第2話 露顕

 長い一夜が明けると、倭の周囲は一気に慌ただしくなった。負け戦はかなり深刻なものであったようで、余勢をかって敵が攻めて来るのではないかという。

 船を降りた人々の疲れきっていながらもいたたまれないような落ち着きのなさは、迎える側にも移らずにはいられなかった。

 急き立てるような空気の中で、倭の心は不思議に静かだ。むしろ全てを他人事じみて感じていると言うべきかもしれない。

 葛城が蘇我氏を倒し、倭の父であり自身の異母兄である古人を死に追いやってからすでに二十年近い時間が流れている。二十年、そこにあり続けた事で、敗者というものの寄る辺ない立場、心細さはすでに倭を染めていて、今更心を揺らさない。ただ、冷たい敗北の気配が、倭の中の古い記憶を蘇らせた。


 はじめての夜が明けて、寝台に呆然と横たわっていた倭に最初に話しかけてきたのは籠目だった。

 「ひめさま…」

 呼びかけて、そのまま後が告げずに絶句した籠目の顔を見て、倭の頬を涙が伝った。喉がヒリヒリして声がでない。

 手を伸ばすと、籠目がその手を握り返す。それから倭を助け起こし、乱れた着物を着付け直す。髪を整えてくれようとすると、櫛がひどく引っかかって痛かった。

 「つっ」

 こぼれた声に籠目はまじまじと倭を覗き込んで、それから泣いた。

 「申し訳ありません、ひめさま。」

 倭は腕を伸ばし、籠目に抱きついた。籠目の腕が倭を抱きしめる。二人は抱き合って、泣いた。

 昨夜の異様な体験がどうやら「男と契る」というものであった事を、倭は籠目の切れ切れの言葉から知った。神に仕えるいつきひめには決してあってはならぬ事、それが倭の身におきたのだ。

 清らかに在るべきいつきひめとして、極端なほどに穢れから隔離され、男女の事など耳元に掠めたことさえもない。そんな倭の乳母は伊勢の神官の妻で、乳母子の籠目は倭とともに神に仕えるべく育てられた娘だ。その二人にとって倭の身に起きたことは世界が終わるほどの衝撃だった。

 いっそ、本当に終わったなら、どんなに良かったことだろう。

 「おや、奥さまのお仕度はまだですか。」

 聞いたことのない声がして、籠目が引き離された。

 「まあ、ひどいお顔ですよ。誰か、御目を冷やすものを。それから湯浴みの仕度を。」

 はじめて見る女がまじまじと倭を覗き込んでいた。

 「あの、ひめさまはお加減が…」

 乳母がオロオロと言うのを手で遮る。

 「悠長なことを。それからひめさまではございません。この方は昨夜、葛城皇子さまのみめとなられました。これより奥さまと申し上げるべきでございましょう。」

 女は倭を寝台から連れ出し、倭の目に絞った紅絹を当てた。ひやりとした感触が心地よく、倭はじっと目をつむった。目をつむっていると身体の違和感や不快感がじわじわとつのってくる。喉の渇きも耐え難く、口中には唇を湿すほどの水気もない。

 まるでわかっていたかのように、女は水差しから椀に水をくみ、倭に差し出した。

 水を飲む。

 唇を、喉を、身体を、水が潤してゆく。

 潤されはしても身体の違和感も不快感も、癒やされはしなかった。

 「湯浴みがしたいわ。」

 女は頷き、倭に湯浴みさせ、髪を梳った。

 湯からは甘い香りがした。その香りがひどく煩わしい。なのに香りは倭の肌にも髪にも移って、倭に纏わりつく。

 「私は葛城皇子様より奥さまにお仕えするようにと遣わされました。常磐とお呼び下さいませ。」

 女はそう名乗った。

 そして倭の髪を上げ、肌に薄く白粉をはたいた。

 「奥さまの肌には白粉などたいして入り用でもなさそうですけれど、形だけはたいておきましょう。髪も豊かでとても黒くていらっしゃいますね。」

 差し出された鏡には、目尻と唇に紅をさし、高く髪を結い上げた女が映っている。

 「皇子様は大変満足してお帰り遊ばしました。今宵も粗相のないようお迎えあそばさねばなりません。」

 ぞわりとした。

 昨夜の感触がよみがえる。

 嫌だ。

 けれどもちろんその夜、葛城は現れた。


 「明後日に皇子さまは京に還御あそばすそうでございます。奥さまも同行せよとのお言葉です。」

 「そう。ではよしなに。」

 常磐は倭の言葉にうなずくと静かに下がっていった。

 今では籠目と常磐が二人で倭の身辺を取り仕切っている。籠目の母でもある乳母の伊勢は、倭が葛城のものとなった後に里に下がってしまったし、他の女達も殆どが入れ替えられてしまった。倭に仕える女たちの中で籠目は最も古株で、常磐は一番の年長者だ。そしてどちらも心を込めて、倭に仕えてくれている。

 籠目は今も倭を「ひめさま」と呼ぶ。

 常磐は倭を葛城の正妃むかいめとして扱う。

 実際には倭はそれほどに重々しい扱いを葛城から受けているわけでもない。葛城の数多いる妻のうち、最も身分の高い妻。ただそれだけの事だ。しかも、それもどうやら揺らいでいる。

 倭は女王ひめおおきみとして扱われている。父の古人は大兄であったので元々は皇女ひめみこだったのが、父の謀反と刑死によって格下げとなった。

 そしてこの出征の間に、葛城は新たな妻を得た。

 額田女王ぬかたのひめおおきみ

 葛城の弟である大海人のみめであったはずの彼女は、葛城の妃にいつの間にかなおったらしい。だとすれば、倭と同格の「女王」の妻と言う事になる。

 「弟君の妃であった女性にょしょうが、奥さまと同格とはとても申せますまい。葛城さまの正妃は奥さまで間違いございません。」

 常磐はそんな風に言うけれど、倭は子を生んでいない。格の高い妻の産んだ皇子をもたない葛城は、額田が皇子を産めばその子を嫡子とするだろう。そうなれば額田こそが正妃として扱われるようになるに違いない。

 それも、いいのかもしれない。

 正妃などと言っても、倭は目立たない存在だ。世間ではむしろ、忘れられた存在だと言ってしまってもいい。蘇我氏と共に斃れた大兄の娘。父の命乞いのために敵対者に奉られて、しかもその使命を果たすことの出来なかった妃のことなど、誰が気にするというのか。

 翻って額田を見れば、その華やかな存在感は群を抜いている。

 艶やかに美しい、才能ある歌人。

 もはや若くはなく、倭よりも年は上だと知っていても、やはり額田は美しい。自在に言霊を操り神を招き、人を動かすその技も他の追随を許さない。

 かつて倭がそうあるべく育てられていた清く聖別された形でなく、俗にあって威に添う巫。

 もう、忘れてはくれないものか。

 穢され、落とされ、いつきひめの資格を失った自分のことなど、葛城が忘れてくれればいいと思う。せめて葛城の訪れがなければ、倭は静かに暮らせるのに。

 けれど。

 ぼんやりと予感はしていたが、帰京の前夜、葛城は倭の閨を訪った。


 常磐は、倭に始めて目通りした時の事をはっきりと覚えている。

 寝台で抱き合って泣いていた少女たちは、常磐の気配に振り向いた。二人のうち、どちらが倭であるかを問う必要はなかった。寝乱れたのを急いで繕ったとわかる、単姿の少女が倭なのに決まっていた。

 なんと哀れな。

 この少女が父親の命乞いのために葛城に差し出されたことを常磐は知っていた。聞けばいつきひめとして深窓にかしづかれて育てられた姫らしい。まだ女として育ちきらない体で、何の心得もなく葛城を迎えたのだとすれば、その衝撃はいかばかりであったろう。しかも倭をこの境涯におとした父はすでに京にはいない。髪をおろした出家の姿で、その頃はすでに吉野宮へと急いでいたはずだ。

 倭の哀れさに、せめてそっとしておきたいという気持ちは常磐にもなかったわけではない。ただ、そうはできない事情があった。

 婚姻の形を取るには、一度契り交わしただけでは不十分だ。三夜通い、露顕ところあらわししなければならない。その形を整えるために、常磐は送り込まれたのだ。

 まさに心を鬼にして、常磐は倭の支度を整え、葛城を迎えさせた。

 滞りなく三夜は過ぎ、形ばかりのささやかさながら露顕も執り行って、倭は葛城の妃となった。


 

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