第3話帰京

 難波への船は下りの川を滑るように進んでゆくが、京へ戻る船は水主が声を合わせて掛け声を掛け合いながら漕ぎ、時に馬にひかせなければ進まない。川を上る船は海を行く船のように大きくはないが、倭が乗ったのは中では一番大きな船だった。夫の葛城だけでなく、御門や額田、蘇我夫人姪娘と彼女の連れた幼い娘たちも同じ船に乗っている。

 前の御門は征旅の最中に崩御あそばし、今は前の御門の愛嬢であり、先々帝の皇后でもある間人皇女はしひとのひめみこが仮に御位を占めていた。

 「あら、倭どのもいらしたのですね。」

 御門である間人はいつも倭をあしらうように扱う。倭は逆らうような事はせず、静かに頭を下げた。正式な即位ではない仮の御門といえ、御門は御門だ。そもそも皇女であり皇后である間人が上位者であるのは間違いない。

 「そういえば長々とお目にかかりませんでしたけど、どうしておいででしたの。」

 この船に乗っているのは葛城と彼を取り巻く女たちだ。その中で、倭だけが征旅の供をしていない。葛城は殊更に招きはしなかったし、倭も行くとは言わなかった。

 「京にて皆様のご無事のお帰りを祈念申し上げておりました。」

 答えると、間人は「まあ」とつぶやいて、くすくすと笑った。この妹姫はいつでもそうだ。葛城を取り巻く女には挑戦的に、攻撃的に振る舞う。一人、京に残った倭を嘲るように扱うのは予想された事ではあった。

 「なにやら楽しそうですわね。私も混ぜて下さいませ。」

 艶やかな声に振り向くと額田がいた。

 大きいとは言っても狭い船の事だ。額田だけでなく姪郎女もその子たちも、皆見渡して見える範囲の中にいる。

 「大した話でもありませんわ。もう終わりにします。」

 間人は額田が苦手なのか、ぷいっと向こうを向いてしまった。

「川風が冷たいですわね。べたつく海風よりはいいですけど。」

 一応屋根が掛かり、帳が張り巡らせてはあるけれど、到底全ての隙間風をとどめるほどのものではない。衣を重ね温石を抱え、被衣かつぎまで被っても、川風の冷たさがしみないわけにはいかなかった。

 「もう秋も終わりですから。」

 葛城の帰還の報せに京の宮をあとにした頃は、木々が仄かに色づき始めたところだったが、今日あとにした難波宮では早くも散り始めていた。京の宮ではもうすっかり散っているかもしれない。

 ふと、帳の隙間から葛城が見えた。

 船端でじっと川面を見つめている。

 その厳しい表情を、閨内の薄闇で倭は一瞬見たように思う。それは倭に向けられた表情ではなかった。同じように葛城は今、川面以外の何かをきっと見ているのだろう。

 

 傷のない女というものを愛さない方なのかしら。

 同じ船内の女たちを見渡して、額田はそんな風に思う。

 今日、同じ船に乗っているのは、侍女や幼子を除けば皆、葛城の寵を受ける女ばかりだ。同母妹である仮の御門の間人まで含めて。

 正妃格と呼ばれうる妻は女王の倭と額田自身。ついで藤原夫人姪娘。他の、船に乗っていない数多の妻は、嫡子を産める身分ではない。

 ところが同じ船内の女は皆、揃いも揃って目立つ傷を持っている。

 同母妹で不倫の仲の間人は言わずもがな。

 倭と姪娘は共に父を葛城に攻め殺されている。

 そして元々は葛城の同母弟大海人の后であった額田。

 自分自身まで振り返っても、よくもこれだけ傷のある女ばかり、好き好んで寵愛するものだとある意味感心する。

 蘇我宗家を倒してからここまでの年月の間に、もう少しまともな関係を結べそうな格の高い妻を得ようとは思わなかったのだろうか。

 いや、そういえば征旅の間にもう一人いた。

 確か蘇我赤兄の娘を得たが、産をこじらせて死んだのではなかったか。その子は確か女の子で、赤兄が育てているはずだ。

 同船する女の中で、額田にとって最も未知であるのは倭だった。故古人皇子が伊勢の巫に産ませ、いつきひめとして育てられていたはずの姫だ。古人が命乞いのために葛城に差し出したというので、伊勢の連中が憤っていたのを額田も知っている。

 葛城の妃となってからも表には出ず、殆ど忘れられたように暮らしている。この度の征旅にも同行はしなかった。

 その倭が難波宮にいた。

 葛城が迎えのために呼び寄せたのだという。

 今、こうして近々と見れば、倭は上等な絹の衣を重ね着し、ゆったりと振る舞っている。間人への応対も鷹揚で卑屈なところはなかった。旅に疲れた他の女達よりも、よほど余裕があるように見える。被衣から覗く髪も艷やかで、形こそ地味に結っているようだが、飾られた簪は小粒真珠を幾つも散らした繊細な細工のものだった。葛城の手厚い保護なしでは、刑死した父の娘である倭がこのように豊かに暮らせるはずがない。

 しかも倭は、人の妻のようには到底見えない。

 自身も巫である額田には、倭の清さの異様さがありありと感じられる。昨夜も倭は閨に葛城を迎えたはずなのに、情交による乱れや揺れが全く感じられない。なまじ俗にある巫である額田は、そういうものを感じ取りやすい。しのぶ恋も額田の前にはありありと明らかだ。その額田をして、何の揺らぎも感じさせない。どうすれば、このような姫が育つのだろう。

 この姫がやまとひめ、と名付けられている事にしみじみと感じいる。これはまさに神威の器となるべき姫だ。かつて伊勢の社を拓いた倭姫命やまとひめのみことのように、神の和魂、荒魂をやどして国覓ぎするのにこれ程相応しい姫もあるまい。

 もしかしたら、と思う。

 葛城には望んではならないものを得ようとする心癖があるのかもしれない。

 同母妹、同母弟の妻、自ら屠った男の娘、そしていつきひめ。

 額田は自分の選んだ新しい夫に、僅かな納得を得たように感じた。

 

 

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