第二章

第10話 王妃

 嵐は真新しいみやこにも傷跡を残して止んだ。

 何があれほどの嵐を呼び起こしたのか。あれ程の神威は何故か。御門からの御下問はほうぼうにあったが、明確に答えた者はいなかった。

 もちろん、あたりをつけていた者は幾人もいた。

 あれ程の神威。

 そして熱田の密やかな動き。

 あれこれと考え合わせて答えをたどるのは難しい事ではない。例えば額田女王なども答えにたどり着いた一人だ。

 あれは何の神威であったのか。

 荒ぶったのはどの御霊か。

 そこに答えを出せる者は幾人もいた。

 ただ、その御霊がどこに鎮まったのか、何が御霊を鎮めたのかということにたどり着く者はいなかった。

 かつて神に奉られるためにあったひめ。

 密やかに育まれていたそのひめが人の男に奪われた事を嘆き、その類まれな麗質を惜しんでいた者でさえ、まさか喪われたやまとひめがかほどの鎮めを成し遂げようとは思いもよらない。

 ただその有様をその目で確かめた籠目が、ほとんど絶えたよすがをたよりに一族に報せた便りは、ごくごく密やかにかんなぎたちの間に広がっていった。

 

 部屋に入ると女がいた。

 女は二人。一人は知っている顔だ。

 前猿女さきのさるめにして比売田大刀自ひめだのおおとじ葉積はづみ

 かつて倭がやまとひめとなるべく育てられていた折に、顔を合わせた事があった。

 あの頃、倭はまだ童女だった。

 葉積も三十歳を越えてはいなかったろう。

 この正月で倭は三六となった。

 葉積はもう六十に近いはずだ。

 もう一人の女は記憶にない。

 おそらく倭とたいして変わらない年頃の女だった。

 顔立ちはわからない。

 倭が部屋に入る前から、ずっと平伏していた。

 倭が上座に座し、籠目がすぐ脇に控える。

 かんなぎである比売田の大刀自の来訪ということで、事情に詳しい籠目以外は同席を慎んだ。

 もともとそういう空気はあったのだが、先日の嵐に倭が魂離たまがれて以来、いっそう祀りに関わる事を尊び、憚る雰囲気になった。

 「ひめみこさま、お久しぶりでございます。」

 葉積の言葉に薄く笑う。

 「皇女ひめみこではありませぬ。いまの私は女王ひめおおきみ。そして御門の皇后おおきさきです。」

 皇后という言葉に滲む自嘲を、葉積も意外とは思うまい。倭は人の妻となるために育まれた娘ではなかった。

 「それで、そちらはどなたです? 大刀自どののお身内か。」

 誰何する籠目の言葉に、平伏している女がさらに深く伏した。

 「これにおりますは私の姪、多氏の真琴と申します。」

 葉積の言葉が終わっても、真琴は顔を上げなかった。

 「本日は不始末のお詫びに参りました。」

 重ねての葉積の言葉に、倭は首を傾げた。いったいなんの不始末を、倭に詫びようと言うのだろう。

 倭の一番の立場といえば皇后だが、正に名ばかりの皇后だ。なんの不始末があったとて、実質倭には関係ない。

 「さきの嵐の折、ひめみこ様が神威を鎮められたと伺いました。御柱が荒ぶったのは神剣を盗む者がおりましたゆえ。その者に神剣のあることが知れたのは、私の不始末でございます。」

 平伏したまま、真琴は事の次第を話した。

 「私は御門のご配慮により、余豊璋の妃でございました。その縁で百済の遺民とのつながりがございます。」

 余豊璋という名は、なんだかひどく遠かった。

 何かの折に顔を合わせた覚えだけはある豊璋は百済の王子だとかで、確か彼を百済王として迎えたいという百済からの申し出が、あの負け戦の始まりだったのではなかったか。御門に侍る氏女の誰だかかを、豊璋が妃として賜ったという話は倭も聞いたことがある。

 ならばあの氏女というのが多氏の真琴なのだろう。

 豊璋王は敗戦のあと帰っては来なかったし、あまり噂も聞かないので、倭にとってはすっかり忘れたような名前だった。

 もっとも、倭はもともと噂になどほとんど注意を払わないし、豊璋王にとっても、いるかいないかもわからないような葛城皇子の妃など、記憶の外であったかもしれない。

 「御門の御即位の話の出ました折に、神器のうち御剣だけが遠く熱田から運ばれて来るのだと、百済の遺民に話してしまいました。どうやらそれが巡り巡って、新羅僧道行の耳に入り、道行は神剣の略取を企てたらしゅうございます」

 「待って下さい。百済と新羅は敵ではありませんか。」

 思わずというように籠目が問う。

 それに応えるように、真琴が僅かに顔を上げた。

 美しい。

 素直に倭はそう思った。

 倭と同じ年頃の、真琴は本当に美しい女だった。

 「同じ半島の国同士、あれらの国の民には一言では説明しきれぬつながりがございます。国を滅びされた恨みはあれど、それまでの全てを断てるものではございません。私自身、その事をもっとわかっているべきでございました。」

 声もとても美しい。

 透き通るような美貌とは、このようなものなのだろう。

 白い、珠を思わせる艶めいた肌に、まさに濡れたような見事な黒髪。

 これ程の美貌の氏女を下賜したというだけでも、あの時の葛城の本気が窺えようというものだ。

 倭はそんな事を考えてしまっていたけれど、籠目は身を乗り出した。

 「では、その僧があの嵐を引き起こしたと?」

 問いただす声に真琴が頷く。

 「御門の御即位の後、熱田へもどる神剣を奪い取ったようでございます。船で筑紫へ、そこから新羅に渡るつもりであったとか。」

 それで神剣は海へと去ろうとしたのかと、倭は得心した。

 あの神剣はその来歴に元は海を治めた神との縁を持つ。不本意な動座を強いられれば、海へと神去ってもおかしくはない。

 「道行の船が難破したとの噂と共に、神剣の障りであるとの話が密やかに流れております。それで大刀自様に知る限りをお話いたしました。」

 再び、真琴が平伏する。

 美しい面が隠れ、倭は少し惜しいような気持ちになった。

 「真琴より仔細を知り、ようやく確信が持てましてございます。ひめみこさまのお力により神剣の障りの鎮まりました事、お礼の申し上げようもござりません。」

 葉積も深く頭を下げる。

 真琴は軽く首を傾げ、笑った。

 「礼を言われることではありません。私はただ荒ぶる神にお仕えしたのみ。」

 あの時、倭は鎮まり給えと祈りはしなかった。

 本当にただ仕えさせ給えとだけ祈った。

 結果的に神威は鎮まりはしたが、それは倭の祈った言葉ではない。

 ただあるように、神威のあられようとするように、畏み仕えただけだ。

 「神剣の事はいかにいたしましょう。未だ、熱田の者は表立っては動いておりませぬが。」

 続いての葉積の問いには首を傾げる必要はなかった。

 「そのままに。今の祀りにお鎮まり遊ばしておられますゆえ。」

 神剣は誰かに見つけられ、祀られているらしい。よもや熱田の神剣と知っての祀りではあるまいが、その祀りに神剣が鎮まっているのを感じてはいる。

 盗んだ者はもちろんだが、仕える剣をむざむざ盗まれた者にも剣は怒っていることだろう。直ちにに熱田に戻すことが、本当に良いのかはわからない。

 「ひめみこさまの仰せのままに。」

 葉積が倭を「ひめみこ」と呼ぶことを、倭ももういちいち正そうとは思わなかった。



 しんとした水面のようなひめみこだった。

 やまとひめたるべく育てられながら、父親によって政敵に差し出されたひめみこ倭の事を知らない巫などいない。

 真琴は巫ではないが、それでも巫に連なる者として、そのひめみこの話は知っていた。

 もっとも、対面したのは初めてだ。

 祖父の養女の格で氏女として宮中に上がったものの、早々に豊璋に下賜された真琴は、今まで倭にまみえる機会をもたなかった。

 巫としては終わったものと扱われ、葛城の妃としても目立たない存在である倭の事は、それほど意識していなかったという事もある。

 だが、母方の叔母に連れられて初めてまみえた倭は、驚くほどに清らかな静謐さをたたえていた。

 「ひとの話などあてにはならんものじゃな。」

 まだ新しい邸の部屋に帰りつくと、叔母の比売田大刀自がふっとため息のようにこぼした

 「あのお方こそまさにやまとひめ。人のと落とされてあれほど清らかであられようとは。」

 どうやら真琴と同じような事を感じたらしい。

 いやむしろ、単に巫の血に連なるだけの真琴より、かつて宮中で神器に仕える巫である、猿女であった叔母の感覚は、はるかに鋭いことだろう。

 「それにしても厳しい事を仰せになる。皇后のお立場も、やまとひめとしての在り方を揺るがすものではないと言うことか。」

 叔母は晴れ着の領巾を外して衝立に掛け、座面に鮮やかな色の布を張った椅子に腰掛けた。真琴は領巾をかけたまま、もう一つの椅子に座る。

 「よいか、あの御剣は御門の神器。御門のお立場を思えば何よりいそいで取り戻すべき品じゃ。それをあえてそのままにとの仰せは、皇后としてのお立場では出てくるはずのないお言葉であろう。」

 言われて見れば叔母の言う事の筋はわかる。皇后とは御門の正后。本来なら御門の立場をこそ一番に配慮すべきものだろう。

 だが、倭にはその配慮に迷った様子さえなかった。

 「それとも息長媛に倣われるか。」

 かつて審神者をつとめた皇后の名を、知らぬ巫もまたいない。

 だが、叔母はゆっくりと首を振った。

 「いいや。やはりあのお方はやまとひめ。神に仕えるためにおられるひめみこじゃ。」

 熱田も口をつぐみ、他の巫も触れることなく、皇后である倭も動かないとなれば、神剣が実質紛失している事態を御門が知ることはないかもしれない。

 それもまた、帝徳ということか。

 真琴は心中深く肯く。

 豊璋王に下賜され、敗戦後の百済から遺民を引き連れてなんとか戻ってきた真琴に、御門のあしらいは必ずしも暖かくはなかった。

 確かに遺民を受け入れてはくれたが、真琴自身は京ではなく、筑紫に邸を賜った。

 筑紫で未だに訪れの続く百済遺民の受け入れを行えというのは確かに筋が通らないではないけれど、むしろ王妃という立場の自分は、京に置いては邪魔なのであろうと思う。

 百済のというよりはあの敗戦の象徴とも化している真琴は、御門にとっては目にも入れたくない存在なのではとも感じる。

 「申し訳ない気持ちにかわりはございませんが、せめてお詫びを申し上げられたこと、叔母上さまのご助力にお礼申し上げます。」

 改めて頭を下げると叔母がうなずいた。

 「我らには秘密とも言えぬことも、外国とつくにの民にとなれば軽々に口にしてはならぬ。以後はよくよく心得なされ。」

 父に見初められ、早々に猿女をひいた母と違い、妹である叔母は月のもののある限り猿女のつとめを果たした。

 巫としての叔母の言葉は重い。

 「此度は大事に至らなんだが、神剣が海へ神去ることもありえたのじゃ。まかり間違って外国に渡るなどさらにあってはならぬ事。しかと心に刻まねばならん。」

 強く念を押すように、殊更に厳しく言い切って、それから叔母の表情が崩れた。

 「筑紫でも体に気をつけてな。時々は顔を見せなされ。」

 一度は百済王の妃として、二度とは戻れぬ覚悟をした故郷。這う這うの体でたどり着いたその故郷に、真琴は落ち着く事ができない。百済王豊璋の妃であったという事実が、真琴を重く縛っている。

 数日のうちに京を発ち、筑紫へ向かわねばならぬ事はすでに決まっている事だった。

 この叔母とも、今日の他に面会できる暇はない。

 「叔母上こそお元気で。」

 百済王妃ではなく、長く猿女をつとめた比売田大刀自でもなく、ただの姪と伯母として、二人は別れを惜しんだ。


 

 

 

 


 

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