空騒ぎな日常
ディーノの心配をよそに、学園での授業は平常通り行われている。
この時期になると、その内容は一年を通して学んだことの復習が主であり、そうでない場合は普段の授業では触れることのない雑学を披露したり、実習を含む教科ではお遊びの要素が強いものなど、担当の教師によってその傾向は異なるが、肩肘を張るものは少なかった。
「ヴィーネジアの街は、年の瀬にカーニバルが行われているのはよく知られているけど、楽しいことばかりじゃない。全体を運河が行き渡っている特徴と海が近いこともあって、潮の満ち引きで街の一部が沈んでしまうんだ」
今は地理の授業、隣の二年一組の担任であるユリウスが王都の北西、半島の根元に位置する水の街に関して楽しげに説明しているのを、ディーノは頬杖をついて聞いていた。
もともと、ユリウスの授業は脱線しがちな傾向にあるが、一年の単元が全て終了して縛りがないためか、いつも以上にどうでもいい話題が多い。
天候や地形に関する話ならまだ聞く気も起きるのだが、祭事や名物料理のことまで事細かに話されたところで、じゃあそこへ行く機会がこの先あるのかもわからないのだから、聞いていても興味を惹かれなかった。
ただ、カーニバルでは猫のお面やぬいぐるみが売られているなどといったくだりは、遠くの席でイザベラが目をキラキラさせながら静聴していたし、隣ではアウローラもそれなりに楽しそうだった。
気さくで物腰も柔らかく、生徒にも友人のように接してくれるとあってか、女子生徒からは特に慕われているらしい。
(アウローラもああ言うのがいいのか?)
ふと、そんなことが頭に浮かんだ。
ディーノは他人に対して愛想がいいとはお世辞にも言えない。
実際、学園に来たばかりの頃は、自分から誰かと親しくしようなどと考えもしなかったし、カルロやシエルが恐れ知らずに踏み込んでこなければ、アウローラのことも記憶の奥底に封じ込めたままで過ごしていたかもしれなかった。
なら仮に自分がユリウスのように、誰にでも笑顔を絶やさず接する姿を想像してみるが……。
『やあ! みんなおはよう。今日も一日頑張っていこう!』
(ねーな……)
自分でも気味が悪いとしか思えないし、クラスの面々もそんな自分を見たら、おぞましい化け物でも見るような視線が返ってくることは容易に想像がつく。
そんなことを考えているうちに、地理の授業が終わってクラスの面々が続々と教室を出て行く。
「次は調理室ですよ。ディーノさん」
考え事をしていたのに気づかれたのか、アウローラが声をかけてくる。
次の家庭科の授業は調理実習だったことを思い出し、ディーノも他の面々に習って準備を急いだ。
* * *
調理室ではクラスの面々が楽しそうに調理に興じているが、特に女子の方が声は大きい。
課題の料理はまちまちだが、今回は最後という事もあってか、前回の授業で甘味の中から生徒の希望を募り最終的にアップルパイと言うことになった。
「はい、いっちょあがりー♪」
結局いつもの四人組で調理用の机を囲み、ディーノの目の前ではシエルが手慣れた手つきでリンゴを均等に切り分けているが、アウローラの方は対照的に危なっかしい手つきで皮をむくのにも難儀している様子だ。
いつぞやのことを思い出すが、人は突然に進化しないことがよくわかる。
ディーノは黙々とパイ生地をこね、教科書に記載されていたレシピ通りに淡々と作業を進めていく。
料理の腕はともかく、刃物の扱い自体は慣れているためリンゴを切るのも問題はない。
「意外と普通にこなすね」
隣で作業を進めていたカルロが話しかけてくる。
「別に、できて損はねぇだろ。そっちこそ」
「何もかも女の子に任せっきりな男ってのもカッコ悪いからね♪」
衣食住を満たすための学習という意味で、好き嫌いは置いておくとして家庭科の授業はディーノにとって有意義と言えた。
師匠の元でも時折食事を作らされてはいたが、ヴィオレ自身は味や見た目に無関心だったのか、基本だけ教えて後は任せきりという事も多かった。
食用かも怪しい野草や食べ慣れない動物の肉を使う羽目になったりした事も一度や二度ではなく、そういう意味ではまともな食材が用意され、手本がきちんとあるのは遥かに楽でありがたい。
つつがなく進行していき、授業が終わるまでにはほぼ全員が調理を終えて、完成品を試食するだけだった。
「そうだ、それぞれ食べて見ませんか?」
アウローラがパイを四等分にしながら提案する。
あくまでも授業の一環であり、それぞれの出来栄えを評価し合うといった趣旨の上での発言だとアウローラは主張したいのだろう。
しかし、その隣でシエルがニヤニヤしながら生暖かい視線を送っているのが見て取れた。
「あたしも、ディーノとバカルロがどんな味か興味あるし♪」
アウローラの魂胆を察したシエルが便乗し、カルロがすっかり乗り気でパイにナイフを入れ始める。
別段断る理由も特にないだろうと思い、ディーノは従うことにした。
さらに一切れずつ載せ替えた四切れのパイが並んで試食しようとした時だった。
「あ、あのよろしいかしら?」
自分のを食べるだけだと思っていたディーノの後ろから唐突に声をかけられる。
振り向いた先にいたのは、一切れのパイを乗せた皿を持ったイザベラだった。
「ちょ、ちょっと分量を間違えてしまいましたの。捨てるのが勿体無いので、食べていただけませんこと?」
微妙に赤くなった顔と目を逸らしながら、ディーノに向けて皿を差し出してくる。
イザベラのその行動に対して、クラスメイトたちがざわつき出していた。
「一体何が起きたってんだよ?」
「そう言えば、この間から変だったような……」
「まさかの三角関係? でもアウローラさんと婚約してるんじゃ」
各々の感想を漏らしながら周囲の目は試食をそっちのけでディーノたちに釘付けになっている。
「ああ、わかった」
ディーノは何の気もなしに皿を受け取ったのが、さらにリアクションを加速させていた。
そして、改めて試食に入ろうとしたのだが、イザベラはその場所から動かずに神妙な面持ちでディーノを凝視している。
「……皿は後で返す。自分のところに戻ってていいぞ」
ディーノが返した言葉に対して、野次馬となっていたクラスメイトたちが盛大にこけた。
「そういう意味じゃねーから!」
「ねぇ、あれわざと言ってるんじゃないよね?」
「あれは素、多分」
なぜか本人ではないところから飛んでくる批判の声だったが、ディーノはさっぱりわからないと言った様子でげんなりとした表情を浮かべる。
そして、改めて皿に視線を送ると、もともと四切れ乗っていた自分の皿に一切れしか残っていなかった。
よく見たらシエルとカルロの皿に乗っているパイが増えている。
「い、いやぁ……ちょっとバカルロのが予想外に美味しくてさ」
「シエルちゃんのがもう一切れ食べたくなっちゃって」
なぜか自分の作ったパイまでなくなっており、シエルの皿に乗っていた。
「ガキかお前らは」
食欲からくるつまみ食いと言葉の意味をその通りに解釈したディーノに、カルロとシエルは何かを哀れむように同時にため息をついた。
「ほらほら、細かいことはいいじゃん、食べて食べて」
必然的に残されたのはアウローラの作ったパイとイザベラの作ったパイが一切れずつ。
しかも、アウローラもイザベラと期待と不安が入り混じった全く同じ表情でディーノのことを凝視している。
『ほほう、そう言うことか』
心の中に住まう幻獣は、全てを察したようだった。
授業も終わりに近づいており、作ったものを室外に持ち帰るのは原則禁止となっている。
進行を滞らせるわけにはいかないと思い直して、ディーノはまずアウローラのパイから口にした。
「っ!!」
パイ独特のサクッとした生地の歯触りに、熱で柔らかくなったリンゴの食感が伝わってくる。
そして、荒ぶる海のような塩辛さが鮮烈に舌を刺激し、口の中に猛烈な嵐を呼び起こす。
さらに咀嚼を進めていくと、パイ生地ではないパリッとした別の食感を歯で感じる、これはおそらく卵の殻だ。
食を進めるたびに感じるのは、あとどれだけ口に入れれば食べきることができるのかという、まるで断崖絶壁を登る過酷な修行だった。
それでも、耐え忍ぶように咀嚼を続け、やがてアウローラのパイは全て腹に入った。
「ど、どうでしたか?」
アウローラが聞いてくるが、どう答えるのが正解なのか、世界の運命を左右する究極の二択を強いられている気分にもなってくる。
「ま、まぁ食えなくはねぇよ」
明確な味を告げることはせず、いつものようにぶっきらぼうな態度で本当のことは濁しておいた。
さらに控えていたイザベラのパイを口に運ぶ。
しかし、ディーノはこの時想像しておくべきだった。
アウローラと同じ貴族、普段から料理に触れることはないであろう環境で育った彼女がどれほどの腕の持ち主なのかを。
同じだった。
どこまでも塩辛いアップルパイだ。それだけではない、黒胡椒らしき香ばしさが同時にやってくる。
「ふふっ、バニラビーンズを加えてみましたの♪」
得意げに語っているイザベラだが、アウローラもおそらく調味料のビンを間違えている。
でなければ、ここまで辛いアップルパイなどあり得ないのだ。
水が欲しい……。
三日間ほど砂漠を歩き続けて、持ち水を失ってしまった旅人はこのような心境に陥るのではないかと、ふと頭の中でそんなイメージが頭をよぎる中、次第に視界が真っ白になっていく。
ガターンと大きな音を立てて、目を開けたままディーノが気を失ったのはその数秒後のことだった。
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