第9話 目覚
そこは清らかな土地だった。
海からも近く、山もあり、禊のできる清流もある。
風光は明るく、山からは清らかな風が吹き、海からは常世の霊気が打ち寄せる、素晴らしく豊かな霊地。しかも社を建てるに相応しい場所が複数ある。
それでも最初、ヤマトたちはそこに黒木の鳥居を建てた。
黒木の鳥居を建て、一棟の黒木の社を建て、ひたすらに神器に仕えた。
季節は巡った。
霊地は枯れることも荒れる事もなく、神器はこの地に馴染んでいるように思えた。
改めて豊かに土地の気を吸い上げた木材を選び、清らかに整えて社を築く事が決まった。
ついに黒木ではない社に神器を納め、鎮めるのだ。
準備は慎重に進められた。
ヤマトはその間もただ神器に仕えた。
もはや神器に仕える事だけがヤマトの在り方だった。
ヤマトが神器を奉じて国まぎし、ついにこの地にたどり着き、ひたすらに神器に仕える日々を送る内に、同母の兄が即位したことも聞こえてはきたが、ヤマトは神器に仕える以外に心を傾けなかった。
黒木の社にほど近い適地に新しい社を建て、神器を移した時、すでにヤマトが神器に仕えて二十年という時間が経っていた。
「初めてお目にかかります。ヲウスと申します。」
その甥は不意にヤマトを訪ねてきた。父である
父の期待を嬉しそうに話す甥は、まだ少年の年頃だった。こんなにか弱い者を差し向けるなど、大王はなにを考えているのだろう。
とめようと思った。
止めなければなるまいと思った。
しかし、鎮まっていたはずの神剣が荒ぶり始めていた。
神剣は大蛇の尾から生まれた剣。元々が荒ぶる剣なのだ。本来であれば
こうなってはもう、行かせるより他にない。
ヤマトは神剣をヲウスに託し、魔除けのための火打の石と、自身の巫女の装束を添えて贈った。
「戻られました。」
籠目の声に打たれたように、常盤が顔を上げた。いざり寄って、横たわる倭の顔を覗く。
少し血色が戻ったか?
いや、はっきりとはわからない。
しかし。
「籠目どの、奥様のお身体を動かしても大丈夫でしょうか。」
板の間に直に横になっていることが気になる。嵐は行き過ぎつつあるが、冷たい湿気が床にじわりとしみている。
「はい。もう大丈夫でございます。」
籠目の言葉に、他の者たちを呼び集める
「奥様のお部屋を急いで整えて。湿気を飛ばすのに火を焚きなさい。褥にも良く火熨斗をかけて。」
そっと触れた倭の身体はいつもよりも冷たい。
(早く御帳台でお休みいただきたい。そして目を覚まして下されば。)
常盤はただ、それだけを思った。
倭を部屋に運んだりしてばたばたするうちに、嵐は遠ざかり日がさした。倭の部屋に、差し込んで来る日差しに、常盤はすでに日が高い事に気づいた。
夜が明けたことにも、嵐が行き過ぎたことにも気づいていなかったのだ。
なんと長い夜だったのだろう。
思わず長い吐息をついた時、その吐息で目覚めたとでもいうように、倭の目が開いた。
「姫さま。」
籠目が嬉しそうに呼びかける。
「籠目…」
まだぼんやりとした風情の倭は、何かを探すように手をさまよわせた。
「つるぎが…」
剣? なんの剣だろう。
「姫さま、お見事でございます。神威はお鎮まりあそばしました。嵐は晴れてございます。」
倭は籠目をじっと見つめた。ゆっくりと目に理解の色が浮かぶ。
「そう。ではきっとあの船は沈んだのね。」
本当に、奥様はいつきひめなのだ。
常盤は本当に、心の底から理解した。
知っていたはずの事ではあっても、きっと本当にはわかっていなかったのだ。倭が人の妻となりながらも、全く穢れてなどおらず、清いいつきひめであるということが。
そもそもこれまで常盤は、どの程度神というものを信じていただろう。
社に額づいてはいても、神威を感じるわけでない常盤にとって、神とは遠い存在だった。神が遠く捉えどころのないものならば、それにつかえる
常盤に限らずたいていの人にとって、神とは、
だが今、常盤の内の神という存在が結んだ。倭がいつきひめであるという実感と納得が、常盤の中に、神というものへの実感と納得をも植え付けたのだ。
神は確かに、人の手の届かないところにおわす。
その実感は常盤に畏れを抱かせた。
ばさり
板の間に倒れた倭の側に座し、ひたすらに倭の身体を守っていた籠目は、確かに鳥の羽音を聞いた。
小鳥などではない。大きくて優美な鳥の羽根が、風をはらんでなる音だ。
一瞬、大きな白い鳥が、倭に下りたように見えて、消えた。
戻った。
急いで倭の顔を覗く。
やっぱり。
「戻られました。」
声を張るとがたりと音がして、少し離れて控えていた常盤がいざりよった。必死になって目を凝らし、倭の顔を覗き込む。
「籠目どの、奥様のお身体を動かしても大丈夫でしょうか。」
倭は板の間に直に横になっている。冷たい床に倭を寝かせている事が、常磐にはずっと気になっていたのだろう。
「はい。もう大丈夫でございます。」
答えると常磐がすぐにも動き出した。
「奥様のお部屋を急いで整えて。湿気を飛ばすのに火を焚きなさい。褥にも良く火熨斗をかけて。」
そうだ。
体に戻った倭は人だ。人としての心遣いが必要なのだ。
そっと壊れものを運ぶように倭を部屋に運び、御帳台に横たわらせる。倭の部屋の乾いた暖かさに、付き添う籠目の唇からも安堵の吐息が漏れた。
気づかぬ内に身体が冷えていたらしい。
嵐の去った朝の光が室内に射し込み、長い夜が終わった事を告げている。
すぅっと静かに、倭の目が開いた。
「姫さま。」
呼びかけると倭の目が籠目を見た。
「籠目…つるぎが…」
では剣がこの嵐を起こしたのか。これほどの神威を持つ剣とはいったいどの剣だろう。
「姫さま、お見事でございます。神威はお鎮まりあそばしました。嵐は晴れてございます。」
しかし籠目は剣の詮索よりもまず、倭の成した成果を言祝いだ。これほどの荒魂を鎮めるなど、並みの
「そう。ではきっとあの船は沈んだのね。」
倭は喜ぶよりも思案する表情でそうつぶやいた。
その倭の様子に、昂ぶっていた籠目の気持ちが凪ぐ。
そうだ、姫様はいつきひめ。並みの
倭を湯浴みさせ、食事をとらせて再び横にならせると、籠目はわずかに残した縁をたどって、伊勢の一族に届けるべき文を書いた。
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