《聖伝の章⑦ 闇の領域へ…… 辺境の宿屋》

 

 闇の領域――それは魔王の居城がある地。この領域では他の地域では見られない強力な魔物が跳梁跋扈ちょうりょうばっこしており、腕に覚えのある冒険者たちの行く手を阻んでいる……。


 その闇の領域に近き辺境の小さな城下町にあるごくありふれた、小さな宿屋からひとりの老婆が出てくる。

 宿屋の主である老婆の一日は箒をはくことから始まる。

 しばらくしてから掃き掃除を終えようとしたとき、足音が聞こえてきた。音からして五人だろう。


 「すみません。宿は空いていますか?」


 若い男がそう声をかける。老婆が男のほうを向く。


 「あい。今なら全ての部屋が空いてますよ。5名様ですね?」


 男が「はい」と言ったので、入口へと案内する。

 老婆が帳場に入ると、宿帳を取り出して名前を書くようにと羽根ペンを差し出して男が受け取るとさらさらとペンを走らせる音がする。

 

 「おばちゃん、宿代はなんぼなん?」


 聞き慣れない方言が耳に入ったので老婆は一瞬戸惑ったが、すぐに宿代を告げる。

 ちゃりん、とカウンターに硬貨が置かれる音がしたので老婆が手探りで探す。


 「すみませんねぇ。目が不自由なもので……魔物にやられてしまいましてね」


 男が詫びて硬貨を老婆の手に握らせる。数えると確かにぴったりだ。

 目が不自由なことをいいことに勘定をごまかす輩もいるが、この冒険者たちは信用していいだろう。


 「あい。ありがとうございます。お部屋はそこの階段をのぼったところです。夕飯は夕方に食堂でお出ししますよ」


 冒険者たちが礼を言い、老婆が指さした階段へと歩く。


 

 夕方、老婆は暖炉にて鍋に入ったスープをかき混ぜているところだ。

 がやがやと宿泊客たちが食堂へと入っていくのが聞こえた。次に食卓へとつく。


 「さ、スープです。辺鄙なうえに魔物がはびこってるのでこんなものしかお出し出来ませんが……」


 老婆が詫びながら差し出したのは紅色のスープだ。

 宿泊客のひとりが「初めて見る野菜だな」と言ったので「火焔菜ビーツです」と説明する。


 「このあたりで採れる野菜なんですよ。おかわりはたくさんありますから、欲しかったら言ってくださいね」

 

 宿泊客たちがスープをすすり、火焔菜をぱくりと食すると「美味い!」「美味しい!」の声があがった。

 そのあとは食事をしながら談話へと移る。聞く限りではどうやらこの冒険者たちは闇の領域へと向かうようだ。

 老婆は思わず手拭いを持つ手にぎゅっと力を込める。これまでにも冒険者や腕に覚えのある騎士たちが闇の領域へと入り、戻ってこなかったことを老婆は嫌というほど知っている。

 一宿一飯の関係とはいえ、世話をした客が戻ってこないのは辛い。今までに帰らぬ人を何度も見送ってきただろうか。

 だが、危険だから行くなと言ってもそれで踏みとどまる冒険者ではない。危険に身を飛び込んでこその冒険なのだから……。


 「ごちそうさまでした」と宿泊客たちが礼を言い、食器を下げる。

 老婆が流し場で皿を洗おうとした時、「よければお手伝いしましょうか?」と少女の声。

 老婆はお客さんにそんなことをさせるわけには、と断ったが、「やらせてください」と凜とした声で言われては断りようがなかった。



 流し場で少女が皿を洗い、老婆はそれを受け取って拭く。

 少女の動作はてきぱきとしており手慣れた様子だ。


 「すまないねぇ……お嬢ちゃんにこんなことをさせて……」

 「いえ。私、修道院にいたときはいつもお手伝いしていましたから」


 ああ道理で……と老婆が納得する。

 良い機会だと思い、老婆は気になったことを聞いてみる。


 「お嬢ちゃんは、その、行くのかい? 闇の領域へさ……」

 「はい。私たちは勇者様と一緒に魔王を倒して、世界を平和にする旅をしているんです。ですからなにも恐れることはありませんし、御心配はいりません」


 勇者。


 その名を聞いて老婆が驚く。

 魔王を滅ぼす宿命を背負った者がよもやこの宿に来るとは。だが……。


 「でもねぇ、わたしゃ心配だよ……今までここに来た客の中には自分こそが勇者だと名乗る人もいたからね。結局、その人は戻ってこなかったけどさ……」


 少女が押し黙ったのか、しばし水の流れる音が聞こえるのみだ。


 「大丈夫です。勇者様と一緒に長く旅してきたからわかるんです。あの人は本物の勇者様です」と少女が決然たる意思を持った声で言う。

 老婆がうんと頷き、「きっとそうだといいねぇ」と呟く。

 一通り皿を洗い終え、老婆が腰をとんとんと叩く。


 「ありがとねぇ。お嬢ちゃんのおかげでずいぶんはかどったよ」と少女の皿洗いで冷たくなった手を握る。

 そして言いにくそうにだが、意を決して少女に言う。


 「お嬢ちゃん、お願いしたいことがあるんだけどね……」


 

 その教会は街の外れにある。老婆は少女の手を取り、杖を突きながら歩く。

 やがて教会の両開きの扉の前まで来ると少女がぎぎぎと音を立てて開け、老婆を中へと招き入れる。そして長椅子のひとつに腰かける。

 目が見えなくなるまではよく通っていた教会だ。目は見えなくとも礼拝堂は細部まではっきりと覚えている。


 「立派な礼拝堂でしょう?」

 老婆の隣に腰かけた少女が「はい」と答える。

 老婆は手を組んで祈りを捧げる。やがて祈りが終わると少女のほうへ向き直る。


 「あなた方の旅の無事を祈っていました。それと孫の健康も」

 「お孫さん……」

 「あい。今はお城に勤めてますが、時おり様子を見に来てくれています。その、失礼だとは思いますが、あなた様の顔を触ってもよろしいですか?」


 少女が「どうぞ」と言い、老婆の節くれ立った手を自らの顔に触れさせる。


 「ありがとねぇ。髪は金髪ですか? 目の色は何色でしょうか?」

 

 少女が容姿を伝える。老婆がうん、うんと頷く。


 「あなたの可愛らしい顔が浮かびますよ」


 そして少女の手を握り、ふたたび神に冒険者たちの無事を祈った。



 翌朝、冒険者たちは宿の前にいた。勇者らしき男が代表して礼を述べる。そしてくるりと踵を返すと街の出入口へと向かう。

 老婆はしばしその場に立っていたが、宿屋に戻ろうと踵を返す。

 その時だ。少女の声が聞こえてきたのは。


 「あのっ!」


 老婆が振り向く。


 「私たち、きっと帰ってきますから! だから、心配しないでください!」


 少女の固い決意を耳にした老婆は手を振る。


 「ご武運をお祈りしていますよ!」


 いつ以来だろう? 冒険者にこの言葉をかけるのは。闇の領域へひとたび入ればもう生きて戻れないと言われているが、この冒険者たちはきっと帰ってきてくれる。そんな気がしてならない老婆は冒険者たちを手を振りながら見送る。

 目が見えないのに見送るというのもおかしな話かもしれないが、老婆には魔王を倒してくれるであろう冒険者たちの姿がおぼろげではあるが、脳裏に浮かんでいた。

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