえたのか、黒い塊は立ち止まると、頭を上げてキョロキョロと周囲を見回しました。

どうやら毛皮の服を着た大柄な男の人のようです。荷物を乗せたソリを引いているのか、手には太い縄が握られていました。


麻子を目にした男の人は、信じられないものを見たとでもいうように首を振ったかと思うと、進む方向を修正して麻子のいる方に向かってきました。


人がいたと一度は安堵した麻子でしたが、その人が近づいてくるたびに、何故だか背中をゾクゾクとした戦慄が駆け抜けるのを抑えることができませんでした。


なに?

え、え、え、どういうこと?!

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