記憶の世界へ −6−

 せまり来るスパーグレのきばを、ディーノはとっさにみきの太い木の後ろにかくれることでやりごした。

 その長大な牙はケーキにすフォークのように、木のみきの左右からけ、そのまま大顎おおあごの力でくだかれる

 体への致命傷ちめいしょうはまぬがれたものの、自分がどのようにして死ぬのかを、明確めいかくなイメージとしてまれてしまう。

 頭をブルブルとふって口についた木屑きくずはらったスパーグレは、のっそりとした足取りでディーノににじり寄ってくる。

 スパーグレにとって、ディーノは他のどんな魔獣まじゅうよりもたやすくれる獲物えものにしかうつっていないだろう。

 体のふるえが止まらない。

 それは、ディーノがこれまで感じて来た恐怖とはまるで種類が違う。

 人間は感情とともに理性を持っており、あくまで人間の中で定められたルールの範囲でしか行動して来ない。

 両親を殺した連中にしても、それは快楽かいらくや安心を得たいという理由が形を変えた暴走に過ぎず、おぞましさこそあれど、生物として個としての強さで言えば魔獣どころか普通のけもの以下だ。

 目の前にいるスパーグレは全くの逆と言っていい。

 あるものは食うか食われるか、野生の本能による、人間とは全く逆のルールの名は弱肉強食じゃくにくきょうしょく

 ガクガクと歯を鳴らし、気づかぬうちに目から涙が落ちて、後ずさりしたかかとが木の根に引っかかり、尻もちをついた。

 だが、それが動くことを忘れた体に信号を送るきっかけとなる。

『うわああああああああっ!!』

 ディーノは体を起こし、一目散に逃げた。

 逃げるルートなど頭に入っているはずもなく、ただひたすら木々の間をすり抜けるように走る。

 追ってくるスパーグレはか細い木なら平然へいぜんと叩き折りながら、最短距離さいたんきょりを走ってくる。

 パニックを起こした状態じょうたいでの逃走とうそうは長続きせず、ここは周囲が切り立ったがけに囲まれているため逃げ道はない。

 ついに、ディーノは崖を背に追い詰められてしまった。

 スパーグレが飛びかかってディーノの体を前足で弾き飛ばす。

 子供の体格では受けることもよけることも困難こんなんな一撃で、いとも簡単に吹っ飛ばされたディーノは背中から木の幹に激突げきとつし、衝撃しょうげきはいにたまった空気が血と一緒いっしょき出される。

 スパーグレが一気におそいかかって来ないのは、それをする必要がないからだ。

 もてあそぶように転がして、弱らせてからゆっくりと食えばいい。

 バスタードソードをにぎる力が入らなくなっていくのを感じる。

 ここで終わってしまうのか?

 視界はもやがかかったようにゆがみ、死が間近まぢかせまってくるのをはだで感じていた。

 あきらめかけたその時、かわいた金属が落ちる小さな音が足元から聞こえて来た。

 音を立てたのは、金色の指輪。

 首から下げていたチェーンが衝撃で切れてしまったらしい。

 ディーノの頭から、絶体絶命の状況も、スパーグレの存在も次第に消えて行き、たった一つの大切な記憶がよみがえっていく。

『アーちゃん……』

 あれ以来、思い返すことは目に見えてって行きながらも、どんなに金銭に困っていても、この指輪だけは剣と同じように手放すことはできなかった。

 思い出の中に残っていたひとかけらの光が、死の恐怖に支配されたディーノの心を照らしていく。

 ディーノは指輪をひろい上げてズボンのポケットにつっこみ、バスタードソードを再び構えた。

『俺は……まだ死ねない!』

 希望すら失ったと思って、当てもなく逃げてしまった先にいたのはこの化け物だった。

 たとえ確率が低くても、どこまで逃げようとも、その先に道はない。

 なら、とるべき道はたった一つだった。

 スパーグレがまだ油断しているこの一瞬、一撃に全てをかける。

 今までやって来た稲妻を集めた剣に、それ以上自分ができる限界までため込むようにイメージする。

 ふと、その頭の中に浮かんだのは、白と紫の鎧に包まれたような一匹の竜だった。

 古来より、災いと力の象徴しょうちょうとされ、あがめられ恐れられた存在。

 そして振るうのは肩身の剣、そこからつながるのは、父エンツォの姿。

 稲妻と竜と騎士、三つのイメージが今ディーノの中で一つとなる。

 ディーノは大きく剣を振りかぶって、スパーグレに向かって踏み込んだ。

 そして、スパーグレもそれにただならぬものを感じたのか、それまでの油断が消えて大顎を開いて突進してくる。

 しくじればその牙の餌食えじきとなって、ただの肉としてやつの腹におさまる確率かくりつの方が高いだろう。

 だが、そのイメージをディーノは強引にかき消し、スパーグレを斬り倒すことだけを考える。

 バスタードソードに稲妻がまとわれると同時に、ディーノの腕が同じ紫色の硬質こうしつな輝きを放つ肌に変化していく。

 そしてそれは、一瞬で全身を白銀の鎧へと変えた。

 決死の一撃がスパーグレの牙を砕き、その口からすり抜けるようにその体を真っ二つに斬り裂いていた……。

『ほう、ここまでやるとはな』

 頭の中でまたあの声が響く、そして剣を握った自分の手を見て、ディーノは何が何だかわからなくなる。

 バスタードソードの刀身に映り込んだ自分の姿は、さらにその理解を追いつかなくさせそうなものだった……。

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