第11話 遭遇
「これを頼む」
エスがそう言ってカウンターに一枚の紙切れを叩きつけた。紙には『徘徊型の怪物。精神汚染の危険有。複数での討伐を推奨。場所はロンドン外れの草原。報酬は10.0000€』と淡々と記されているのみで、怪物の詳細などは省かれ、どんな怪物なのか見当もつかないものであった。
その依頼書を何の躊躇もなく取ったのは、単純に報酬が良かった、それだけの事である。受付の男も、明らかに誰も取る事はないと思っていた依頼書を目の前に差し出され、エスの正気を疑った。
「あんた本気か? この国でこんな大金払うヤツなんざいねぇって普通思わないか?
別にあんたが死のうが俺の知ったこっちゃないがやめといた方がいいと思うぜ?
それになんだよこの依頼書は……」
黒スーツ姿で協会のロゴが入った灰色のジャンパーを纏った受付の男は依頼書の内容を見てエスに忠告している。カウンターに座り依頼書とエスを交互に見ている内に受付の男は、目の前の霧男は引き下がらないだろうと諦めがついた。
「あんた見た感じだと結構腕はありそうだが、なにぶん相手が何かも分からん依頼だぜ……用心しておく事に越した事はねぇ。なんならウチの方で保険にでも入るか?」
受付の男は『協会保険。死亡損失時に10.0000€の保険金』と乱雑な文字で書かれた紙を取り出し、エスの前に置く。
「お前今書いたろコレ。協会の職員までこの街の卑劣さが染み込んじまったのか?」
差し出された紙を破り捨てエスは呆れたと、両手を上げてやれやれと首を振った。受付の男は「冗談だよ、冗談」と言って依頼書に受理の印を押すとそれを受理済みのボックスへと入れて笑った。
「一万€入ったらなんか奢ってくれや」
そう言ってエスの肩を叩きながら受付の男はエスに耳打ちをした。
「一つ忠告だ。今この街には〈恐れ無き恐れ〉が来てる……件の弟子付きでな。その上、あの〈埋葬屋〉まで来てるって話だ。近い内に何か起こるぜ……デカい抗争か、はたまた〈正統議会〉が動き出すのか」
「なんで俺に話したんだソレ」
聞き返すエスに対し受付の男は事務椅子でくるくると回りながら「あんたとはまだ付き合いがあるだろうなって思ったからさ」とだけ答えると手を振ってエスを送り出した。
変な野郎だったな、そう思いながら協会を後にしたエスはユエシィの待機しているテムズ・ソアへと一度戻ることにした。
◇
通りには信仰者達だけが道端に座り込んでいるだけで破落戸も雇われ達の姿も無く閑散としていた。この街道は道幅が広く取られており、かつては交通量の多い道であった。今は電気の通っていない信号機と、消え掛けの横断歩道だけが名残を残していた。
その閑散とした街道に面した古いビルの一つが宿屋に改築されて使用されている。
エスがテムズ・ソアの扉を開くと、狭いフロントのカウンターに主人が佇み、おかえりなさいませとだけ口にしてエスが上の階に上がって行くのを見送る。
エスは不気味な翁に「ああ」とだけ返事をして、踏むたびに軋む木の床の音を聞きながら自室へ向かった。電気の通っていない薄暗い廊下を突き当たりまで進んだ所がエスとユエシィの部屋である。
エスは一抹の不安を抑えて、部屋の扉を開いた。
「いい仕事はあった?」
寝巻き姿のままベッドの上で菓子を頬張っているユエシィはエスが戻るなりそう言ってまた一つ菓子を口へと放り込んだ。
「すっかり堕落しやがったな」
エスの予想していた不安は的中していた。
記憶の中にある第七研にいた頃のユエシィと今のユエシィを照らし合わせエスは彼女のこの状態もまた、記憶を抜かれた事が原因だろうと推察する。だがエスとしてはこれくらい図太くあってくれた方が今のところは仕事は楽だなと考えていた。
「仕事はあったぜ、一万€の大仕事だ。そういう訳で俺の方は一日、二日くらいここを空ける。お前は外に出んなよ」
はーい、と空返事をする彼女。エスはため息を吐くとダイニングテーブルに腰をかけ、冷めたコーヒーカップに手をかけて、受付の男に言われた内容を思い返した。
「(恐れ無き恐れと埋葬屋。前者は伝説的な怪物狩り。後者は都市伝説に近しい部類の伝説で、狂人だ。幸いどちらにも出くわした事は無いが仮に出会ってしまった時、抑えられるかどうかって所か……)」
冷めた珈琲を流し込んだ所で、エスはダラけきった姿のユエシィに目を向ける。ユエシィはここ数日で明らかに人格の部分での変調を来たしていた。
エスが金策を提案してから三日ほどが経過している。その間で彼女は徐々に無気力な方へと人格が変異している。エスの予想では最悪な状態に陥るまでの猶予はあまり残されていない。
彼は、今回の依頼をこなした後単身でゲヒルンを壊滅させるつもりでいる。
「んじゃ行ってくるわ。くれぐれも宿から出るんじゃねーぞ」
はいはーい、と菓子を頬張り、再度空返事をする彼女を背に微かな不安を感じながらエスは宿を後にした。
◇
ユエシィの変化を観察していたエスは、彼女の脳の能力が日々 低下していき、最後には廃人になるか植物状態になってしまうだろうと予想している。
「ゲヒルンどもはComに報せが行く前に何かしでかすつもりだったのか?
それにしては猶予が有り過ぎだ。ユエシィの記憶とは何か別の目的……だとしてもMO技術以外であいつに何かあるか……?」
今はまだ堕落しているだけに見えるが、戻ってくる頃には更に酷くなっている可能性が高い。彼は今回の依頼を迅速に片付け、早急にゲヒルンの拠点を見つけ出さなければならなかった。
そうして、エスがやって来たのはロンドンの外れにある、無闇に穏やかさを湛える草原。そこは人が寄り付こうとしない。何故ならばそこが異常な空間で、とある怪物の住処であり、その場所自体が一つの怪異である事に起因している。
その原理は幻想兵装と似ており名称として〈投影結界〉と呼ばれる。それは強迫観念の様なイメージで環境そのものを鮮烈に焼き付けた者がそういった現象を引き起こす。
「なるほどな、投影結界か。
こりゃ厄介そうだわ」
エスは結界と現実の境界に触れる様にしてボヤく。幽かに揺れる境界が本来あるべき姿との境界である。
今エスが居る結界は通常、もしくは小規模と呼ばれる型として怪物殺しを生業としている者達の間では知られている。世界干渉レベルの投影結界はそう現れるものではなく、そういった者の例として〈灰の夜〉が代表されるが、灰の夜以降は世界規模で投影結界を引き起こした存在は確認されていない。
「出てこーい!」
草原に足を踏み入れると、エスは大声で件の怪物を呼び寄せようとする。
エスの声は草原に吹く風に取り込まれ、再び静寂となった。怪物もいなければ、一片の敵意すら無い。視界の先には無限に続いているかの様に見える緑色の草原と緑の丘。
「反応が無ぇな……よっぽど凶悪なMOでもいんのかと思ったんだがなぁ」
独り言を呟きながら彼は青白の円から赤い布の刀を引き抜いて後方右斜めへと刀の腹を向けた。
そこへ──
視界には捉えられぬ速度で何かが衝突する。白と緑に発光する衝撃の塊。それを受けてエスは十メートル程、地面を転がって吹き飛ばされる形となった。
「──思ってたより数倍、いや数十倍吹っ飛ばされたわ」
草と土に塗れた革の外套を払いながら立ち上がって衝突してきた者に向けて言った。
「殺すつもりだったのに耐えたんすね。これは当たりな予感です!」
──エスの眼前には正拳突きの構えのまま、首を傾げている少女が立っていた。
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