第6話 魂離れ
ざわりとした感触に、倭は目を覚ました。
何かがあった。
触れてはならないモノに触れてはならない者が触れた。
その触れられた怒りは波紋のように響き、倭の眠りを覚ましたのだ。
鎮めなければ。
籠目を呼び、禊の仕度を申し付ける。
仕度は、すぐに出来た。
髪を解き、衣を脱ぐ。水と塩で全身を清め、新しい浄衣をまとう。籠目が塩と水で清めた手で、手早く倭の髪をまとめる。
静かに目を閉じ感覚を澄ませる。
怒りがある。
自らのあるべき場所から引き離された怒り。
穢れた手に触れられた怒り。
それをゆるしてしまった者への怒り。
やまとひめ
ぐわんと打ち付けられるような呼び声を聞く。
それはもはや響きというよりも、うねりそのもののようだった。
倭が仕えるべきものが、役目を果たせと呼んでいる。
やまとひめ
やまとひめ
怒り、憤り、命じる声。
浄め、澄ませた倭を直に打ち据える。
倭は歯を食いしばり、そのうねりに堪える。
怒りはビリビリと天地を震わせ、叢雲を沸き立たせる。
やまとひめ
ばさりとまとめた髪が解けた。その解けた髪の一筋一筋を、つよい霊威が一気に伝う。
ひときわ強いうねりに打ち据えられ、弾かれるように倭は意識を飛ばせた。
どこへゆくべきか。
どこへ納めるべきか。
どうすれば鎮める事ができるのか。
櫃の内に収めたのは神代より受け継ぐ神宝。
鏡と剣。
その霊威はあまりに強く、櫃を奉じて同じ輿中にあるヤマトを常に炙る。
(鎮まり給え。)
ただひたすらにそう祈る。
自分の力では神宝を抑え鎮めることは難しいと、ヤマトにもわかってはいたが、だからといって他の誰に成し得るだろう。
ヤマトは天孫の血を継ぐいつきひめ。
大王と大妃の間に生まれた姫だ。
ヤマトに祀りきれぬということは、あってはならないことなのだ。
(トヨス様はどのようにして、あれ程の間を持ち堪えられたのであろう。)
実際に神宝を奉るようになってみれば、そう思わずにはいられない。神宝の霊威はそれを鎮めようとするヤマトを確実に削ってきた。
髪は抜け落ち、やせ衰え、息も絶え絶えのトヨスは、ヤマトに神宝を託して去り、そのまますぐに薨じたという。もちろんあらゆる穢れを避けねばならないヤマトが、直接確認できたわけではないが。
さらにヤマトには新たなる試練があった。
ー 鏡剣を奉じてその鎮まるべき地を定めよ。
それがヤマトが父大王から与えられた詔だ。
神宝の霊威が傷つけたのはいつきひめたるトヨスだけではない。神宝を奉る宮の建つ笠縫の霊地そのものを明らかに傷つけている。
笠縫ではだんだんと子が育たなくなり、年寄りの数も減った。強い霊威に赤子や年寄りの生命が負けてしまうのだ。
ついには霊威を寄り付かせ、鎮めるはずの霊木さえも枯れ、その根を支える巌根には亀裂が走った。
もはや笠縫に神宝をおさめておく力はない。
では、どこへ?
あてなどあるはずもなかったが、それでも神宝をそのままにしてはおけない。
いつきひめの役割を受け継いだヤマトは清らかな櫃に神宝を納め、自ら輿に同乗して笠縫の霊地をあとにするより他になかった。
「ひめさまに触れてはなりません。」
ピシリと打つような籠目の声に、常磐はいずまいを正した。
浄衣をまとって床に座す籠目の前には、やはり浄衣に身を包んだ倭が横たわっている。
かたく目を閉じた倭の顔色は白く、何かただ事でない事が起きている事は常磐にもわかった。
「お身体に異常はございません。ただ、
たまがれ。
その異様な響きに常磐は慄く。
時に魂というものは体を離れる。
悲しみゆえに、恋しさゆえに、怒りゆえに恨みゆえに。
だが、倭がそのどれにも当たらない事は間違いない。
倭の感情は倭の魂を揺らがさず、穢さない。それはこれまで仕えてきて常磐にもわかりきっていることだ
では、何故に倭は魂離れしているのか。
「魂離れしたお身体を動かす事には障りがございます。このままひめさまがお戻りになる事を待つしかございません。」
それまで籠目はそばに控えるつもりなのだろう。
しかし。
「そうは申しましてもそのままでは奥様のお体に障りがございましょう。尊き
禊を行う倭のためにいつも浄めてあるとはいえ、板間に直に横たわり、解けた髪の広がった倭をそのままにしておくのは、常磐にとってあまりにも耐え難い。
籠目は少し考える顔をした。
「それでは誰も使った事のない清らかな白絹と真綿を用いる事にいたしましょう。たずさわる者は皆、髪をまとめて隠し、清らかな水と塩で禊をして浄衣をまとって下さい。決して穢れに触れぬよう重々慎んで下さいませ。」
そこからはできるだけ仕度のための大騒ぎになった。
宮内の人数は少ない。
月の触りや、男を通わし、女に通ったばかりの者を外すとなるとなおさらだ。
それでも常磐も含めて幾人かが身を浄めて浄衣をまとい、倉から取り出した絹と真綿で倭を覆った。
塩と水で浄めた衣桁で倭を囲い、白絹をかけて姿を隠す。
板間に直に横たわっている事は、身体に触れる事が出来ない以上どうしようもないけれど、これでわずかなりと倭の身を守る事もできるだろう。
作業のために奔走した者たちを労い、休ませると、常磐は籠目よりも倭からやや離れた位置に座した。
籠目は
だから倭の離れた魂の事は籠目に任せるより他にない。しかし
籠目と同じく常磐も、倭が目覚めるまで控えるつもりだった。
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