第8話 嵐
嵐がくる。
ガタガタと風に揺れる御簾を掲げ、額田は外を眺めた。
湧き立つ叢雲。
強くなりまさる風。
轟々というその音には確かに怒りの気配がある。
これだけの嵐を呼ぶ怒りとはなんだろう。
意識を済ませ、気配を追う。
仕えさせたまえ
静かに神威に意識を添わせるが、ピリとした衝撃と共に弾かれた。これは手強そうだ。
遠巻きに気配を探る。
強い。
本当に強い神威だ。
これだけの神威に怒りを抱かせたのは、一体いかなる愚か者か。
遠巻きに、遠巻きに探るうちに、ふと気づく。
誰かが荒ぶる神威に寄り添い仕えている。
その仕えているということが、わずかに怒りを和らげ、その矛先が広がることを防いでいるようでもある。
誰が?
額田の脳裏に一人の面影が浮かぶ。
いつきひめの中のいつきひめとなるべく育てられながら、父親の政敵に奉られたひめ。夫を通わせる身でありながらことさらに清らかである当代の
だが、まさか。
いかに清らかであるとは言っても、大后である倭はいうなれば籠の鳥であり、俗人の生活をしている。
先程、額田は神威に拒まれた。額田は俗に添う
だが…
嵐がくる。
どちらにしてもそれはもう避けようがない。
神威はすでに怒り狂い、しかもその怒りは未だ鎮まる気配がない。
(いくらかでも助けになるか…下手をするとさらに怒らせるか…)
すでに神威に拒まれた額田にできることはほとんどないが、手をこまねくのは巫としてできない。
怒りに手を出せないなら、怒りを受ける側ならどうだ。
神威は何かを怒っている。嵐はその現れで、嵐に蹂躙される地の人からすれば、とばっちりを受けているわけだ。もちろん神に人の理も物差しもきくはずもないのだから、とばっちりと感じるのは、人だけであるのだが。
怒りそのものに額田は触れられない。
しかし周囲がその怒りをできるだけ受け流し、本来の怒りの対象に怒りが集中しやすくするぐらいならなんとかなるかもしれない。
姿勢を正し、呼吸を調える。
額田は歌人。言葉を使う巫。
まず低く音韻を紡ぐ。音韻をゆるゆると広げてゆき、それが怒りに触れぬ事を確かめる。
そして、そこに言葉をのせる。
怒りを取り巻く地を鎮めるように、人の心の波立たぬように、静かに怒りを受け流すように。
受け流された怒りは全て、怒りの源へと返ってゆく。
全ての怒りを、向かうべきところへ。
鎮まりたまえ
鎮まりたまえ
鎮まりたまえ
荒れ狂う怒りを畏れ、ただ静かに受け止めたまえ。
この怒りは過ぎゆくもの。
なれば畏れかしこみ祈りたまえ。
泡立つ感情をなだめ、反発をくるみ、なしうる限り平らかであれと囁く。
叢雲呼ぶはかの神威の性なれば、ただかしこみてその威にひれ伏す他になし。
ふと、額田の脳裏に名が閃く。
これだけの神威の心当たりは少ない。当然にそれぞれに鎮まるところは決まっている。
だが一柱、まさにご動座の最中の神威があるではないか。
写し無きが故に、即位のたびに熱田より運ばれる神剣はそろそろ熱田にたどり着いたかどうかというところ。少なくとも未だ帰還の知らせはない。
かの神剣を怒らせたとはいかなる痴れ者か。一体熱田は何をしている。
だめだ。
沸き起こる怒りを封じる。
今、心を揺らしてはならない。
額田の心が揺れれば言葉が揺れる。言葉が揺れればなだめ鎮まりかけたものたちが揺れてしまう。
平らかに、ただかしこみて祈る。
ゆるゆると言葉を紡ぐ。
叢雲は天を覆い、激しい雨と風がいつの間にか額田の宮を包んでいた。
荒れ狂う神威にただ寄り添い、ひたすらに仕える事を念じていた倭は、ふとその威に方向性が付き、怒りの源へとなだれ込むようになり始めているのに気づいた。
いや、神威は変わりなく怒っている。
だが、その怒りに触れて畏れ、戸惑い、混乱していたものたちが平らかに鎮まり、息を潜めているのだ。彼らが息を潜め静まった事で、神威は乱される事なく怒りをその源へと叩きつけている。
船だ。
海を渡り外国へと向かう船。
まさかこの怒れる神剣を、国の外へと運ぼうというのか。
愚かな事を。
神剣がかような事を許すはずがない。
波が、風が、船を打つ。
帆が千切れ、帆柱が折れ、板がたわむ。
きっと船そのものが悲鳴のような音をたてているはずだが、それは倭には聞こえなかった。
嵐が、神剣の怒りが船の悲鳴よりも遥かに激しいからだ。
船上で、男たちが争う。
長いものを抱えた
ああ、あれが神剣だ。
叢雲を呼び、草を薙ぐ、大蛇の尾より生まれた剣。
船上で男たちは争う。
剣を奪われまいとする僧形の男と。
奪おうとする屈強な
僧形の男がいつまでも抗えるはずがない。
剣はついに奪われ、振り上げられ、海へと投げ込まれた。
とっさに倭は飛ぶ。
海へと落ちる剣に手を伸ばし、懐に抱きしめる。
海は剣を傷つけない。
かつては大海を治めた神が、天にいます姉神に奉った神剣だ。海は神剣を受け入れるだろう。
でも。
「仕えさせたまえ」
倭は祈る。
何卒仕えさせたまえ。
なろう事なら陸へ、人の世へ戻りたまへ。
ただ畏みて仕えること。
そこに僅かに倭は願いを込める。
ふ、と身体がさらわれる。
水の流れが神剣を抱く倭を押し流す。
流れに翻弄されながら必死に神剣を抱える倭は、ふと浅瀬にたどり着いている事に気づいた。
陸だ。
抱えた神剣を波の届かぬところへ押しやり、倭は意識を手放した。
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