ヨイ――ただ一途な心

村上 ガラ

第1話

 人魚は海にばかりいるのではない。





 まだ、人々が、夜は闇に眠り、あやかしに畏れを抱きながら暮らしていた昭和の初めころの、さる大家の広大な庭の池での話。





 ヨイ、は空を見上げた。なんでヨイという名なのか。ヨイの主人はいつもヨイをそう呼ぶからだ。ヨイの主人は家の外で行き会った、自分の家で飼っていない犬もそう呼ぶ。猫もそう呼ぶ。・・・つまり、それは、ヨイにはきちんとした名さえないということだ。


 ヨイはこの池で産まれた。ヨイの母はこの池に住んでいた鯉だったが・・・、ヨイの父親は・・・このうちの親戚の男の子だった。


 もうずいぶん前の話だが、その親戚の子供がこのうちに泊りに来た際に、二階に用意されていた布団の上で自慰をした。そして、窓からその始末をした紙を池に放り投げた。池では産気づいたヨイの母が産卵をしていた。そして紙はその上に落ちてきて、受精した。こんな事故で生まれたのが、新種である淡水性の人魚のヨイである。まさか、と思うかもしれないが、新種が生まれる、何かが進化するなど、こういった事故の類がきっかけとなってのおこるものだ。


 ヨイを見つけたのが、今、このうちの主人である洋一郎だ。


洋一郎が幼く、ヨイもまだ、小さかった頃、洋一郎が池でヨイを見かけ、「お母さん、お話に出てきた人魚がいるよ。」と母親に告げた。まあ、どこに、と洋一郎の母は、探しもせず、幼子の想像力を喜び、息子に尋ねた。その時から、洋一郎は、ヨイのことを誰にも教えなくなった。ヨイも気を付けて洋一郎以外の人間に見られぬようにした。


 洋一郎は時たま「ヨーイ、ヨイ。」とヨイを呼び、人間の食べる菓子などを持ってきてくれた。時には、屋敷の門の外に咲いている花を持ってきてくれた。ヨイにはそれで十分だった。





 月日は流れ、洋一郎は親の決めた結婚相手を連れて庭に来た。そして、「この池、人魚がいるんですよ。」とその娘に言った。


 ヨイは息が止まりそうだった。洋一郎に裏切られたと思った。


 だが、美しい、余所行きの友禅の振袖をまとった、育ちの良い娘は「え?まさか。」と言った後、こう続けた。「でも、本当にそうなら、素敵ですね。」


 ヨイは娘を認めた。


 ヨイは時々、水面から顔を出して、屋敷のほうを眺めた。大体、洋一郎は出かけ、妻は家の中で立ち働いていた。妻と目があったような気のするときもあったが、妻は何事もなかったように家事を続けた。


 もっともっと月日は流れ、何年も過ぎた。洋一郎はあまり家に帰らなくなった。


 そのころには、洋一郎も年を取り、洋一郎の若く美しかった妻も年を取っていた。夫婦の間にはとうとう子供ができなかった。


 洋一郎の妻は夫を愛していた。子を生せない女はなぜかそのことに罪の意識を持つ。洋一郎の妻はその罪の意識も相まって、いまでは洋一郎に心の底から執着していた。離れない離れない離れない………。


 そんなある日。


池の中に、ぽちゃんと音がして何かが落ちてきた。 池に空から降って来た。ダイヤモンドの指輪、プラチナの指輪、真珠のネックレス、ルビーのブローチ・・・。もっと質素な、手作りの木彫りのブローチ(昔、洋一郎が妻に自分で作ったと渡していた)や、帯どめ、髪飾り、お土産物の人形・・・。妻が家の縁側に立ち、池にそれらを放り込んでいるのが見えた。ヨイは怖かった。妻の顔は、見たこともない、恐ろしい般若はんにゃのようだった。


 ヨイは妻に見つからないように隠れた。ヨイが見た妻の姿はそれが最後だった。


 妻はやがて家の奥に引っ込んだ。その夜、家の方から泣き叫ぶ声や物のの壊れる大きな音が聞こえてきた。


 それから間もなく妻は家にいなくなった。ひと時、大勢の人間が出入りし、大騒ぎとなった。


 一月もたつと、若く毒々しい美しい女が家にいるようになった。家の周りでささやく声がヨイにも聞こえてきた。・・・いい年して、とち狂って、奥さんを追い出したんですってよ・・・。ヨイには意味は解らなかったが、洋一郎も、もう、ヨイの名を呼び、姿を探しに来ることもなく、さみしかった。


 洋一郎は白髪の多い頭をして若い娘の機嫌ばかり取っていた。次から次へと若い娘に、物をもって帰って来たが、娘のほうは、それをどこかにもっていき、金に換えているようだった。娘の親だの親類だのと名乗る、目つきの悪い者たちが出入りしては、家の調度品が消えていった。


 家も庭も池も、荒れ果てた。


 娘は、時たまヨイの住む池にやってきては瓶から何かを放り込む。そして池の鯉がそれを口にすると、腹を上にして浮かび上がるのを見てにんまりと笑うのだ。


 娘は同じものを洋一郎の食事にも入れているようだった。少しづつ少しづつ・・・。


 ヨイはあるときから、娘が池に、投げ入れる、それを、鯉が食べ残した分を隠しためておくことにした。少しづつ、少しづつ・・・・。


 人魚は人間とは違う。ダイヤモンドや真珠をため込むことはない。物欲は無い。ただ一つ欲しいもの・・・・。それは恋する人の・・・・幸せ。


「あの娘は毒だ。」ヨイはそう結論を下した。


 ヨイはある日、意を決して池を出た。物干しから飛んできた洗濯物を巻き付け、体を隠し、陸の上では不自由な下半身の小さなコンパスを大きく振って、よちよち、家の中に入った。家の中には洋一郎と娘の食事の用意がしてあった。ヨイは集めた毒を小さな茶碗の添えてあるほうの煮ものの皿にいれた。


 終わりはあっけなく来た。


 鯉を殺す程度の毒など、人間に何ほどの事もない。にくい女は一口食べて煮ものを吐き出し、洋一郎は女をいたわった。そして・・・、家の中に落ちていた鱗からヨイのことを思い出し、この出来事をヨイと結びつけた。洋一郎は池に来た。


「ヨーイ、ヨイ。」久しぶりに呼ぶ声に喜び勇んで、ヨイは水面に浮かんだ。そして、


 洋一郎の投げ込んだ農薬を思い切り飲み込んでしまった。


 にくい女は、子を宿していて、洋一郎はその子に害をなそうとしたヨイを殺そうとしたのだった。


 ヨイは池の底の泥に沈んだ。


 だがその日死んだのはヨイばかりではなかった。


 洋一郎の、追い出された妻がその日、屋敷に火をつけたのだ。炎は妻の嫉妬や無念を表すようにごうごうと燃え盛った。妻は、燃え盛る炎の中に飛び込んだ。そして、二度と出てこなかった。洋一郎は、逃げ遅れた、洋一郎の子ではない子どもを宿した娘をかばい・・・死んだ。  


 火事の中、ただ一人、大やけどを負いながら、助け出された若い女は、強い生命力を見せ、息を吹き返した。何とおなかの子も助かった。いずれ、親類縁者全員を敵に回しても、この家の財産全てを根こそぎ自分のものにするのだろう。最初の計画通りに。


 だが。


 洋一郎は、愛する女をを守れたと思いながら死んだので幸せだったはずだ。


 ついでに言えば洋一郎の妻も、夫とともに死ねたので幸せだったはずだ。


 そして洋一郎の幸せこそがヨイの何よりの望みなのであったのだから、・・・だから。


 だから、ヨイは幸せになれたということだ。


 ヨイは池の泥の中に、洋一郎の妻の捨てた、洋一郎が妻へ、愛情の証に買い与えていたダイヤモンドや、ルビーや真珠や、木彫りのブローチとともに深く沈み込み、誰にも気づかれずに眠っている。


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