記憶の世界へ −2−

『どこからきたの?』

『……アヴェンタってひとのおやしき』

 子どもの頃のアウローラはそう聞かれて少し考え込んで、恐る恐るそう答えた。

『りょうしゅさまのとこか。わかった、こっち』

 ディーノはその手を取って自分の庭のようにスイスイと進んでいく。

『まって、わたしこっそりぬけだしてきたの』

 正面玄関から堂々と戻ったら、こってりとしぼられてしまうのが嫌で、裏口近くにあった植え込みの隙間すきままで連れて行ってもらったのは、現在のアウローラも覚えている。

『きょうはありがとう。ねぇ、またあそべる?』

『うん、やくそくする。なまえは?』

 一見すれば微笑ほほえましいやりとりなのだが、それを見ている今現在のアウローラはというと……。

「何やってますの? アウローラさん?」

「いえ、自分がおかしたあやまちに落ち込んでるんです……」

 しゃがみこんで大きなため息をついていた。

『えっと、アーちゃんってよんで!』

『じゃあ、ぼくはディーくんかな?』

 そして、この街を離れる日が来るまで、毎日一緒に遊んでいたわけだが、一度としてアウローラは本当の名前を教えることができなかった。

 あの時ほんの少しだけでも勇気を出していれば、ああもややこしいことにならずにすんだのに、とたまに思い出したように自己嫌悪じこけんおおちいってしまう。

『最近は楽しそうだな。何か良いことがあったのか?』

『新しいお友達ができたのよねー♪ アーちゃんだっけ?』

 アウローラは昼間に領主の屋敷から抜け出し、ディーノは午前中に父と母からの教育を終わらせて、最初に出会った噴水で待ち合わせて、日が暮れるまで一緒だった。

 暗くなって来たら、領主の屋敷が見えてくるあたりまでディーノがアウローラを送り届ける。

 このつつまましやかな幸せのページをアウローラとイザベラだけがめくっていることに少し罪悪感を覚えながらも、ディーノの心をむしばむ根源を探らねばならないと思い直す。

 そして、アウローラが街を離れる前日のことだ。

『いってぇなぁ』

 帰り道で二人は、曲がり角から出て来たタチの悪い酔っ払いにぶつかってしまった。

『おーいてててて、このガキィ……。こりゃ足の骨が折れちまったぜ。どうしてくれるんだぁ?』

 昼間から酒に溺れていたようで、ろれつが回ってなく、まともの判断力もあるか怪しかった。

 アウローラはぶつかった時、首から下げていた大切な物を落としてしまっていた。

『ほーう、ガキのくせにいいもん持ってんじゃねぇか。治療費にもらっとくぜ』

 それは、鎖を通して首から下げていた黄金の指輪だった。

 どうしてもいいかわからず、この時のアウローラは声も出せなかった。

『それは、アーちゃんのだいじなものだ! アーちゃんに返せっ!』

 そばにいたディーノが威勢いせい良く啖呵たんかを切っていたが、その手は震えていた。

 昔の記憶ではとても頼もしく映っていたが、客観的に傍観ぼうかんしているからこそ、本当はディーノだって怖かったんだと今のアウローラは知る。

『てめぇ、悪魔のガキじゃねぇか……。こっちは大人の責任を教えてやってんだよっ!』

 酔っ払いは、手に持っていた中身がまだ入っている酒瓶さけびんで、躊躇ちゅうちょなくディーノの頭を殴った。

『おらおらおらぁっ! 思い知れ悪魔のガキがぁ!』

 頭から血を流し、地面を転がるディーノの体を容赦なく踏みつけて蹴りを入れてくる。

 だが、ディーノは抵抗をやめずに今までと明らかに違う、ギラついた目つきで酔っ払いをにらんだ。

『あ、あんだぁ、その目は? ガキは大人しくしてりゃぁいんだよぉっ!』

 一瞬だけ気圧された酔っ払いは、ポケットから折りたたみのナイフを取り出した。

『やめて! やめてください! あげますから! ディーくんにひどいことしないで!』

『そうだよ。それでいいんだ……っ!』

 昔のアウローラの態度に酔っ払いは気を良くしたように見えたが、その後ろに視線は注目していた。

 紫色の光を発しながら、ディーノはむくりと起き上がって、酔っ払いを睨みつけている。

 ゆっくりと歩み寄るディーノから、バチバチと小さな稲光いなびかりがほとばしる。

泥棒どろぼうが……。お前なんか、お前なんか……ぶっ潰してやるーーーーっ!!』

『ぐっ、ざけんなこの悪魔がぁっ!』

 稲光は右拳みぎこぶしの一点に集束しゅうそくしていき、大きく振りかぶったと同時に、酔っ払いがナイフを振り下ろす。

 ディーノの一撃が酔っ払いの顔面に叩き込まれると同時に、酔っ払いのナイフがディーノの左頬を切り裂いた。

『うぎゃああああっ!!』

 同時に紫にかがや稲妻いなずまが酔っ払いの体を貫いていた。

 今のアウローラとイザベラは、これが魔降術の力によるものだと知っている。

 だが、現在のディーノのように洗練せんれんされておらず、これが初めて発露はつろした瞬間だったのかもしれないと推測する。

『ひっ……ひぃぃっ! こ、こんなおもちゃいらねぇよっ!』

 酔っ払いは指輪を投げ捨てて、おびえきった顔で一目散いちもくさんに逃げて行った。

 ディーノは落ちた指輪を拾い上げてアウローラに渡そうとしたが、両足から力が抜けてへたり込んでしまった。

『ディーくん、しっかりして!』

『だいじょうぶ。ちょっとつかれただけ』

 建物の壁を背にして座り込んだディーノがあまりに痛々しくて、昔のアウローラの目からは涙が溢れ出ていた。

『おまもりのことなんかいい! ディーくんがいなくなっちゃいや!』

『なかないで、アーちゃん』

『だって……だって……』

 あの時は本当にこの世の終わりにすら思えるほどの悲しみと、それを回避できた喜びがごちゃ混ぜになったことを今のアウローラは覚えている。

『ねぇディーくん。これ、ディーくんにあげる』

 やがて泣き止んだアウローラは、その指輪をディーノに渡した。

『でもこれ、たいせつなものなんだろ?』

『うん。だからね、もっててほしいの。おかあさまがいちばんだいすきなひとにあげるものだって言ってたから』

 その言葉にお互い顔が真っ赤になって、ディーノは指輪を受け取った。

『わたし、あしたかえらなきゃいけないの。だから、いつかあえたとき、それ持ってたらディーくんだってわかるから!』

『わかった、やくそくする。ぜったいまた、アーちゃんにあいにいく!』

 そして、いつか再会することを望んで、ディーノとアウローラは互いに家路いえじについた。

 ここまでが、現在のアウローラが知っていることだった。

 だから自分の知らないディーノの物語を追っていかなければならない。

 イザベラと目配せをしつつ、帰り道のディーノを追いかけた。

 その夜、家へと帰ったディーノは上機嫌で、その怪我で両親に驚かれたものの手当てをしてもらって三人と食卓を囲っていた。

『そうか、それじゃあ、ディーノはもっと大きなやつにならないとな』

『それと……からだから、かみなりがでてきたんだ』

 ディーノの言葉に目の色を変えたのは母ルーナであった。

『いい? それは他の誰にも話しちゃダメよ。その力はあなたを守ってくれるけど、決して人を傷つけるために使っちゃいけないわ』

「ディーノのお母様は、知っているのかしら?」

 イザベラは素朴そぼく疑問ぎもんをぶつける。 

 確かに、いつディーノが宝石を埋め込んだのかまでは本人からも聞いたことがない。

 アンジェラは、魔降術士まこうじゅつしの修行期間から考えて遅くても五歳の頃には契約けいやくしていると推測していたから、それを知るためにはさらにさかのぼる必要があるということだ。

『さぁ、今日はもう寝ましょう』

 指輪を服のポケットに入れたまま、ディーノはベッドに寝かしつけられ、両親も家のあかりを消して寝静まる。

 それから少しして、暗闇に包まれたはずの家が赤々あかあかと光りだした。

『ディーノ! 起きてディーノ!』

 ルーナの声に叩き起こされるディーノが見たものは、今まで寝ていた部屋が燃え盛る炎に包まれた光景だった。

『一体どこから火の手が』

 エンツォの問いに答えるものは無情にも誰もいなかった。

 部屋の入り口を塞いでいる崩れた柱をエンツォがバスタードソードで叩き切って道を作る。

 しかし、入り口の方は火の手がすでに上がっており、ここから脱出はできそうになかった。

 ベッドのそばにあった靴をはかされて、ディーノは両親に連れられた家の奥へと逃げる。

 風呂場の方も逃げ道はなく、比較的ひかくてき無事に済んでいた便所には、子ども一人ぐらいならかろうじて通れるだろう窓が一つだけあった。

『ディーノ……あなただけならここから出られるわ。大丈夫、あなたの中にはあなたを守ってくれるものがいる』

 ルーナはディーノを抱きしめて、熱と煙にさらされながらも優しくさとす。

『いやだよ! ぼくひとりでなんていやだ!』

 エンツォが持っていたバスタードソードで窓を強引にこじ開けると、ディーノに背負わせ鞘のベルトで固定する。

『ディーノ……私たちは、いつでもお前のそばにいる。これを持っていけ』

 そして、ディーノの体はエンツォに抱えられ、そのまま便所の窓から家の外に出された。

 着地もままならずに体を地面に打ち付け、うずくまりながらディーノは見た。

 両親とともに暮らしていた家がもう見る影もなく炎に包まれている姿と、入り口の前で松明たいまつをかかげながら下卑げびた笑い声をあげている十数人の大人の姿を。

『いつかきっとわかってくれる』

 父エンツォはそんなことを言っていた。

 なのに今、子供の自分が思い当たる限り、なんの罪も犯しているはずのない両親を、街の大人たちは眠っている隙に炎で焼き殺した……。

 悪魔はどっちだ?

 ディーノはゆっくりと立ち上がり、鞘のベルトを外してそのままバスタードソードを抜く。

「そんな……エンツォ様たちが、ディーノがこんな仕打ちを味わわされたなんて! こんな残酷なことがあっていいんですの!!」

 イザベラは信じたくないと言わんばかりに叫んでいた。

 炎に包まれる中でアウローラが見たディーノの顔に、気の弱い優しげな少年の面影などかけらも残ってはいなかった。

「ディーノさん……だめぇっ!!」

 アウローラが干渉できないことなど忘れて、り止めようとのばした手はディーノの体をすり抜けて、バスタードソードをかまえて街の住人に襲いかかるのを、ただ見ているしかできなかった……。

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