第5話 脳の行方



 「一先ずお前の意見は役に立たない、と」


 革の装丁を施された手帳には『八月八日。ユエシィ、臭う』と記入されていた。それだけの事を手帳の一頁にでかでかと記すとコートの内側にしまい込んだ。その一連の流れを終える頃にはエスの顎に拳が迫っていた。


 「どういう意味!?」


 顎を打ち抜かれエスは仰け反るが何事も無かったのように立ったまま言葉を返す。


 「何が? 手帳に書いた内容の事?

 あんまし人の手帳の中身とか見るなよな。プライバシーの侵害だぞ、まぁ俺の事知りたくなるのは仕方ないけど順序ってのがあんだろ? なぁ?」


 「違う! 私の意見がゴミ屑だって言った事!」


 「ああ、そっちか。

 なんだ折角オブラートに包んでやったのに……自分で剥がしちまったんじゃ仕方ないな」


 拳を受けて仰け反った姿勢のまま、エスは淡々とユエシィと会話を行ない、もう一度彼女にいかに彼女がゴミ屑であるかを話そうと姿勢を直した。


 「お前はイゾラド共に捕まってたんだよな、なのに何もされなかった」


 「ええ、運が良かったのと……

 ……あんたが助けてくれたからだと思うけど」


 頬を朱に染めて恥ずかしながらもそう口に出す彼女は年頃の恋する少女の様にしか見えない。が、そんな彼女に対しエスは「はい死んだー」と答えを即否定した。なるべく彼女がムカつく言い方で。

 エスが彼女の額を人差し指で弾き「いたっ!」と額を押さえる彼女。


 「何もされてない訳ないだろ、馬鹿か」


 そう言われて彼女は改めて自分の身体を触ったり、見たりして確認するがどこにも彼女が異常を感じる様な場所はなかった。眉間に皺を寄せ、苛立ちを込めた目でエスを見た。


 「どこが変なのよ」


 「そんな事も分からなくなっちまったか。

 まぁとにかくソレが証拠だよ」

 

 面倒臭そうにエスは手のひらをひらひらと動かし彼女に背を向けた。


 「はぁ?」


 まるで理解出来ず、エスに対しいい加減気分が悪くなる。そんなユエシィが再度口を開く前にエスが言葉を続けた。


 「聞いても泣くなよ」


 その言葉には、侮蔑する様な意思が感じないと分かったユエシィは、一度深呼吸をして落ち着きを取り戻す。乾いた泥が未だまとわりつく顔面に普段の凛とした表情が戻った。


 「いいから、言って」


 どんな事をされていようと受け止める。むしろ彼女はそれをした存在に復讐をしてやる、とまで考えている。自分ならそれが出来る事を──その自信が今彼女を動かしている。


 「お前脳みそ取られたぞ」


 間髪入れずにエスは彼女が思いも寄らない言葉で彼女に衝撃を叩きつけた。


 「えっ」


 たったそれだけしか発する事が出来ず、凛とした表情から一変、間抜けそのものだった。


 お前脳みそ取られたぞ。


 お前脳みそ取られたぞ。


 お前脳みそ取られたぞ──


 その一文が何度か頭の中で木霊して、彼女は次にその意味を理解しようとする。

 脳みそ、大脳や小脳、幾つもの部位に分かれ、人間が思考するのに必要な器官。彼女はそれを取られたという。そうして文字通りの無い脳みそを回転させた。


 私は思考出来てる、はず。

 本当に取られた? 

 この男の言ってる言葉なんて当てに出来ないでしょ?

 なら何を取られた?

 脳みそと言ってもどこを取られたかによって症状も変わってくるだろう。


 私はどこを取られた?


 そこから先は思考は同じところを周回するばかり。逡巡に逡巡を重ねてもレースゲームで逆走ばかりしてるかのように思考は進む事はない。


 「まぁそう落ち込むな。

 元々無いに等しかったんだから、そう悔やむもんでもないだろ?

 お前にはもっと良いトコがあるさ、多分」


 振り向いてユエシィの肩を叩くとエスは、絶望する彼女の横で煙草を取り出した。彼は彼女がヘタクソなレースゲームから現実に戻ってくるのを待つつもりである。


 providenceと銀で記された焦げ茶の紙のケースに収まった煙草を一本だけ取り出し、銀のジッポライターで火を点ける。煙が昇るのと同時に林檎に似た薫風が、甘過ぎない薄い匂いを廊下に撒き散らされる。それを一息に吸い込みエスは再度、はぁ、と吐き出した。


 煙がユエシィにまで届くと、彼女はハッとエスの方を振り向いた。


 「施設内では吸うなっていつも言ってんだろ!」


 そう言ってまたハッとする。記憶の底の底にある無意味な瓦礫の中にあった記憶である。そんな事を今思い出し、咄嗟に言動に現れた。


 「戻ってきたか」


 構わず煙草を吸いながらエスは彼女に顔を向けた。煙と霧が混じり、得体のしれない化け物みたくなっているが、ユエシィはその姿を見慣れている為、何も言わずに近付いて煙草を奪い取って火を消した。


 「それ貴重なんだぞ。

 年代物かつ──もう造られてないんだからな、古い知り合いに貰ったんだがその一箱が最後だぜ?」


 「うるさいわ。喫煙者なんてみんな肺が爆発して死ねば良いのよ」


 「ひでぇ言い草だ。脳みそが戻れば多少はマシになるかね」


 煙草とライターを懐にしまうとエスは廊下の先に見える大きな鉄の扉を親指で示した。

 横に五メートル、縦に七メートルの鉄の両扉。自動で開く扉と思われ、手をかける場所が無い造り。薄暗い廊下の先に佇む黒い鉄扉はそれだけが意思を持った石像のごとく存在感を持っている。


 「きっとあそこだ。見るからにデカい部屋だし、何よりボスがいそうだ。

 お前はそこのセーブポイントに入っておけ、どうせやり直すんだから」


 「意味わかんない事言わないでくれる?

 疲れるし、腹立つから」


 示された大扉へと彼女はエスより先に歩を進めていく、一メートル程後ろをエスはゆっくりと付いて行っている。


 ◇


 「開かない」


 単なる事実を述べ、鉄の扉の前で立ち尽くす彼女は物事を理解していない子供のようであった。


 「まぁそりゃそうだ。セキュリティくらい用意してるだろ、馬鹿だなぁ」


 「じゃあ早く開けて!」


 エスの方へ尋常ではない力を込めて視線をぶつけて彼女は扉を蹴飛ばした。がん、という音が響くと一緒に彼女の右の爪先がじんじんと痛んだ。自分で蹴っておいて泣き言を言えないと痛みに耐えつつ彼女は再び扉へと向き直った。


 「子供かよ。って子供だったか」


 いつもの台詞を呆れた風に言ってエスは、ポケットから三又の鍵の様な物を取り出してユエシィの近くにある、端末へと近付いた。

 銅色の燻んだ三又を端末の穴の一つへと挿し、小さな画面に現れる文字を眺めながら、取り付けられた長方形の小さなキーパッドに流れる様に文字を打ち込んでいく。


 入力が終わると短い電子音が鳴り、次に大扉が機構の動く音を響かせながら両横にスライドしていく──


 扉の内には研究施設の様な空間が広がっていた。

 あちらこちらにガラス張りの四角い部屋が配置されているが、内には何も入っていない。中央には巨大なガラス張りの円包が柱の様に聳え立ち、緑色の液体で完全に満たされており、その円包を囲む様に巨大な電子機器が並んでいる。


 「ふーむ、やはりもぬけの殻か。

 ここにいた連中はとっくに逃げ去ってやがるな、そんなに時間は与えたつもりは無かったが──空間移動に関連した技術だな、これは厄介だ」


 部屋に入り早々、エスは一人で納得すると部屋内を物色し始めた。


 「私の脳は?」

 

 辺りを見回しながらユエシィがエスに問う。


 「そんなの俺が分かる訳ないだろ、脳に名前でも書いてんのか?」


 「あーもう。その辺の端末に記録が残ってたりしない? 今の私じゃこの辺の機械の操作すら出来ないし」


 椅子に座ると、溜息を吐いてユエシィは項垂れ自分の能力低下を嘆いている。彼女にとってはその辺りの技術分野だけがエスに勝る事柄であったのにそれすらも奪われたのだ。最早彼女は足手まといにすらならない段階にまで落ちぶれてしまっているた。


 「まぁそう悲観するな、最初から役には立ってなかったし。状況は今と全く同じだ」


 端末を操作しながらエスはまるで慰めにならない悪口を投げ、追い討ちを掛けた。

 当の彼女はそんな事は分かってる、と思いながら黙って俯き続けた。


 「多少は情報も残ってるな。

 見ろよユエシィ、お前の脳みそについても書かれてるぜ」


 エスは端末の画面をこんこんと叩き肘をかけて彼女を呼んだ。ユエシィは駆け寄って電子の文字を目に通した。


 「嘘でしょ……」


 画面の文字を読みながらユエシィは額に汗を浮かべる。記されていた内容が彼女が知る中でも口外が許されていない事ばかり、どれもこれも世間に広まれば不味い事だった。


 「バーガーについてまで書かれてんなコレ。お前知ってんの?」


 「……なにそれ?」


 聞いたことの無い単語を問われ、不思議に思う彼女をよそにエスは「そう言うことか」と納得して端末を弄り始めた。


 「ていうかバーガーってなに?」


 彼女は先程聞いた事について追求してきた、次いで彼女は、いやハンバーガーは知ってるけど、と付け加えた。


 「クラウンズバーガーショップ。

 通称、パン屋。ここまで聞いて知らないなら首は突っ込むべきじゃないってか知るべきじゃないな」


 名称だけを告げたところ、彼女はまるで知らない様な反応だった。そしてそれを聞いてユエシィは、また碌でもない目に合うかもしれないと考えそれ以上を聞かない事にした。


 「ま、そんな事より今はここにいた連中がどこに行ったかだ。ちなみにだが本部にバレたらお前と俺、もしくはお前だけが実験体堕ちだな」


 「嘘でしょ……」


 そんなのはごめんだ、と端末に触れボタンをあれこれと押すが端末は静かなままである。


 「出来ないんだろうが。貸せ」


 エスがユエシィを退かし、再び操作を始める。そして直ぐにその手を止めユエシィを見た。


 「お前またやっちまったな」


 そう言って中心の円包を見上げる。

 聳え立つ柱の中身は緑色の液体で満たされている、その上からゆっくりと降下してくるナニカ。


 無数の目玉が下にいる二人をガラス越しに凝視していた。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る