《第十一章 ローテン王国訪問記④》

 

 暗く、明かりと言えば月から差す光しかない夜空の下、海原に船の残骸、木片の上にひとりのうら若き女性がいた。

 いや女性だけではない。その女性は木片にしがみつく若い男の手を離すまいと掴んでいた。

 木片はひとりぶんのスペースしかない。

 遠くにはふたりが乗っていたであろう客船が舳先を上にして、静かに沈み始めていた。


 「しっかりして! 気を強く持つのよ!」


 しがみつく若い男にそう呼びかける。

 男は顔が白く、唇はすでに紫色だ。長時間水中にいるのもそうだが、夜の海は極寒だ。寒さがだんだんと男の体力を奪っていく。

 かちかちと鳴る口から声をなんとか絞り出す。


 「僕は……もうだめだ。君とは一緒に行けない……」

 「何を……なにを言ってるの?」


 女が男の冷たい両頬に手を添える。


 「約束して。国に帰ったら、結婚して子どもを産んで、幸せになるんだ。いいね……?」

 「嫌! 嫌よ! あなたと一緒にいるわ!」

 「愛してる」

 「私もよ!」


 女が涙を流しながら、男の頭を抱きしめる。

 だが、途端男から力が抜けたかのように、ずるりと海中へと引きずり込まれるように落ちていく。

 手を掴もうとするが、男は深く、暗い海の底へと沈んでいく。

 姿が見えなくなると、女は顔を手で覆いながら最愛の人の名前を叫ぶ。

 月明かりが消え、辺りは闇に包まれる。

 途端、音楽が鳴り響き始めた。弦楽器や管楽器による協奏曲だ。

 本来足場があるところが巨大な水槽になっている舞台の、一段低い所で楽団員がめいめいの楽器を指揮者の下で演奏している。

 観客席のあちこちからすすり泣きが漏れる。

 ローテン王国が誇る劇場の観客席から高いところにあり、バルコニーのように突き出している貴賓席で鑑賞しているシンシアはハンカチで口を押さえながら、涙を流している。

 その隣で夫である勇者は熟睡していた。

 劇が曲と同時に終わると幕が降り、観客席から観客が総立ちで絶え間ない拍手が送られる。


 「ブラボー! ブラボー!」


 観客の「アンコール! アンコール!」に応えるように幕が開き、水槽の上が機械仕掛けで足場が蓋のようにぱたりと閉じられると、役者全員が現れ、観客に向けて三方に礼をする。

 最後に勇者たちがいる貴賓席のほうへ照明が当てられたので、シンシアは慌てて隣の勇者の脇腹を小突く。


 「ちょっと! なに寝てるのよ!」と小声で嗜める。


 「んぁ? もう終わったのか?」

 「もぅ! いいから拍手するのよ!」


 勇者を立たせて、二人で拍手を送る。

 英雄、勇者とその妻が観覧していたことを知るなり、ますます観客席から万雷の拍手が響き渡る。



 「もう! 信じらんない! あんな素敵なお芝居で寝ちゃうなんて!」


 貴賓席から廊下に出たシンシアが夫を咎める。


 「や、あまりにも音楽が気持ちよかったからさ……あの船が氷山にぶつかるところでうっかり寝ちまった」

 「そこ、一番の見せ場なのに!?」


 そこへローテン王国の若き王女、テレーゼがふたりの前に現れる。


 「いかがでしたかしら? 新作のお芝居ですの」

 「は、はいっ! すごく良かったです! お芝居で泣いたの初めてです!」


 シンシアが興奮を隠さずに言う。


 「おう。凄かったと思うぜ。特に巨大蛸が襲いかかってくるところとか」

 「そんな場面なかったじゃない!」とシンシアが小突く。

 ふたりのやり取りをテレーゼがふふふと笑う。


 「どうやら勇者様には退屈なようでしたね。劇場は交代制で行われてるので別のお芝居が観られるんですよ。もうひとつのほうは冒険活劇ですから、勇者様もきっとお気に召すと思いますわ」

 「そりゃ楽しみだ!」と喜び勇む勇者。

 「では馬車へ参りましょうか。そろそろ舞踏会が始まる時間ですよ」

 「舞踏会! あたし夢だったんです!」


 うきうきするシンシアと欠伸をする勇者、テレーゼを乗せた馬車は劇場を出ると宮殿へと帰路を走る。



 宮殿に着いたときは辺りは暗くなっていた。

 馬車から降りた勇者とシンシアが通されたのはダンスホールであった。

 天使と、信ずる神が描かれた天国をモチーフにした高い天井の下、楽団がめいめいの楽器でワルツを演奏し、その曲に合わせて名門、名家の貴族や富豪が典雅な動きで踊る。

 憧れの風景を目にしたシンシアは声が出なかった。


 すごい……これが舞踏会……。


 驚いているシンシアにテレーゼが声をかける。


 「勇者様、シンシア様、申し訳ございませんが、わたくし はあちらの玉座にて貴賓の方々に御挨拶をしなければなりません。お二方はごゆっくりとダンスをお楽しみください」


 では、と別れを告げてテレーゼが去ると、ふたりはその場にぽつんと残された。


 「ね、ねぇ、どうするの?」とシンシアが勇者の袖をくいくいと引っ張る。

 「どうするもなにも、踊るしかないだろ?」

 「そんなこと言ったって、あたしこういうところで踊ったことないもん」

 「とりあえずホールに出ようぜ」

 「ちょ、本気なの?」


 勇者に腕を引っ張られ、シンシアと勇者のふたりはホールの真ん中へと向かう。

 周りが華麗に、優雅に踊るなかで勇者とシンシアは互いに手を繋いだままぽつんと立っていた。


 「そ、それでどうするのよ? ステップとかわかんないよ?」

 「俺も初めてだから、わかんないや」

 「このままここに突っ立っているわけにもいかないでしょ? 周りもこっち見てるし……」


 実際、ふたりは周りからの注目を集め始めていた。

 それでなくとも英雄、勇者とその妻がここにいるだけでも話題には事欠かない。


 「と、とりあえずさ、ステップ踏んでみよ?」とシンシアが提案する。

 「おう」と勇者が足を前に出した時だ。


 「い……ッ! たぁ……い」


 勇者がシンシアの足を踏んだのだ。


 「ご、ごめ……大丈夫か?」

 「だ、大丈夫……」とひくひくと怒りを抑えながら笑顔で返すシンシア。


 こりゃ、あとでお仕置き確定だな……。


 ふと、勇者の頭に閃くものがあった。シンシアの両手をしっかりと掴む。


 「シンシア! 回るんだ!」

 「え? ちょ、ちょっと!」


 互いに手を掴んだまま、その場でふたりはくるくると回る。


 「ちょっと! これダンスなの? 曲と全然合ってないんだけど……ていうか、これお芝居に出てたやつじゃない!」

 「でも楽しいだろ!」

 「ん、もぅバカ……!」


 と、曲がいきなり変わる。勇者たちの周りでワルツを踊っていた貴族達は何事かとぴたりと動きを止める。

 流れている音楽は今日観た芝居の、男と女がただひたすらくるくると回る場面で流れていた曲だ。

 楽団員のほうを見ると、指揮者も含めみなこくりと首を振る。

 勇者とシンシアの戸惑うふたりは笑いながらひたすらくるくると回る。

 曲が聞こえなくなったので、ふたりは回るのをやめる。

 するとホールにはいつの間にか勇者とシンシアだけが残っており、皆は取り囲むようにして惜しみない拍手をふたりへと送る。

 そこには王女、テレーゼも拍手を送っている。そして傍らにはベルトルトが絹のハンカチで涙を拭う。

 拍手を送られたシンシアはかぁっと顔を赤らめる。

そして勇者と一緒にぺこりと頭を下げる。

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