第3話 廃部の危機は突然に

 ~伊野部俊(海港中学二年・バレーボール部)~


 授業と部活を終えて帰宅、夕食も風呂も宿題も終わった夜。自宅のリビングで本に目を通す。小遣いの大部分を費やして買ったバレーボールの練習や上達に関する本を三冊。少しでもみんなを上手くしてやりたいという思いから、家では時間の許す限りほんとにらめっこをする日々が続いている。

「今日もバレーの本?」

「そうだよ」

 夕食の後片付けを終えた母が後ろから覗いて見ている。

「最近、機嫌が良さそうね」

「そう?」

「だって、よく嬉しそうな顔するじゃない」

 自分としてはそういうつもりはなかった。しかし母にはそう見えているらしい。

「お父さんも口数は多い方じゃないけど、嬉しそうかどうかは顔を見ればすぐわかるの。親子ね」

 水の音が聞こえてくる風呂場に意識が向く。風呂に浸かる父と似ていると言われ、少しむず痒い気分だった。

「それで、試合には出られそうなの?」

「まぁね」

 ひとまず自分も含めて十二人集まった。試合に出ることに問題は無い。

「いつ試合なの? 見に行くからね」

「えっと、次は早くて四月末頃だったかな」

 去年の四月、海港中学に転校してすぐだった。練習試合と公式試合。その二つを見て海港中学の女子チームの強さを実感した。対戦相手に恵まれれば全国大会だって目指せるかもしれない。そう思わせる奮闘ぶりを目の当たりにしたのだ。

 それに比べて男子は寄せ集めのチーム。まだろくにチャンスボールの処理も安定していないし、基本的な高く上がったオープントスからのスパイクもネットかコートの外に外れることが多い。サーブもミスする確率の方が高いくらいだ。女子と比べることすら失礼だと言われてしまえばそれまでだが、同じ海港中学という名前を背負う以上はこの差をなんとしても埋めたい。そう思っていた。

 どうすればより早く上達できるのか。バレーボール初心者にもっと上手く教えることができるのか。限られた時間を同有効に使えるのか。考えに考えた結果、バレーボールの関する本の購入に踏み切ったのだった。

 さらに付属のDVDの映像と無料で見られるバレーボールに関するネット動画。それらを見て、バレーボール初心者メンバーに教えられることを教えていた。

「楽しみね。四月末頃ってことはゴールデンウィーク前? それだったらお父さんも見に行けるかもしれないから」

「そんなに頑張ってわざわざ見に来なくてもいいよ」

 正直、勝つ気ではいる。勝つ気ではいるが、勝てる自信はまだ無い。運動能力が高くて授業で目を見張る活躍をしたメンバーとは言え、バレーボールの公式試合となれば素人と何も変わらない。集まった十一人全員からサービスエースを取る自信はあるし、三枚ブロックから点を取る自信もある。戦力とは到底呼べないレベルなのだ。

 しかしそれはあくまで「今」の話だ。誰もが最初は素人で、初心者からの出発なのだ。現時点で素人同然でも、この先の成長はわからない。成長速度を少しでも高めることが勝利への一歩であり、チームとしての力をつけることになる。

「前の中学、転校が決まってなければ公式戦に出られたのに、ごめんね」

 母の声が少し小さかった。

「気にしてないよ。チーム内の紅白戦にはずっと出ていたし」

「それでも公式戦、出たかったでしょ?」

 中学一年の秋、三年生が引退した後の新チーム。二年生を中心とした新チームだったが、人数とポジションの関係で自分はレギュラーになるかベンチになるかの当落線上だった。技術的には同級生と比べて劣るどころか勝っていたし、身長も高い方だった。だから新チームになったとき、まず間違いなくベンチ入りはすると思っていたのだ。

 しかしちょうどその頃、父の転勤が決まり半年後には転校することとなった。それを監督に伝えると「チームの先のことを考える」と言われ、新チームの初陣はベンチ外となった。そしてそれから一度もユニフォームを着ることなく、卒業していく三年生の送別会の日に紅白戦をして、一緒に送り出された。

 いなくなる選手を育てることに注力しない。その監督の方針に不思議と理解を示してしまった。スポーツのチームを育成するゲームでも、移籍や引退で退団する選手の出場機会を削るのはプレーヤーとして当然だ。だから自分もそうなのだと、不思議と納得して従っていたのだ。

「毛利先生だっけ? 本当に、変わった先生よね」

 今思えば一度でいいから公式戦には出して欲しかった。時間は長くなくてもいい。思い出での出場でもかまわない。一度でいいから公式戦でユニフォームだけは着たかった。けれども前の中学の監督はそうしなかった。きっと、毛利先生なら出しただろう。

 そもそも授業のカリキュラムが変わったとクラスメイト達が口々に言っていた。その原因はどう考えても男子のバレーボールのチーム結成のためだ。ならそう動いたのは毛利先生に他ならないだろう。

「でも、良い先生でしょ?」

「良い先生? 毛利先生が? 怖い上に何を考えているかさっぱりってだけだよ」

「そう? 良い先生だと思うけどなぁ」

「どこが?」

 毛利先生を良い先生という母。何故そう思うのか、この時はよくわからなかった。しかし次の言葉を聞いて、納得してしまった。

「だって俊、最近は前の学校の話をしなくなったじゃない」

「……え?」

 わずかに沈黙。そして考えた。海港中学に転校してきた頃は何かにつけて前の学校と比べていた。学校の校舎の作りや体育館の広さ、授業にクラブ。間違いなく目についたことや気になったことは全て比較していた。

 しかしいつからだろうか。前の学校をただの違いとしか見なくなっていた。比較してどちらが優れているか、どちらがより良いか、そんなどうしようもない比較をすることは無くなっていた。

「良い学校で良い先生に巡り会えたってことでしょ?」

 母はニコッと得意げな顔をして台所へ消えていく。母がいなくなった後も言われた言葉が頭から離れず、この日はこれ以上バレーの本を読んでも内容が頭に入ってこなかった。




 ~雪村聡美(海港中学二年・女子バレーボール部キャプテン)~


 才能。そう一言で片付けてしまうのは簡単。けれどもそんなに簡単に気持ちの方は片付けられない。

 一月の半ばに結成した即席男子バレーボール部。結成間もない頃は素人集団ということと、二月から冬の大会が始まることもあってあまり気にしている余裕はなかった。メンバーが全員揃うのが女子の練習が終わった後で、大会期間中は女子の練習が優先のため体育館内は女子が優先して使っていた。

 しかし大会が終わり、暖かくなり始めた三月の頭。練習の合間に男子がコートを使っているときの練習を見て、正直驚いた。

「あれ? 男子ってあんなに上手かったっけ?」

「いや、ついこの前までボールをバンバン横に飛ばしていたはずだけど……」

 梨子や恵那や沙百合達もどうやら私と同じことを思ったようだ。

 技術的にはまだまだだ。サーブレシーブは動きが硬くて安定しないし、パスはセッターがトスを上げやすいボールを出せていない。スパイクはコースの打ち分けができていないし、サーブはコートの中にただ入れるだけ。ブロックもスパイクを打ってくる相手の位置や向きを気にせず跳んでいる。正直、まだまだだ。

 しかし男子は練習を始めてまだ一ヶ月半程度。しかも野球部や陸上部に所属しているため、そちらの練習が終わってからの合流。体育館の使用は女子が優先で男子は基本的に隅で基本練習をして、女子が終わってからコートを時間いっぱい使うが、当然時間はそんなに長くはない。さらに野球部や陸上部で遠征があれば、当然バレー部の練習には参加できない。

 満足に練習できない環境で一ヶ月半。それでこれだけできれば上出来だ。いや、正直驚異的と言っていい。自分が一年生の時、四月に入部して一ヶ月半後の五月半ば。同級生の女子全員がいったいどこまでプレーすることができただろうか。そう考えると、運動能力の高いメンバーだらけという男子のチームが羨ましく思えてきた。

「うがー……またスパイクがアウトだ」

 野球部の村山がスパイクを打って、それが体育館の壁に直撃する。それに頭を抱える村山だが、伊野部がさっと駆けよってすぐさまドバイスをする。

「村山、野球の投球フォームの癖が出ているぞ。肘から行くとボールの下を打ってしまって下じゃなくて上に飛んでしまう。ボールは上から下に叩きつけるんだ」

「おう! もう一回打たせてくれ!」

 次に打った村山のボールはしっかりとコートの中に行く。そのボールを陸上部の清水がレシーブしようとするも、まっすぐ体育館の壁に飛ばしてしまった。

「清水、スパイクに全部反応するのは難しい。反応できなくても当たったら味方がいる方に飛ぶように姿勢を作るんだ。身体を外じゃなくて中に向けてレシーブしてくれ」

「おう、気をつける」

 レベルの高いことをしているわけではない。伊野部を先生として基本を忠実にしっかり学び、最低限のスキルを身につけていく。

 バレーボールをする時、攻撃では派手なコンビプレーやクイック攻撃を試したがる人は多い。しかしそういった技術面の練習は後回しにして、高く上がったボールを打つオープンスパイクと練習している。守備ではフライングレシーブや回転レシーブを試したがる人が多い。しかししっかりと地に足をつけた強打レシーブの姿勢からしっかりと練習している。

 先に技術面の練習を遊びでもやってしまうと、そちらの方が悪い癖となってしまう。フライングレシーブや回転レシーブができるようになっても、基本のボールの落下点に先に動くということができなければ次の人にいいボールを繋げない。レシーブの為の移動をサボる癖がつくこともあるし、相手の攻撃に対してのポジション取りもいい加減になりがちだ。しかし伊野部を中心に、男子はしっかりと基本を習得しようと練習を繰り返していた。

 その結果もあってだろう。一ヶ月半という短期間で、素人だらけのメンバーの練習が見ることのできるレベルにまで成長していたのだ。

「うぉ、神田すげぇ!」

 そして何より驚いたのが野球部の神田。みんなと同じ時間しか練習をしていないのに、その技術は素人メンバーの中でも突出している。そして身体能力が高いこともあり、スパイクでは特に目立つ存在となっていた。

「神田、スパイクは叩きつけても緩く打っても一点だ。叩きつけるとブロックにかかりやすくなるし、ブロックに当たって返ってきたボールは真下に落ちるから拾えない。奥の方へコースを意識して打つんだ」

「すまん、つい打ってみたくなった」

 神田は何事もなかったように笑っているが、そのスパイクは一ヶ月半で打てるようなものではない。

 伊野部も上手かったが、神田の習得能力の高さには嫉妬すらしてしまう。これをただ才能という一言で片付けてしまうのは、自分自身のプライドが許さない。

「おー、なかなか様になってきたやないか」

 所用で学校を出ていた毛利先生が帰ってきた。男子の練習を見てご満悦だ。

「そろそろ次のステップやな。おい、雪村!」

「はい!」

 いきなり名前を呼ばれたが、毛利先生はいつ名前を呼ぶかわからない。心の準備ができているので驚きはなかった。

「練習試合の準備や。三セットマッチを一回だけやるぞ」

「……はい?」

 練習試合。そう言われて一瞬、固まった。

「男子と、ですか?」

「そうや。他におるか?」

「いえ……」

 下級生チームとの紅白戦は幾度となくやっている。そして下級生チームに伊野部を入れて強化しているので、良い勝負になっている。その練習試合を下級生チームではなく、男子チームとするということのようだ。

「女子は全力で男子をいじめろ。ワンタッチでの弾き出し、フェイント、変化するサーブにツーアタック。何でも使ってええからとにかく男子をいじめ倒せ」

 つまり「女子は本気でやれ」という指示だ。

「男子はブロックとレシーブを頑張れ。なるべく失点するな。ネットの高さは女子に合わせるからスパイクは打ちやすいやろうけど、トスが上がらんとスパイクは打てへんからな。伊野部はセッターをやれ」

「はい」

 伊野部をセッターにする。なら今のところ気をつけるべきスパイカーは神田だ。

「女子は男子の球の速さに慣れるんやぞ。男子は女子の技術に慣れろ」

 毛利先生の意図を理解した。練習試合という形式で練習することで実戦に近いボールの動きに男子を慣れさせる。そして伊野部以外の男子のスパイクに女子に目や感覚を慣れさせる。男女の練習試合という一見おかしな組み合わせだ。しかし素人の男子とチームとして実力のある女子が、女子のネットの高さで力と高さのある男子と女子がすることで、互いの強化に繋がる。

 さらに三セットマッチを一回。男子のチームはまだポジションも定まっていない。メンバーを代えながら行うことで適正ポジションも探すことができる。

「女子の空いたメンバーは空いてる男子に審判のやり方も教えたれ」

 もう一つ、男子の審判の練習もできる。実に合理的な練習だ。

「よーし、準備できたら始めろ」

 毛利先生の指示で男女の練習試合が始まった。最初はどういう試合展開になるかドキドキしたが、やはり試合慣れしていない男子はほころびが多く、駆け引きもたいしたことが無い。あっけなく試合は終わったが、それでも男女共に手応えを感じる練習だった。


・試合結果

 女子一軍 2(25-9・25-8)0 男子




 ~山辺千豊(海港中学野球部顧問・社会科教員)~


 卒業式を来週に控えた三月上旬。陸上部顧問の田原先生から話があると呼び出され、第一会議室で二人だけで話をすることになった。

「山辺先生、こちらを見てください」

 田原先生の受け持ちは国語。その国語の試験結果を数名分、この一年間の推移を表にして見せてきた。

「二年の五間、近藤、清水、芹沢、日暮。掛け持ちでバレー部を始めたメンバーですが、学年末試験の成績が全員下がっています」

「確かに、下がっていますね」

 そう言われて自分が受け持っている社会はどうだったか。頭の中で考えていると、田原先生が次の表を見せてくる。

「こちらは野球部の神田、椎名、柴田、時任、中野、村山。掛け持ちでバレー部を始めたメンバーの国語の成績ですが、こちらも全員下がっています」

 野球部のメンバーの名前を見て思い出した。全員の成績の推移を覚えてはいないが、自分が受け持っている野球部の社会の成績は確認するようにしている。確かに掛け持ちでバレー部をやっている六人の成績が下がっていた記憶がある。

「掛け持ちをしている野球部の六人は社会の成績も確か下がっていましたね」

「やはりそうでしたか」

 田原先生は思ったとおりだと頷いた。

「他にも数学、理科、英語の成績も下降傾向にあると思います」

 国語と社会の成績が下がっていた。だから五教科の他の成績も下がっている可能性が高い。田原先生はそう言いたいのだ。

「生徒の自主性を尊重する。それは良いと思います。ですが陸上部を預かる身として、陸上部員の成績低下は見過ごせません」

「確かに、野球部を預かっている身としては野球部員の成績低下は望ましくないです」

「そうでしょう。山辺先生ならわかってくださると思っていました」

 同意の言葉を聞いてか、田原先生の言葉にはさらに熱が籠もる。

「学生の本分は第一に勉学です。この勉学がおろそかになるようなら、例え生徒の希望や自主性であっても認めるわけにはいきません」

 今までの成績と比較して学年末試験の成績が下がった。その原因はこのメンバーに限って言えばバレー部を掛け持ちしたことだと言ってもいいだろう。学生である以上、一番重要なのはクラブ活動の成績ではなくテストの成績だ。

 それを共にバレー部の掛け持ちメンバーがいる野球部顧問に理解してもらいたい。そういう考えが田原先生にはあるのだろう。

「そうですね。勉強を頑張るように言う必要がありますね」

 三年生になれば受験もある。だから勉学の成績を落としてはいけない。得点の推移を見せながら説教する必要はあるだろう。

「いえ、それだけではダメでしょう」

 しかし田原先生はそれだけでは不十分ではないかと言い始めた。

「成績の低下はバレー部を掛け持ちしたことです。なら、まずはバレー部の掛け持ちを辞めさせなければなりません」

「いや、さすがにそれは……」

 野球部の練習をこなした上でバレー部の練習に参加している。成績の低下は許されないが、辞めさせるほどのことだろうか。

「山辺先生は男子バレー部には反対しておられましたよね?」

「ええ、まぁ……」

 反対はしていた。だがそれはあくまで女子の中に男子が一人混じっている状況がよろしくないからだ。現在、男子バレー部は十一人が掛け持ちだ。しかし総勢十二名という部員数に一応なっている。問題が起こらない限り、これを強制的に辞めさせるのは難しい。

「学生の本分である勉学の成績低下。これは問題ですよ」

 男子バレー部の存続に関して反対意見はない。しかし現状を見守ることはできないという意見には賛成だ。後はどういう対策を取るかだが、田原先生はどうやら厳しい判断を下すのが良いと考えているようだ。

「掛け持ちを禁止すべきです」

「ですが生徒の自主性を尊重するということも重要でしょう?」

「重要ではないとは言いません。ですが、このまま成績が下がったままでは進学に影響が出ます。山辺先生は野球部員の進学先が軒並みレベルの低い高校となっても良いというのですか?」

「いや、そうは言いませんよ」

「それでしたら掛け持ちは禁止すべきです」

 田原先生は頑なだ。掛け持ち禁止を譲る気はないという意思の表れだろう。これを説得するのは無理かもしれない。だからといってただ叱るだけで良いのかと聞かれれば、返答に困ってしまうところだ。

「成績が下がっていると言うことは授業中の集中力が下がっている可能性があります。このままならバレー部の練習では怪我をしなくても、野球部や陸上部の練習で怪我が起こってしまうかもしれません。スポーツ推薦を狙っている生徒もいるでしょう。このままではいけないんです」

 熱く、それでいて頑固。しかし言っていることに間違いは無い。受験は基本的に生徒の学力が物差しになる。クラブ活動は内申点の上下に繋がるとはいえ、学力に比べれば進学への影響力は低い。そしてそんな生徒達の輩出が成績となってしまう教師という立ち位置にいるからこそ、成績低下を重く受け止めなければならないという意見を否定できない。

「それでしたら田原先生。生徒達に勉強を頑張らせ、自主性をある程度尊重する案を考えなければなりませんよ」

 ただ単に禁止するだけでは生徒達は納得しないだろう。生徒達を納得させた上で、学力の向上に繋がる案が必要だ。

「勉強を頑張らせて、自主性を尊重する、ですか」

 しかしそんな都合の良い案がすぐに浮かぶわけがない。二人して第一会議室の中でしばらく考え込む。そして、田原先生は一つの案を考え出した。

「それでしたら山辺先生。テストの失態はテストで挽回する、というのはどうでしょうか」

 教師の権限で掛け持ちを止めさせ、学力向上に繋がり、それでいて生徒達を半ば無理矢理ではあるが納得させる案。そして生徒達が遊びではなく本気でバレー部をやろうとしているかを試すこともできる。

 今の自分に、その案を拒む材料はなかった。




 ~神田啓介(海港中学二年・野球部兼バレーボール部)~


 三月上旬。一つ上野先輩の卒業式を控えるこの時期、春とみんなは言うがまだ寒くて日が沈むのも早い。野球部の練習にミスが続き、今日は練習がいつもより長引いてしまった。

 日が暮れた中、グラウンドから見える体育館の窓から明かりが漏れている。この時間ならいつもは体育館にいるはずだが、今日はあいにくまだ体育館に迎えていない。しかし陸上部の練習はすでに終わっているから、伊野部が一人になっていることはないだろう。

 手早く練習着を片付けて鞄に詰め込む。これから体育館へと向かうメンバーを見れば、みんなも野球部の片付けを急いでいる。みんな早く体育館へ行きたいのだ。

 バレーを始めて一ヶ月半。スポーツをやっていて一番楽しい時期は、そのスポーツをできるようになっていることを実感している成長期だ。そしてバレーボールという競技が上達していることを実感している今この時、早く体育館へ行ってバレーがしたい。そういう感情が後片付けを急かしてくる。

「今日は三十分くらいしかできないかもな」

「まぁ、それでもやっておかないとダメだろ」

「やりたいってのもあるしな」

 一足早く準備を終えた中野と時任の会話を聞いて、みんな同じ気持ちなのがわかった。とにかく今はバレーをしていて一番楽しい。それに伊野部と一緒に試合に出て勝利するという目標にも燃えている。正直、野球よりもモチベーションは高い。

「よし、行こうか」

 バレー部を掛け持ちするメンバー全員が揃って体育館へ行こうとした時、野球部顧問の山辺先生が行く手を阻むように前に立ち塞がった。

「神田、椎名、柴田、時任、中野、村山。少し話がある」

「何ですか?」

 早く体育館に行きたい。そういう思いがみんなあるのだろう。話なら手短に頼む、という雰囲気をみんながまとっていた。

「お前ら、学年末試験で全員成績が下がっていたぞ」

 成績の話。山辺先生は社会科を受け持つ教師であり、野球部の顧問でもある。成績が下がっていいとは考えていないだろう。これはお小言が長くなりそうな、そんな予感がした。

「すみません。次は頑張りますから」

「次はもう三年だろ。進路に直接関わってくるんだ。成績の低下は見過ごせない」

 三年間必死にスポーツを頑張ってもスポーツ推薦で高校に行ける人数は一握りだ。だからクラブを頑張りながらも勉強をしなければならない。それはわかっている。わかってはいるが、今はそれよりも優先することがある。

 そもそも受験は三年生の冬だ。クラブは三年生の夏まで。その後に頑張っても十分間に合うはずだ。

「お前達、今日からバレー部との掛け持ちを禁止する」

「……は?」

 いきなりだった。いきなり禁止と言われた。全く頭がついていかなかった。

「ちょ、ちょっと、どうしてですか?」

「そんなもの、成績が下がったからに決まっているだろう。陸上部の田原先生も掛け持ちメンバーの成績が下がったと言っている。国語や社会だけでなく、数学も理科も英語も成績が下がったと聞いたぞ」

 野球部の練習が終わってからバレー部の練習を行っている。普段以上に体力を使い、慣れないバレーボールという競技を少しでも早く習得しようと精神力も使っている。それが原因なのだろう。家に帰れば最近は早く眠くなってよく寝る。試験前に一夜漬けなどで勉強はするものの、どうやら不十分だったらしい。

「俺らには時間が無いんですよ。今練習しなかったら、この先バレー部の試合に出ても勝てないじゃないですか」

「お前達は野球部だ。掛け持ちは禁止なのだから当然バレー部としての活動も禁止だ」

 それはつまり公式戦への出場すら禁止する、ということだ。

「次の試験は頑張ります。ですから……」

「ダメだ。もしバレーをしたいなら野球部を辞めてバレー部に入部しろ」

 伊野部のために試合に出たければ野球部を辞めろ。そう言われて全員が黙り込んでしまった。海港中学で野球をしているメンバーのほとんどは、地域の少年野球チームの出身者だ。小学生の低学年から野球をずっとやってきたメンバーなのだ。五年六年と野球をしてきたメンバーは、バレーがしたければ野球部を辞めろと言われた。今までやってきた野球人生全てを捨てるという決断など、到底できるはずがない。

「掛け持ちがしたければ次の試験で全員成績を上げることだ」

 次の試験は三年生になった最初の試験。時期が五月中旬。次の試合は四月下旬。バレー部としての活動を禁止されてしまった以上、野球部を辞めない限りこの試合に出場することはできない。

「わかったな」

 山辺先生はそう言うと後者の方へと歩き去って行く。その背中を恨めしそうに、姿が見えなくなるまで睨み付けるようにみんな見ていた。




 ~毛利喜多郎(海港中学バレーボール部顧問・生徒指導教員)~


 時計の針が六時を回る。いつもなら陸上部と野球部の練習が終わり、体育館に助っ人メンバーが集まってくる頃だ。そして体育館に入るなり用具室の二階へ行って着替え、準備を終えて練習を開始する。それがいつもの流れだ。

 しかし今日は違った。体育館にやってきた陸上部の面々は体育館に来ても着替えに行かず、まっすぐこちらに向かってきて頭を下げていた。

「毛利先生。俺ら、バレー部の試合に出るなって……」

 陸上部の田原先生と野球部の山辺先生。二人が野球部と陸上部の顧問として、生徒の成績低迷を見過ごせないのはわかる。生徒にテストで結果を出すまで厳しくするというのもわかる。その決断のしわ寄せとして伊野部の試合出場が叶わないというのは可哀想だが、教師という職業と学校という場所である以上致し方ないとするしかない。

 陸上部の面々が頭を下げている最中、野球部の面々も続いてやってきた。彼らも着替えずにまっすぐこちらにやってきて、陸上部の面々と同じように頭を下げた。

「俺ら、試合に出たいです。なんとかならないですか?」

 状況を察した伊野部も揃い、男子総勢十二名が集まっている。試合に出られるように掛け合って欲しいと頭を下げていた。

「なんともならんな」

 しかし、彼らの願いには応えられない。

「ワシは生徒指導教員や。少々の悪さ、多少の問題行動なら何とでもしたる。せやけどワシはただの生徒指導教員や。成績の数字にまでは口出しはできん」

 いかに勤続年数が長く、いかに長く教師をしていたとしても、担当している各科目の教員の判断にまでいちいち口出しはできない。学校という場所である以上、生徒の成績という数字が持つ意味は非常に大きい。

「お前らはお前らで真剣にやっとったんやろうな。でもここは学校や。テストの点数で判断されるもんや。お前ら、それを知らんかったわけやないやろ」

 各科目の教員はテストの点数に対しては厳しい。悪ければ辛辣な言葉も出るし、良ければねぎらいの笑顔が見える。それを生徒達は実感して知っている。テストの点で評価されるということを知っている。ただそのテストの点での評価がここまで及ぶことまでは頭が回らなかった。

 試合に出たいと再三頭を下げる十二人だが、学校であり教育機関である以上はどうしようもない。説得といえない強引な言葉で、なんとか解散させた。




 ~伊野部俊(海港中学二年・バレーボール部)~


 学校を出て道沿いに歩く。角のコンビニの駐車場に集まり、そこで各々飲み物を買って愚痴を言い合っていた。

「くっそ、試合に出られねぇってどういうことだよ」

「ふざけんなよ。山辺の野郎……」

「原田もだよ。あのクソ教師」

 野球部と陸上部の面々が自らのクラブの顧問への悪口を口々に言い合っていた。まるでどちらが多く悪口を言えるか競い合っているかのようだ。

「鬼まであいつらの味方をしやがってよ。最初から俺らを試合に出す気なんてなかったんじゃないのか?」

「それはないだろ。それだったらそもそもチーム作りなんて認めていないはずだ」

「そうだけどよ、だったら試合に出してくれても良いじゃねぇか。鬼の奴、すげぇ権力持ってんだろ?」

 毛利先生の権力であったり威光であったり、今まで聞いていたことが事実であれば一言で問題なく試合に出られたはずだ。もしかしたら生徒達がすごい人だと勝手に思い込んで噂を流し、粗に噂が一人歩きしてできた虚像なのかもしれない。

「山辺の奴、なんて言ってたっけ?」

「次のテストで成績が上がったらって言ってた」

「次のテストって五月だろ?」

「四月の試合は出られないなら、その次は?」

 みんなの視線が集まる。去年の女子の試合のスケジュールを思い出す。男子と女子で別れてはいるが、試合の開催時期や日時は基本的に変わらない。

「その次は七月。三年の夏の最後だよ」

 四月の試合に出られないなら、残りは引退試合にもなる最後の試合しかない。そこで出られなければ、中学の間一度もユニフォームを着ないまま終わることになる。

「最後の夏、か」

 野球部も陸上部も最後の夏の試合がある。詳細な日時はまだわからないが、試合の日程が重なることもあり得る。そうなるとバレー部の試合どころではない。彼らも今までそれぞれの部活で頑張ってきたのだ。その最後の試合には出たいはずだ。

 十二人全員が沈黙する。会話に出た「最後」という単語が妙に重い。

「くっそ、四月の試合……出たかったな」

 一月に結成して四月に試合。時間は十分ではない。しかし練習は楽しく競技の面白さもわかってきたところ。だからみんな試合を楽しみにしていて、試合で勝つことを目標にしていた。だからこそ四月の試合という目標を失ったことは、全員から気力を奪い取ってしまっている。

「鬼のやつ、何を考えているだろうな」

 毛利先生の考えがよくわからない。無茶なことも平気でするし、あり得ないことも平気でする。何を考えているかわからないが、それで不利益を被ったことはない。

 母が良い先生だと言っていた。言われてみれば良い先生なのではないかと思った。けれども良い先生なのかどうかわからなくなった。いや、元々わからない先生で、良い先生だと思っていたところからわからない先生に戻ったのかもしれない。

 よくわからない先生だからこそ気になる。毛利先生は良い先生なのだろうか。その疑問がずっと心の奥や頭の片隅から離れなかった。


 翌日、男子バレーボール部の試合出場が叶わないという噂は半日程度で学校全体に広まっていた。噂を聞いた生徒達はそれぞれの考えや意見を仲間内で話していた。成績が下がれば怒られるのはしかたがないが、それで試合に出場できないのはどうなのか、というのが意見大部分を占めていた。

 野球部や陸上部に所属しているメンバーも、赤点になって怒られることはある。しかし補習や追試を受ければ普通にクラブ活動は許されるし、試合にも出ることができる。実際に先輩にも赤点を取ったが試合に出ている人がいたらしい。そういった過去の例から、男子バレーボール部に対する判断に疑問を持つ声がよく聞かれる。

 廊下を歩いていれば声をかけられて噂の真偽を聞かれることもあった。学校全体が今回の件に注目し、全学年全生徒の関心を集めていた。




 ~近藤幸樹(海港中学二年・陸上部兼バレーボール部)~


 多少ギスギスした雰囲気の中、卒業生を送り出した。もう数日で中学三年になるという頃、夜の公園にバレー部の助っ人として名乗りを上げた五人が集まっていた。

「おー、バレーボール届いたのか?」

 日暮が持ってきたバレーボールに視線が集まる。

「おう、親戚の姉ちゃんが元バレー部でさ。通販でボールを買って帰ってからも練習していたんだって」

「そんなボール借りて良いのか?」

「その姉ちゃんはもうバレーやってないから大丈夫だよ。このボールも置きっ放しだったらしいから使っていいって言って送ってきたんだ」

 日暮は宅配便でバレーボールを親戚から送ってもらった。その理由はこうして夜に公園に集まって練習をするためだ。なんとか先生達の目を盗んででも練習しておかないといけない。ただでさえボールを扱わない陸上部のメンバーは、野球部よりもボールとの距離感を掴むのが下手だ。それを練習できない時であっても練習して、上手くなることで補おうという考えだ。

 バレー部の試合に出ることはひとまずできなくなった。しかしまだ全く試合に出られないというわけではない。四月の試合を逃しても、最悪七月にまだもう一回チャンスがある。そこで活躍できるように、こうやって陸上部メンバーで秘密の特訓をしようと夜に集まったのだ。

「まぁ、練習って言ってもパスと簡単なレシーブくらいしかできないけどな」

 ボールは一個しかない。ネットもない。地面は砂で運動靴のため踏ん張りが効かずに滑りやすい。できることは限られていた。

「それでもやらないよりマシだろ」

「そうだな。とりあえずパスからやろうぜ」

「おう」

 ボールを使って五人でパスを回す。夜の静かな公園にボールを扱う音が響く。

「伊野部のオーバーハンドパスってどうして音が鳴らないんだろうな」

「手首の使い方と柔らかさとタイミングらしいぞ」

 五間の疑問に清水が答える。

「そうなのか? 誰に聞いたんだ?」

「雪村に聞いた」

 清水が雪村の名前を出した瞬間、芹沢と五間と日暮の表情が変わったのが、夜の限られた街灯の明かりでも十分わかった。

「おい、清水。お前、雪村といつからそんな話をするようになったんだ?」

「まさかお前もバレー部に入って雪村にアピールしようって魂胆か?」

 三人が練習そっちのけで清水に迫る。手の中にボールが収まり、練習が中断となった。

「落ち着けよ。練習のために集まったんだろ?」

 迫られている清水が三人を制止する。しかし雪村にアピールすることが目的でバレー部に入った三人の勢いは止まらない。その様子を見ていると無意識にため息が漏れた。

「清水、正直に言えば半殺しで許してやるぞ」

「けっこう重罪じゃねぇか!」

 人気の無い夜の公園。清水を取り囲んで尋問する三人。そのやり取りは意外に響く。

「おい、道路を挟んで向こうは住宅だぞ。夜も遅いんだから静かにしろよ。それに練習しないんだったら何のために集まったんだよ」

 夜も遅い時間帯だと言って声を小さくするよう促し、練習のために集まったことを思い出させるように言って清水に迫る三人を引き離す。

「ほら、続きやるぞ」

 オーバーハンドパスとアンダーハンドパス。特に縛りを設けることなく五人は自分のところに来たらそれぞれの判断でパスを出す。狙って出す相手もそれぞれの自由だ。五人で円を描くように広がり、自由にパスを出したり受けたりしていた。

 十数分、パス練習を続けていた時だった。自転車のブレーキの音が複数、公園の中で止まる音が聞こえた。

「お? なんだありゃ? 俺らのたまり場に誰かいるぞ」

 十人ほどの自転車集団が公園に集まっていた。あまり得意ではない柄の悪そうな奴らだが、年齢は同じくらいのように見える。

「おい、こいつらバレーボールなんかやってるぜ」

「なんだ? オカマ野郎共かよ。気持ち悪いから消えろよ」

 バレーボールをしていたらいきなり馬鹿にされた上オカマ野郎呼ばわりだ。関わらない方が良い連中だというのはわかっていた。それでも初対面で馬鹿にされて、さらにオカマ野郎呼ばわりされて、黙って聞き流せなかった。

「おい、どこの誰だか知らないけど、初対面で人に言う台詞じゃねぇだろ」

 バレーボールをしている奴をオカマ野郎と笑った。自分たちはまだ助っ人で掛け持ちという形でバレー部に関わっているが、本気でバレーボールがしたいと思っている伊野部のことを知っている。ここにはいない伊野部を笑われたような気がして、黙っていることができなかった。

「は? ここはもともと俺らがいつも使ってんだよ」

「バレーボールって体育館でやる女の競技だろ? 外でやるなよ」

「オカマ野郎だってみんなに見て欲しいんじゃねぇのか?」

 ゲラゲラと笑う奴らに苛立った。バレーボールを女の競技だと決めつけて笑っている。

 バレーボールという競技にはあまり関わりが無かったので知らなかったが、関わるようになってからバレーボールという競技について色々と調べてみた。男子も女子も過去にオリンピックで金メダルを取っているというのは初めて知ったときは驚いた。今でこそ男子の競技人口は減って世界ランクも下がったが、世界屈指のチームだったこともある。

 実際にやってみてバレーボールという競技は実に難しい。体育の遊び半分のバレーボールでは競技の難しさやすごさが全くわからない。繊細なボールタッチや一瞬の駆け引きに加えて、ボールを落としてはいけないという競技ならではのチームワーク。知れば知るほど難しい競技だと思い知らされる。

 こいつらはそれを知らず、体育の授業レベルかそれ以下の知識程度で笑っているのだ。それが余計に腹立たしかった。

「お前らいい加減に……」

 伊野部だけでなく、男子でバレーボールという競技をしている全ての人が馬鹿にされた気がした。それに怒りを感じて、無意識に掴みかかろうと一歩踏み出す。しかし清水に肩を掴まれて制止された。

「なんだ? やんのか?」

「おう、かかって来いよ! オカマ野郎!」

 こっちが喧嘩腰に一歩踏み出したことで、向こうも喧嘩腰になってしまった。清水に止められてこちらから手を出しはしなかったが、状況は喧嘩勃発数秒前だった。

 いつ喧嘩が始まるかわからない。そういった状況を切り裂くように、サイレンの音が聞こえてきた。そして赤い点滅する光が周囲をチカチカと照らす。

「やべっ! 警察だ!」

 公園にやってきたどこの誰かわからない十人ほど。彼らは一斉に自転車に乗って公園から飛び出していく。

「い、行った?」

「よかったぁ……」

 喧嘩が起こりそうになったことで芹沢と五間と日暮はおびえていたようだが、自転車に乗って風のように奴らが去って行ったことで安堵の息をついていた。

 しかし、ゆっくり安心していられるような状況ではなかった。

「君たち、ここで何をしている?」

 パトカーが公園の隣に止められる。降りてきた警察官から逃げるすべはなく、公園に残っていた五人は警察に事情を聞かれ、強制的に解散させられた。




 ~神田啓介(海港中学三年・野球部)~


 四月。入学式兼始業式。中学の最上級生である三年となって、部活ももう長くて四ヶ月ほどしかない。受験もあるため勉強も手を抜けないし、バレー部としての試合出場を考えれば成績は一定水準を保たなければならない。野球部の練習もサボれないし、バレー部の練習が再開できれば、残された時間を全力でやらなければ目標の勝利に届かないだろう。最上級生になれば野球部の方でも後輩への指導も増えて負担は増す。それでも目標はしっかりとしている。だから目標を達成するのに必要なことを一つずつやっていくしかない。

 そう思っていた入学式兼始業式。そこに現れた伊野部を見て、まず言葉を失った。

「おい、伊野部。どうしたんだ?」

 今日から三年生の教室。そこへ伊野部は松葉杖をついて教室にやってきたのだ。

「ああ、ちょっと怪我した」

「ちょっとじゃないだろ」

 松葉杖をついている。足は靴ではなくギブス。どう見ても重傷だ。

「骨折か?」

「いや、靱帯損傷。三週間くらいでギブスも外れるし、五月中には元通りだよ」

 伊野部は大丈夫そうに言うが、大丈夫そうに見えない。

「何があったんだ?」

「たいしたことじゃないよ。サーブ練習中にジャンプサーブの練習をしていたら、ボールが転がってきて踏んづけただけだ」

 ジャンプしてボールを踏んで怪我をした。しかもギブスが外れるまでに三週間となればかなり重い怪我だ。

「ちょっとボーッとしていてな」

「お前が練習中に? 珍しいじゃないか」

「いや、まぁ……試合に出られるかどうかとか、テストが終わってから練習を始めて間に合うのかとか、余計なことを考えていたんだよ。それで危機管理が甘くなったから、全面的に俺が悪い」

 それは本当に伊野部が悪いのだろうか。

 試合に出られるかどうかという状況は伊野部以外のメンバーの成績と、その成績を見た先生の判断によって起こったことだ。それを気にした伊野部が練習中に気が散って怪我をしてしまった。これを伊野部の責任とは思えなかった。

「まぁ、治療に専念するよ。しばらくは女子の練習でもあまり役に立てないからな」

 その言葉の後ろに「七月の試合もあるしな」と、伊野部は言わなかったがそういう雰囲気を感じた。

「頼むぜ、キャプテン。お前がいなきゃ話にならないからな」

「わかってるよ」

 ひとまず伊野部は怪我で休養ということになる。だからといって目標が変わったわけではない。伊野部の怪我は五月中には治る。テストの結果が出る頃だ。その結果が良ければまたバレー部の練習の再開が認められる。その時に間に合えば良いのだ。

 とりあえず怪我というトラブルに見舞われた。怪我自体は重傷だが最悪の事態というわけではない。そこにひとまず安堵した。

「おいっ! 伊野部! 神田!」

 安心したのもつかの間、教室に駆け込んできた村山の表情は普通ではなかった。

「警察が来て、清水とか近藤とか、バレー部の練習に来ていた陸上部の奴ら、みんな職員室に連れて行かれたらしいぞ」

「なんだって?」

 バレー部を結成した陸上部の五人が警察沙汰でも起こしたのか。そうなるともう勝利どころか、バレー部としての試合出場すら危うい。

 ただでさえ成績の低下で練習参加を禁止されている。そこにバレー部を結成したメンバーが警察沙汰となる何かをしでかした。バレー部の伊野部が怪我で練習できないということも考えれば、これを機に伊野部を含めた男子バレー部の活動自体が完全にできなくなってしまうかもしれない。

「いったいどうなってんだよ」

 三月の学年末試験以降、事態は最悪という奈落へ真っ逆さまに落ちていっていた。




 ~山辺千豊(海港中学野球部顧問・社会科教員)~


 入学式兼始業式。新入生を迎え新たな一年のスタートとなるはずだったこの日は、警察の到着によって職員室の空気が一変した。

 事情を聞く限り大きな問題は無いようだ。夜間に公園でバレーボールの練習をしていた陸上部の五人。そこに近隣の中学の学生集団が通りかかり、因縁をつけられて喧嘩に発展しそうになったが、騒音の通報を受けた警察の到着が早かったおかげで事なきを得た。

 通りかかった近隣の中学の学生集団はおそらく内海中学だろう。毛利先生が警察に顔を出した際に、生活安全課の課長から内海中学の学生の夜遊びトラブルの話を去年の入学式兼始業式にも聞いていて、それに関する書類を封筒でもらってきていた。

「やはり男子のバレー部の活動を認めたのが問題なのではないですか?」

 教頭先生がこちらをチラチラと毛利先生を見ながら、男子バレー部という存在が原因である可能性に言及しだした。

「教頭先生、それは言いすぎだと思いますよ」

「ですがね、バレー部として活動していなければこのようなことは起こらなかったわけですよ」

 警察は今回生徒に注意と先生への連絡だけで帰った。職員室にまだいる陸上部の五人はうつむいたままだ。

「毛利先生、これを機にバレー部は女子のみにしてください」

 教頭先生がついに男子のバレー部としての活動を認めないという意見を出した。同意する先生は半数を超えているかもしれないが、反対する先生も少なくはない。

「毛利先生、いいですか?」

「……教頭先生。それは聞かれへん頼みやなぁ」

 教頭先生の指示にも近い言葉を毛利先生は簡単に一蹴した。

「毛利先生! 警察にまで迷惑をかけたんですよ!」

「そうやな。せやけどよく話を聞いたら、元々内海中学の奴らがあの公園でしょっちゅう騒いどったらしいやないか。今回たまたま警察の厄介になったんがこいつらやったってだけやないか」

 夜にバレーボールの練習をする場所を求めて公園にやってきた。確かに遅い時間だったかもしれないが、そもそもどうしてバレーボールの練習をあんな時間に公園でしなければならなかったのか。それを考えると、胸が痛む。

「成績の低下でバレー部としての活動は禁止していたはずです。それを教師の目を盗んで夜中に公園でバレーボールの練習をしていたなんて許されませんよ」

「それこそバレー部の活動とはちゃうやないか? こいつらは自分らでバレーがしたかったから公園に集まったんや。バレー部を持ち出すのは変やろ」

 教頭先生と毛利先生の話し合いは平行線をたどる。教頭先生はバレーボール部は女子だけにするべきだと言い、毛利先生は偶発的に起こったことでそこまで目くじらを立てることはないと真逆の主張をする。

「山辺先生や田原先生も何か言ってください」

 教頭先生が毛利先生を自力で説き伏せるのは無理だと判断したのか、助け船を求めるように野球部と陸上部の顧問の名を呼ぶ。男子のバレー部としての活動、それも女子に混じって一人という活動に対して否定的で、さらにバレー部と関係があるクラブの顧問だ。教頭先生は自らの援護射撃を期待してのことだろう。

 しかし、残念ながらその期待には応えられそうもない。

「警察の方も今回は注意だけで済ませてくれたわけですし、学校としても口頭注意で済ませても良いかと」

「は、は? 山辺先生?」

 期待通りの援護射撃が来なかったことに教頭先生は少し動揺している。

「それに生徒達とは次のテストで成績が以前の水準かそれ以上になることで、掛け持ちでのバレー部の活動再開を認めるという約束をしています。今回は喧嘩も起こる前でしたし長きにわたる騒音も別の犯人がいたことはわかっています。ですから口頭での厳重注意と、それで足りないのであれば反省文で良いのではないでしょうか?」

 事件化されたわけでもなければ常習的な犯人だったわけでもない。ずっと騒音問題を起こしていたのは内海中学の生徒達。彼ら五人は確かにあの夜はうるさかったかもしれないが、常習犯に巻き込まれたという形でもあることは確かだ。

「田原先生! 田原先生はこれでいいんですか?」

 陸上部の顧問である田原先生は今まで全く言葉を発していなかった。陸上部の面々以上にうつむいて黙り込んでいる。教頭先生に呼ばれて顔を上げたものの、結局発言はなくうつむいてしまった。

「まぁ、今回は山辺先生の言った口頭での厳重注意と反省文でええやろ」

 毛利先生が職員室内にいる先生を見渡す。今のやり取りのその視線で優劣が逆転したのか、毛利先生の意見を支持する先生の数が多数派になったように感じられた。

「あーっ! わかりました! ですがこれ以上何かバレー部関係で問題が起こった場合、生徒達だけでなく毛利先生と山辺先生と田原先生にも責任を取ってもらいますからね!」

 これにて今回の件についての職員会議は終わった。陸上部の面々にはまた後で職員室に来るように言って教室に返した。各教員も入学式兼始業式を滞りなく済ませるために各々が受け持ったクラスの教室へと散っていく。

 職員室を出て教室へ向かう最中、毛利先生に一言だけ言っておこうかと思って職員室に戻る。しかし毛利先生は電話中だったので諦めて教室へと行くことにした。閉じる職員室の扉の隙間から、毛利先生が電話の相手に「補導にならんよう計らってくれて助かったわ」と言っている……ような気がした。


 入学式兼始業式を終えた職員室。そこでは陸上部顧問の田原先生がふさぎ込んでいた。

「田原先生、どうかしましたか?」

 朝から様子がおかしく、今になってもまだ落ち着いていないようだ。それが気になってついつい声をかけてしまった。

「あぁ、山辺先生」

 声には明らかに力が無い。以前、掛け持ちを禁止するという話をしてきたときとはまるで別人だ。

「今回の件、バレー部としての活動禁止のせいですよね」

 バレー部として活動できなくなったことで、掛け持ちメンバーは人目を忍んで練習しようとした。体育館が使えれば、バレー部として活動ができれば、今回の件は起きなかったのではないか。田原先生はそう考えていた。

「偶然ですよ。色々あると、不思議と何か重なってくるものです」

 励まそうとするが、その声は田原先生に届いていないようだ。何を言っても変わらず落ち込んだままで、いつもの元気な若い教師という印象は微塵も感じられない。

「俺、教師としてやっていけるんですかね?」

 今回の件の引き金となったのがバレー部としての活動を禁止したこと。それにより生徒達と教師の間に溝が生まれ、さらには警察にまで厄介になる自体となってしまった。それをバレー部としての活動を禁止するように真っ先に動いた自分の責任だと感じている。

「俺、教師向いてないのかも……」

 自分の判断の結果が今日だった。その結果を思い、自責の念に押しつぶされそうになっている。そんな田原先生の姿に見覚えがあった。

「田原先生、少し俺と話をしましょう」

「話、ですか?」

「ええ、教師の芯についての話です」

 落ち込む田原先生と少し話しをすることにした。少し前の晩に学んで新たに見つけた自分の教師としての考え方。それを田原先生にも知って欲しくて、膝をつき合わせて深く話し合うことにした。




 〈卒業式前〉

 ~毛利喜多郎(海港中学バレーボール部顧問・生徒指導教員)~


 いつも通り練習が終わった後、体育館の電気が消えているのを確認して施錠は済ませた。後は教官室の扉を施錠すれば帰ることが出来る。しかしその前に、教官室にある机の引き出しを開けて中を見る。

 引き出しの中には何枚かの書類。その書類の一枚を手に取る。

「このメンバー登録は幻に終わってもうたな」

 次の男子の試合。その登録メンバーを記入した用紙だ。最近はインターネットでも登録メンバー表などを提出することが出来るが、長年手書きで提出してきたこともあり、今回の男子メンバーの登録用紙も手書きで書いていた。

 少し気の早いメンバー登録用紙の準備だとは思っていたが、まさかその登録用紙を書いたまさにその日、この用紙が紙くずになってしまうとは思いも寄らなかった。

 陸上部と野球部の助っ人メンバーが揃って頭を下げた。二年の学年末試験で成績が低下したことを理由に掛け持ちを禁止された。そのため試合に出られなくなったことに対し、なんとか試合に出られないかと頼むためのもの。

 教師なら生徒の成績を気にして厳しい判断を下すことも致し方ない。だからこそ今回の判断は生徒達自身の詰めの甘さが原因とも言える。

「そうや、あいつはここんところ浮かん顔しとったな」

 長年の教師としての勘が何かを告げていた。

 職員室で見た野球部顧問の山辺先生。助っ人達が男子バレーボール部としての活動ができなくなったあの日から、なにやら思い詰めたような表情をしていた。それを思うに、今回の判断とその結果に多少悩みがあるのかもしれない。なら、先輩教師として一肌脱ぐのも仕事のうちだ。

 男子のメンバー登録用紙を引き出しに戻し、教官室の電気を消して、扉を施錠した。グラウンドでは野球部が後片付けをしている。なら職員室に行けばまだいるかもしれない。

 会って少し、いや色々と、話す必要があるかもしれない。




 ~山辺千豊(海港中学野球部顧問・社会科教員)~


 職員室についてからも心の中は落ち着かない。バレー部としての活動を禁止すると言ったあの瞬間のあの六人の表情。そしてその噂が学校中に広まってからの生徒達の反応。それが心の中をかき混ぜて落ち着かせてくれない。

 生徒達の人生にとって重要なのは良い高校への進学だ。それを成し遂げるためにもこれは必要なことだ。そう自分に言い聞かせるも、日々向けられる物言わない敵視が心に突き刺さる。

「山辺先生。まだ残っとったんか?」

「あ、はい」

 職員室に体育館の鍵を返却に来た毛利先生。この強面の先生にも自分は恨まれているのかもしれない。

 体育館の鍵をキーボックスに戻した毛利先生が歩み寄ってくる。

「この後、ちょっとええか?」

「はい?」

「なんか悩みがありそうやからな。飲みに行かんか?」

「……え?」

 男子バレー部の公式試合出場を潰した自分を恨んでいるのではないのか。そんな人間を飲みに誘う。何故誘われたのかよくわからなかった。

「ワシの行きつけの店や」

「は、はぁ……」

 流されるように、誘いに乗ってしまった。




 ~山辺千豊(海港中学野球部顧問・社会科教員)~


 学校を出て歩いて数分。大通りから一つ入ったところにある小さな居酒屋。毛利先生に続くように店の暖簾をくぐり、カウンター席に並んで腰掛けた。

 正直カウンター席で助かった。今は、毛利先生の顔を正面から直視できる自信が無い。

「ビール二つ、あと適当に頼むわ」

 カウンター越しにお任せという注文を済ませた毛利先生。ビールが来るなりさっさと一人で飲み始める。乾杯などをするような状況ではないが、ここまでマイペースに飲み始められると手をつけるタイミングが見当たらない。エサを前にお預けを食らった犬のように、席に座ったまま動けなかった。

「それで、なんか言いたいことあるか?」

 ビールをグラス半分ほど飲んだ毛利先生の言葉に身体がビクッと反応する。

「言いたいことなんて、そんな……」

 文句を言えるような立場ではない。むしろ文句を言われる側だと思っている。

「何でもええから吐き出すんや。悩んどってもええこと無いぞ」

 毛利先生の言う「言いたいこと」とは吐露したいことはないか、という問いだった。その問いを勝手に文句だと思い込んで解釈していたようだ。

「……間違っていのでしょうか?」

 しばらく間を置いて、自分の意志とは別に勝手に声が出た。

「俺は成績が低迷すれば良い高校に行けなくなる。だから生徒達には勉強で結果を出させなければならない。そう思って、掛け持ちを禁止しました。これは……間違っていたのでしょうか?」

 思いの丈をぶちまけるように、心の中にある悩みが勝手に飛び出してくる。

「生徒の未来のことを考えれば当然のことです。みんな勉強が大事だってわかっているはずです。テストの点が重要だって知っているはずです。だからテストの点を理由に活動を禁止しました」

 毛利先生は何も言わず、こちらを見ることもない。聞いているのかどうかわからないが、言葉は止め処なく溢れ出てくる。

「掛け持ちをあのまま許してさらに成績が下がれば生徒達の進学先だけでなく、関わった毛利先生にもバレー部にも迷惑がかかります。生徒の成績を下げてまでやることなのかと親御さんから言われることでしょう。そうなれば学校全体にも問題は波及します。そう考えて、俺は判断したのですが……」

 正しい判断だと思った。次のテストで成績が上がれば、最低でも今までの水準まで持ち直してくれれば、掛け持ち活動の再開を認めるつもりだった。その救いさえ残していれば、生徒達は納得して勉強すると思っていた。

 しかし現実は違った。生徒達は先生を敵視し、広がった噂によって学校全体に不穏な空気が漂っている。表立って何かを言ってくる生徒はいない。しかし陰口が方々でささやかれているのは知っている。

 問題は野球部と陸上部とバレー部というと自社クラブだけでなくなっていた。柔道部や剣道部や吹奏楽部や演劇部と果ては園芸部まで、成績が下がると部活に参加させてもらえなくなるかもしれないと言われる始末だ。掛け持ちによる負荷の増大が問題だという判断理由は理解されず、生徒達は成績の低下という点に注目してしまっているのだ。

「山辺先生の判断は間違ってへん」

 グラス半分残ったビールを飲み干し、ビールを一つ追加する毛利先生。その言葉をすんなりと受け入れることはできなかった。

「間違っていないなら、学校の現状はどうですか? 正しければこの状況にはならなかったのではないでしょうか?」

 正しいのかどうかわからないと言いながらも、自分で自分の判断は間違っていたのではないかと考えていた。それに今気が付いた。

「いや、正しいで。山辺先生は正しい」

 追加できたビールを一口、そして言葉が続く。

「せやけどそれは『教師という大人』として正しいのであって、『生徒という子供』には必ずしも正しいというわけやなかったんやな」

「大人と子供……ですか」

「そうや。よく学校や教育をテーマにしたドラマであるやろ? 大人の事情に振り回される子供が悩んだり反発したりするやつ。まさにあれや」

 教師である大人として、生徒である子供の未来を考えた結果の判断。それは勉強による成績の向上が大事。だから判断としては間違っていない。しかし生徒である子供はみんなでやりたいと考えたことを教師という大人の権力で潰されたと考えた。そこにある大人の事情と子供の思いの差が今回の原因と言いたいのだろうか。

「ですが子供の、生徒の意見を全て認めるわけにはいきません。そんなことをすれば学校は無法地帯になってしまう」

「そうやな。大人の権力ってのも必要や」

「今回はその大人の権力の使い方が間違っていた、ということですか?」

「いや、そんなんどこから見るかによって悪い印象は絶対についてくるんや」

「どこから見るか?」

「そうや。生徒にも色々おる。教師にも色々おる。今回の件に納得せぇへん生徒は多いんやけど、納得しとる生徒もそこそこおる。これは見方が違うんや」

 確かに全校生徒が今回の判断に反対しているわけではない。理解を示す生徒も少数派だがいるのだ。逆に掛け持ちを認めれば、現在理解を示している生徒が反対意見を言う立場になるかもしれないということか。

「だったら俺はどうすれば良かったのでしょうか?」

 今回、教師という大人の立場として間違っていなかった。見方によれば生徒達にも賛同の意見はある。そう言われてなるほどとは思ったが、それでは正解が見えない。

「ええ教師を目指す、それだけやな」

 ずいぶんと抽象的な答えが返ってきた。

「良い教師になりたいものです。ですが良い教師とはどういう教師ですか?」

 意地悪だと思ったが、毛利先生がどういう考えを持っているのかを聞く機会でもあった。ここぞとばかりに抽象的な答えの内容を聞いてやろうと、身を乗り出す勢いで質問をぶつけた。

「そうやなぁ。ワシは社会人になってから感謝される教師やと思うけどな」

 間を置くことなくはっきりとした返答が返ってきた。

「今は嫌われとってもええんや。社会人になったときに生きる教育や指導ができとったら、それはもう立派なええ教師や」

「ですが、それでは……」

「まぁ、直接感謝の言葉はないやろうし、挨拶すらもないやろうな」

 感謝されているかどうかわからないが、それでも社会人になってから感謝される教師を目指すというのだろうか。

「教師かって人間や。嫌われたらキツいやろ。それでもそういう教師は学校に少しは必要なんや。好かれる教師と嫌われる教師、頼られる教師と相手にされへん教師、慕われる教師と距離を置かれる教師、甘く見られる教師と怖がられる教師、いろんな教師がおって学校教育が成り立つんや」

 出てきたつまみを食べながら、毛利先生の饒舌は続く。

「ワシは嫌われてもかまわん。むしろ怖がられるくらいがちょうどええ。こんな顔やしな。そういう役回りが向いとるんや。それにそういう教師が学校に一人おるだけで空気が締まる。慕われたり仲が良かったりする役目は他のに任せとったらええと思うとる」

「ですがそれでは……毛利先生は精神的につらくないのですか?」

 教師だって人間。嫌われたら辛い。毛利先生は自分で言いながら、あえてその茨の道を歩んでいるというのか。

「せやから、社会人になってから感謝される教師やったらええんや」

「ですが社会人になって生徒が感謝しているかどうか、わからないじゃないですか」

「わからんな」

「だったら……」

「一人でええんや」

「……は?」

「百人二百人、五百人千人、何人卒業生を見送ってきたかわからん。せやけどその中から一人でええんや。社会人になってから言っている意味がわかったって言って来る奴が一人でもおったらそれでええんや。一人おったら他にもおるやろう。なら、ワシのやってきたことは意味があったっちゅうことや」

 小耳に挟んだことがある。バレー部には週末、毛利先生が以前教えていた学校の卒業生がコーチで来ているらしい。毛利先生のことを認めていなければ、機会があってもそういうことをする生徒はいないだろう。

「今回の判断は子供にはキツいやろな。せやけど高校や大学や社会人と年を取ると進路選択の機会が増えていくんや。その時に成績という数字の大切さが身にしみてくることになるやろ。そうなって初めて山辺先生の判断の意味をあいつらは本当に理解するんや。だからワシは山辺先生の判断を間違ってるなんて思っとらん」

 大人になって初めて理解する。言われてみれば自分が学生の頃に理不尽な怒られ方をしたことがあった。その時はただ怒りがこみ上げて来たが、教育者の道を進むことになって初めてあの時の理不尽の意味がわかった。理不尽ではなく、子供の好き勝手を大人の規則で怒っただけだったのだ。

 大人は大人としての経験値と社会という規則を元に子供を叱る。しかし子供には経験値もなければ大人の規則の知識も無い。子供からすれば理不尽だろう。

「山辺先生は山辺先生の教師としての芯を貫くんや。それだけでええ」

「芯……」

 自分の教育者としての芯はいったい何なのだろうか。ただ生徒の未来を思って今までやってきた。成績の数字にクラブでの活躍による内申点。全部高校進学のための数字を少しでも良くした方が彼らのためになると思ってのことだ。そこに嘘偽りは無い。しかしそれが芯かと問われれば、はっきりと首を縦に振る自信は無かった。

 毛利先生の教育者としての芯は、例え在学中に嫌われ恐れられ距離を置かれても、社会人になったときにその意味を理解してもらえれば良いという理念。その芯を手に入れるまでに、この人はどれだけ悩み苦しみ考え抜いたのだろうか。

「おーっ! 毛利先生いるじゃないっすか!」

 会話が止まっている時、居酒屋に二十代前半の若者が五人も入ってきた。全員がまともな道を歩んでいなさそうなチンピラの風貌。金髪や茶髪に耳にはピアスがつけられている。

「なんや、お前ら。今日も飲みに来たんか」

「いいじゃないっすか。たまには休養も必要っすよ」

「まぁ、俺ら週三は飲んでんすけどね」

 毛利先生とは全く接点が見当たらないチンピラ風の若者達。しかし毛利先生とは顔見知りどころかかなり親しそうだった。

「おう、山辺先生。紹介するわ。こいつらワシの前の学校の教え子なんや」

「ちーっす」

 毛利先生の教え子とは思えない軽い挨拶だった。

「こいつらいっつも悪さばっかしよってな。警察にも世話になってばっかなんや」

「いやぁ、俺ら若かったわ」

 今もまだ若いだろうと、思ったが言葉には出さなかった。

「そんでそんなに元気なんやったら勉強せんと働けっつってな。卒業前から知り合いの土建屋にこいつら預けたんや。今はこの近くで仕事やってるらしいわ」

「いやぁ、あの時の毛利先生と親方はマジで怖かったっす」

「でも行って良かったっすよ。俺、人生で初めて大人に褒められたんすよ」

 毛利先生の前の学校の教え子達の話は実に単純だった。勉強についていけず、はみ出し者になった五人。毎日親や教師に怒られてばかりいた。そんな中で毛利先生も怒っていたようだが、毛利先生は勉強をしろと頭ごなしには言わなかったらしい。怒りながらも「何かしたいことがあるのか」と聞いた。彼らは「勉強についていけないから勉強がしたくない、みんなで力を合わせて生きていく」と言ったそうだ。それを聞いて毛利先生はその日のうちにどこかに電話し、翌日には土建屋の人が迎えに来て職場体験という名目で連れて行かれたという。

 働き始めた最初は大声で怒られたが、一つ仕事を覚えると褒められた。その褒められたのが嬉しくて、頑張って仕事を続けたらしい。そして進学ではなく就職の道を選択して、中卒で働いている。今じゃ後輩を教える立場になり、身につけた技術や知識から資格までとったという。収入を聞くと年齢の割には高いし、これから先もまだまだ生きる資格だった。収入はさらに上がるだろう。

「俺ら、毛利先生がいなかったらどうなってたかわからねぇっす」

「あ、そうだ。こいつ彼女できたんすよ。結婚考えてるって」

「マジであの子はお前には勿体ねぇって」

 五人は空いた席に通されて注文をする。店内で一番騒がしい五人だが、全員が楽しそうに社会人として働いているのがよくわかる。

「よく、中学生に就職勧めましたね」

 高校までが義務教育と変わらないと言われる時代だ。中卒で就職させるという発想は普通の教師では出てこないだろう。

「まぁ、そうやな」

 二杯目のグラスを空にした毛利先生は三杯目を注文する。

「野球をやりたくない奴に野球をやらしても練習はサボるし上手くもならんやろ」

「まぁ、そうですね」

「勉強もやりたくない奴に無理矢理やらしても反発するだけや。それやったら一足先に社会人として働いとる奴らの姿を見せるのがええと思ってな」

 そこで土建屋をチョイスするのが良いと率直に思った。勉強をサボった人間は基本的に肉体労働職に就くのが一般的だ。彼らがレベルの低い高校に行って就職しても似たような結果になっただろう。それならこれから先、歩みそうな未来を先に見せて経験させるのは得策だ。嫌なら勉強するようになるだろうし、肌に合えばその道にさっさと進んで働けば技術も知識も早く身につく。未来が決まっているなら高校で勉強する必要はない。勉強とはあくまで進路の選択肢を増やすための努力なのだから。

「それが毛利先生のやり方なんですね」

 三月に卒業するバレー部の生徒が、今まで海港中学から誰も行ったことのない他県の高校にスポーツ推薦で行くことが秋にほぼ決まった。そしてその通りに卒業後は進学する。何の伝手も繋がりもない高校に行きたいと言った生徒のために、毛利先生が直接その高校のバレーボール部の監督に連絡をして試合を見に来てもらったらしい。

 その時はあまり気にして聞いていなかったが、今思えばそれが毛利先生の考え方であり教育者としての芯なのだろう。在学中は厳しく接し、怖い存在であり続ける。それでいながら生徒の進路の希望には自ら動いて最大限手助けをする。その結果がバレー部に来るコーチであったり、この店にやってきた五人のチンピラ風の若者だったりするのだろう。

「……ありがとうございます」

 毛利先生にお礼を言って、室温に近づいたビールを一気に飲み干した。

「なんや、もうええんか?」

「はい」

 出されたつまみを全て平らげる。

「俺の教師としての芯が何かはまだわかりません。ですがよく考えて何か一つ、答えを出さなければなりません」

 掛け持ちメンバーに次のテストで成績が上がれば掛け持ち活動を認めると言った。その結果テストの点数がまた下がってしまえば意味がない。その点を踏まえ、自分の譲れないことや教師として押さえておかなければならないことを考え、今の自分の教育者としての芯を見つけ出さなければならない。

「今日はありがとうございました」

「そんなかしこまって礼なんか言わんでええ」

 追加注文のつまみとビールに舌鼓を打つ毛利先生に深々と頭を下げて、居酒屋を出て帰路につく。考える時間はまだあるが、そう長くはない。自分の教師としての芯とは何かという自問自答を繰り返しながら、まだ寒い三月の夜空の下を歩く。

 そして一つ、気が付いた。

「あっ、俺……車通勤だった」

 得たものは多かったが、一杯のビールに少し悔やむ夜だった。




 〈入学式兼始業式の日〉

 ~伊野部俊(海港中学三年・バレーボール部)~


 入学式兼始業式の日程は終わった。授業は明日からで今日は午前中で終わりだ。

 本来ならばこれから体育館へ行くのだが、バレー部と卓球部は協力して体育館のパイプ椅子などを片付けてから、ネットを張っていつも通りの準備をして練習となる。

 卒業式の日に初めて知ったのが、入学式と卒業式の時だけ毛利先生専用ソファーである鬼の玉座が片付けられること。そして終わればすぐさま定位置にバレー部が戻すのが海港中学の日常らしい。

 しかしこの足ではどれも十分にできない。椅子は運べないし、ネットの準備もできないし、練習補助にも役に立たない。今日は大人しく帰って病院でリハビリをして、早期復帰に向けて備えるのがいいのかもしれない。

「伊野部はこの後病院か?」

「ああ。神田は練習か?」

「そう、練習だ。まぁ、時間が早いだけでいつも通りだな」

 神田が野球部の荷物が入っている鞄を背負っている。いつでも練習に行ける姿だ。

「そうだ、さっき隣の組の奴が話しているのを聞いたんだけどよ」

「どうかしたのか?」

「いや、山辺がさ。警察に厄介になった陸上部をかばって、助っ人でのバレー部の試合は生徒との約束通りにするって教頭に楯突いたらしい」

「え? 本当なのか?」

 山辺先生は野球部に掛け持ちを禁止させた張本人だ。その人が陸上部をかばって生徒との約束を守ると言ったというのは意外だった。

「毛利先生もがっつり教頭と真っ向から言い合いをしていたらしい」

 教頭先生と真っ向から言い合いをしていた。そう聞いて毛利先生が良い先生なのかどうかを疑っていたが、その疑いの気持ちが多少薄まった。

「だから伊野部、しっかり怪我を治せよ」

「え?」

「七月の試合は絶対に出るからな」

 神田はそう言って、笑顔を見せてから教室を出て行った。

「七月、か」

 四月の試合はどのみち怪我の回復が間に合わない。なら七月に向けて全力を尽くす。それしかない。

「なら、さっさと病院に行って治すとするか」

 松葉杖をつきながら教室を出る。いつも歩いている廊下が二倍にも三倍にも長く感じるが、そんなものは七月まで試合の出場が延期になったことと比べれば些細なこと。

 念願の試合に向けて最高のコンディションを作る。みんなもバレー部としての活動を認められるだろうから、今まで以上にしっかり練習して試合に備える。そして出場した試合で勝つ。

 その目標に向けての一歩のように、松葉杖をつきながらの一歩にも無意識のうちに力がこもっていた。

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