とあるマンション

私はとあるマンションに住んでいる。

これが何とも条件の良いマンションで、毎月約1万6千円払えば大体40年は住めるというのだ。しかも、このお金は、このマンションを出て行く時に返して貰えるらしい。

私は20歳の頃にこのマンションの最上階に住み出した。

20歳の頃には深く考えなかったのだが、このマンションは1階からどんどん潰れていき、上にどんどん新しい階層が建築されていく。

つまり、住民達は最初は最上階に住んでいてもどんどん下層階へと下がっていくのだ。

でも私は若かったので、深くは考えなかった。1階に住むようになるのは、60歳の時だ。遠い未来だ。しかも、その頃にはそれまで払った家賃は返して貰える。それなら潰れる前にそのお金を持って出て行けばいい話だ。


しかし、そうはならなかった。私は現在、1階に住んでいる。高い高い塔の重みで天井はみしみしと音をたて、今にも潰れそうだ。

しかし、どうやら最初に聞いた話と違い、40年後ではなく、45年経たないと家賃は返ってこないらしいのだ。50年に変わるという話も聞く。

どう考えてもこの階層は1年以内に潰れるだろう。しかし、今引っ越してしまえば、今迄積み立てた家賃は返ってこない。

私は今60歳だ。このマンションの部屋とともに歳を経てきた。貯金は親の介護と葬式、自分の病気、その他諸々、生きていくのに最低限必要な事柄の為に消えていった。引っ越し費用も無い。何とか借金をして引っ越し費用を工面したとしても、私には身元保証人がおらず、仕事も非正規なので、部屋が借りられるかどうか分からない。

隣人Aさんに話を聞くと、Aさんは引っ越さない事に決めたそうだ。それはこのマンションのこの階層と共に潰れる事を意味する。「もう60年も生きたんだ。十分さ。ここから出て死ぬまで生きるには貯金が2000万円必要だというじゃないか。うちにはそんなお金はないよ。今まで払ったお金も返ってきやしない。ここで夫婦仲良く死ぬ事に決めたのさ。もう十分さ」


今この手記を書いている間も天井はみしみしと音をたて、早く出て行け、さもなくば死ぬぞ、と私を急き立てるようだ。しかし、私は出て行かない。出て行く事が出来ないのだ。私は、かつて上層に住んでいた時、最下層階が潰れる際に死人が出たという話を聞いても「馬鹿だなあ。潰れる前に早く出て行けば良かったのに」とその者の自業自得のように思ってきた。全くの他人事だったのだ。親が老いて、自分も病気になり、みるみるうちに無くなっていく僅かな貯金を見て、やっと自分の事として考えられるようになった。


私にはかつて恋人がいた。彼は私よりも下の階に住んでいた。彼の階が最下層階になった時、私は私の部屋で一緒に住むよう彼を説得した。しかし彼は嗤いながら言った。「君、知らないのかい。同性同士じゃ一緒に住めないのさ。パートナーとして認められないんだよ。そういう決まりさ。このマンションに住む時契約書を読まなかったのか」

あんなに細かく長い文章の契約書を隅々まで読む程、若い私は慎重ではなかった。それに、当時皆がこのマンションに住んでいた。親もこのマンションに住んでおけば将来安泰だと言い張っていた。皆が住んでいるから安心だと思い込んでいたのだ。「僕は知っていたよ。このマンションはろくでもないって。最下層で人がどんどん死のうが上の連中は気にもとめない。君もその一人だっただろう?でも僕も同じようなもんさ。知っていたけど、そう知っていたけど、当時はここに住まわざる得なかったんだ。出ていけなかったんだよ。ろくでもないマンションでも、僕の大事な人や物は全部ここにあったから。君も今はその一つさ」


彼は私よりもずっと賢明で、優しく、誠実な人だった。今は、この階の下、きっと地中に眠っている。彼も引っ越さなかったのだ。私は彼よりもずっと薄情な人間だから、きっとお金があったら今にでも引っ越すかもしれない。でもお金は無いし、彼は地中に眠っている。彼は、地中に。


天井はみしみしと、みしみしと音をたて、私を怯えさせる。この手記はきっと誰にも読まれない。私とともに地中に埋まる。そして最上階ではどんどんどんどん真新しい素敵な部屋が人々を誘う。このマンションは素晴らしいマンションだと。

私が地中に埋まったら私の身体はきっとゴミと一緒に虫に食べられて分解されて、このマンションの土壌になるだろう。私の身体を食べた虫は、彼の身体も食べたかもしれない。

虫の体内で私達はまた出会うのだ。そういうドラマを昔観た。彼とともに。


汚い虫のお腹の中で私達は「苦労したね」と抱き合うのだ。

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