やまとひめ
真夜中 緒
第1話敗残
禍つ事をのせた囁きは風よりも早く渡ってくる。
海風に結い上げた髪を嬲らせながら、
早く、早く、早く。
出陣の折にも感じ取ったその声が、まるで違う響きをもって迫ってくる。
あたかも、敵を求め雄々しく荒ぶっていた狼の遠吠えが、尻尾をまいて怯える犬の鼻声に変じたごとく。
今や彼らは追われている。
敵の影から逃げ惑っている。
そして彼らを迎える都もまた、禍つ事のざわめきに揺れているのだ。
「ひめさま。」
乳母子の
「宮に戻ります。」
すぐに輿が呼び寄せられ、倭を乗せて担ぎ上げられる。動き出した輿上から振り返ると、後を追ってくるように、じわりじわりと船団が近づいてきているのが見えた。
倭が夫である
久しぶりの感触は荒々しく、倭はじわりと滲んでくる嫌悪感を圧し殺す。
ただ、過ぎるのを、終わるのを待つのが、そんな時の倭の身の処し方だ。その夜は長く、終わりの見えない途方もなさで、倭はぼんやりと葛城を初めて迎えた日のことを思い出した。
その日の体験は倭の中にくっきりと刻み込まれている。
朝、慌ただしく父が邸を去り、夜には葛城が倭の閨を訪れた。翌朝の身支度で倭の髪が上げられて、倭は自分が葛城の妻の一人となった事を知った。倭が十二歳の時の話だ。
十二歳での髪上げ、通婚は確かに早いが、ないというほどの話ではない。権力を取り巻く世界の少女たちは早熟だ。様々な思惑や状況で彼女たちは容易く大人であることを求められる。しかし倭はそういう少女たちとは生い立ちそのものが違っていた。
倭、と言う名。
それはかつて宮中から伊勢の地に天照大神の御霊を移し参らせたいつきひめの名だ。倭もまた本来なら、生涯を神に捧げるはずだった。
だから倭は葛城を迎えるその時まで、男女の事をまるで知らなかった。妹背の仲というものがどういうものか、閨の内で何が起きているのか、何一つ知らない内に突然その時を迎えた倭の衝撃は大変なものだった。
驚き、混乱、そして嫌悪。
痛みと、恐怖と、屈辱感。
その異様としか思えなかった体験が「契る」という事の現実であり、その体験をして自分が人の妻であり、成人であるとされた事に対する言いようのない感情。
倭の「背の君」となった葛城は、倭の父である古人大兄皇子にとっては異母の弟にあたる。倭の祖父である先帝亡き後、御位についたのは先帝の
大后と夫人。
階位で言えば大后に譲るとは言っても、蘇我氏は有力な氏族だ。大王家と比べてもほとんど遜色はない。だから大后所生といえども年下の葛城でなく、古人が蘇我氏の推戴を受けて大兄として定まっていた。
葛城が蘇我入鹿を打ち、蘇我大臣が自ら果てたことでその全てがひっくり返ったのだと倭が知ったのは、古人の死後だ。
倭を葛城に差し出し、自らは出家してまで必死の命乞いをした古人は、結局謀反の疑いをかけられて果てた。
いったいなんのための自分なのか。
倭は幾度も自問した。
神に捧げるための人生は葛城に捧げられた。そこまでして命乞いした父の望みは叶わなかった。
半ば世間では忘れられたように、それでも葛城の妻の一人として、倭は生きてゆくより他にない。
そこからの年月を倭はぼんやりと過ごした。
閨の夫の身体の下で過ぎるのをただ待つように、それはひたすらに過ぎてゆくだけの年月だった。
ひめさまはなんと清くていらっしゃるのだろう。
籠目はいつもそう思う。
籠目は伊勢の神官の娘だ。いつきひめに仕えるべく、乳母となる母と共に一族から送り出された。
だから倭の父である古人が、命乞いのために倭を葛城に差し出したと知った時には、とてつもない憤りを感じたし、逃れる術もなく葛城を迎えた倭の姿にはどうしようもない悲しみとやるせなさを抱かずにはいられなかった。
いつきひめとして神に仕えるためだけに育てられ俗世のことなど何も知らない倭に、いきなり男と契り交わせとはあまりに酷い仕打ちではないか。ひめさまはきっと無茶苦茶にされておしまいになるだろう。籠目の母も、他の者も皆そう言っていたし、籠目もそう思っていた。
けれど、倭は変わらなかった
妹背の契りを交わし髪を上げても、倭は変わらず清かった。葛城という男の「俗」に倭の「聖」の清さは穢されなかった。籠目にはそう思えた。
それでも男と契り交わした以上すでにいつきひめの資格はない。一族はそう判断して倭のそばから去っていった。乳母であった籠目の母さえも。倭の清さに魅せられ、倭に仕える事を選んだ籠目を残して。
そもそも倭は古人が一族の
生まれた皇女が力にあふれていたことは、一族を喜ばせた。倭を産んだ巫は残念ながら程なく亡くなったが、倭は母勝りの力を事あるごとに示した。
伊勢の神官は、元々は伊勢に社を据えたいつきひめの従者だ。そのいつきひめの名にちなみ皇女に「倭」の名を奉ったのは、当然の成り行きだったろう。だから倭を命乞いのために差し出した古人を、決して許すことはなかった。
籠目は時々考える事がある。
古人が倭を差し出すような事をしなければ、一族が古人を守ろうとしたのではないかと。
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