魔猫のプライド
『ヤッパリ……アナタモ……ウグッ……アアアアアッ!!』
ディーノの存在を認識したディロワール、否、イザベラは狂気じみた咆吼を響かせて一直線に突進してくる。
長く伸びた両腕の爪を大きく振りかぶるのに対し、ディーノはその場から全く動かない。
振り下ろされた両の手の爪は、魔衣をたやすく引き裂くだけでなく深々と胸板の肉をえぐり、体を濡らす雨粒が鮮血の赤に染まる。
「ディーノさん!!」
避けるあるいは受けるそぶりさえも見せずに、攻撃を受けた光景にアウローラは心を裂かれんばかりの悲鳴をあげていた。
アルマを掲げて傷を治すべく、治癒の魔術を使おうとするのを察したのか、ディーノは言葉を発さずに右手で制止の合図を送る。
『アナタモ……ワタクシヲ見テハクレナイ!!』
イザベラの体は、アウローラとディーノの返り血を浴びて赤く染まりながらも、その叫びが止むことは決してない。
ふと、ディーノの頭に一つの答えが浮かび上がる。
この空間の風景は、イザベラ自身の感情ではないのか?
明けることのない暗闇、道もわからず出口の見えない深い森、そして降り止むことのないこの雨は、イザベラの心を濡らし続ける涙雨……。
『消エテシマエバイイ! 何モカモ、消エテシマエバイイ!!』
かすれたような声を張り上げながら、イザベラが再び爪を振りかぶる。
なおもディーノは動くことはなく、ただ正面のイザベラだけを見据えていた。
同じ光景がくりかえされるとアウローラが思わされたその時、何かに縛られたかのようにイザベラの動きが止まった。
気がつけばディーノの足元にちょこんと座っていた、白と茶色の丸っこいなにかの影。
普通に考えればこの場にはいるはずのない、そして戦いになんら影響を与えるとも思えない、一匹の猫。
だが、今目の前にいる相手がイザベラならば、これ以上ない切り札となりえる。
「まだ……意識が残ってるみてぇだな」
ディーノは今の反応を見て確信する。
もし、身も心も怪物と成り果てているのなら、このブチ猫さえも切り刻みあるいはその血肉を食い尽くしてしまったことだろう。
「お前は……そうじゃねぇだろ」
ディーノは傷ついた体のまま言葉を絞り出す。
今まで見てきたディロワールとなった生徒は、心の隅々まで悪意で塗りつぶされた醜悪な怪物だったが、イザベラはまだ人間の意識が残っている。
「お前の欲しい”一番”は、こんなもんじゃねぇだろ!!」
さほどよく知りはしない、顔と名前が一致し始めたのもつい最近のことだ。
それでも、ディーノが知る限りのイザベラは、卑劣な真似をしてまで得た結果などに価値を見出せるような人間ではない。
『ワタクシハ……、ワタクシハ……』
イザベラは自分の両手を震えながら見る。
それは、今になってようやく、自分が人間ではなくなってしまったことを認識したような、そしてそれに怯え始めたような。
少なくとも、演技ではありえないとディーノたちが感じ取るには十分だった。
「闘技祭の時も、この間のテストの時も、お前は自分の力で勝つ気だったろ! 化け物になってアウローラを殺しても、お前は絶対喜んだりできるやつじゃねぇ……」
ディーノがそう言い切ると、まるで彼女だけの時間が止まってしまったかのように、雨音だけがディーノの耳へと届く。
そばにいたアウローラは、ことの成り行きを見守ることしかできない。
彼女が仮にディーノと同じことを言ったとしても、それがどんな正論であろうとも、自分に負けたと思っている相手にとっては嫌味でしかないからだ。
『何を迷っているの? ここで諦めたら、あなたは永遠に一番を手にできないのに』
どこからともなく聞こえる別の声。
女性とも男性ともつかないその声が向けられているのは、イザベラ自身に他ならない。
声の主は間違いなく、イザベラに埋め込まれた黒い宝石、取り憑いたディロワールだ。
『私はあなたを裏切らない。私と一緒に、一番の景色を見下ろしましょう?』
何も知らずに聞いてしまえば、思わず聞き入れてしまうそうな甘美さを孕む声が、イザベラをこの闇よりも暗く深い深淵へと引きずり込もうと誘い込む。
ディーノはバスタードソードを静かに構え、振り下ろそうとした瞬間のことだった。
「違う……わたくしは……アアアアアッッ!!」
イザベラは自らの胸に爪を突き立てて引き裂く。
人間のものではないどす黒い血が舞い散り、雨さえも闇色に塗りつぶしていく。
「わたくしは……わたくしの力でアウローラさんに勝つのですわ!」
イザベラの攻撃は止まらない、ただひたすら掻き毟るように胸を裂き続け、毛皮の下から人間の体が露出していく。
「わたくしの体から……出て行きなさいっ!!」
『くっ! なぜ正気を! もう少しで、この体が手に入ったのにぃぃぃっ!!』
強い意思を込めた叫びとともに、イザベラの体から黒い宝石が一つ弾かれたように飛び出し、元の人間の姿を取り戻していく。
「立てるか?」
目まぐるしく動く事態に力が抜けたのか、その場にへたり込んでいたイザベラにディーノは気遣いの声をかける。
これで全てが終わったかのように思えた。
あとは、シュレントの力を借りてこの空間から三人で脱出すればいいと、ディーノが安堵した瞬間だった。
『よくも……よくも邪魔してくれたねぇっ!! まぁいい、その女の”嫉妬”と”劣等感”は充分に食わせてもらったよ!!』
黒い宝石が怒号とともに漆黒のマナを発し始め、先ほどまでイザベラが変化していたディロワールが再び顕現していた。
『この”オセ”に対する辱しめ、貴様らの命で償ってもらうよ!!』
オセは体をバネのようにしならせて飛び上がり、剣のように手の甲から伸びた四本の爪をイザベラへ向かって振り下ろす。
「させるかっ!!」
ディーノがバスタードソードを手に割って入る。
今まで体を奪い取っておきながらも、利用価値がなくなれば即座に排除しにかかる時点で、話の通じる相手でない事は察しがついた。
ディーノは攻撃を受け止めた腕に力を込め、そのままオセの体を押し返し腹に蹴りを入れて突き放した。
「アウローラ、イザベラを頼む!」
後ろを振り向く事なく、ディーノはオセに向かって一直線に突進し、追撃を仕掛ける。
右斜め上からバスタードソードの刃がオセの体を真っ二つにせんと襲いかかる。
だが、オセの体は猫が持つその柔軟性によって、さらに低く体をかがめて攻撃をやり過ごすと下から上へ天を貫くように爪を振り上げた。
かわそうとするディーノの体は大きくのけぞらされ、そこに隙が生じる。
その勢いを利用して高く跳び上がったオセは、体をぐるりと一回転させて後ろ足をディーノの顔面に向けて蹴り下ろす。
体制の崩れたところへの連続攻撃で、ディーノの体は仰向けに地面へと倒れこみ、オセは間髪入れずに爪で喉笛を貫きにかかった。
ディーノは横に転がって一撃をやり過ごすと、その爪が地面に突き刺さったのか、オセの動きが止まった。
ディーノはこの隙に立ち上がると、爪を引き抜いているオセの背中へ向けて上段からまっすぐにバスタードソードを振り下ろすが、その動きは読まれていたのか、カウンターで腹に蹴りを入れられて再び両者の距離が開く。
『お得意のカミナリはどうしたんだい? 随分と苦しそうじゃないか』
オセが皮肉交じりに爪をブラブラと振りながら、ゆっくりと歩み寄ってくる。
こちらの手の内を知っているのは、イザベラの記憶を共有したからなのだろうか?
「こっちにも事情があんだよ」
ニヤリと歯を見せて笑いながらも、肩で息をするディーノは剣を構える手に力を感じず、口を開くのも億劫な様子が、はたから見ていても伝わってくる。
「ディーノさん! わたしたちのことは大丈夫です! 使ってください!!」
槍を構えてイザベラを守るアウローラが呼びかける。
アウローラは、あの姿をイザベラの前で晒すことを躊躇っているとこの状況を受け取ったのだろう。
それもあるが、ディーノには抱えているもう一つの問題があった。
ディロワールの作り出した空間での活動だけでなく、ヴォルゴーレとの一体化は体力とマナを著しく消耗する。
一分間の切り札はディーノ自身にも多大な負荷を要求してしまうものなのだ。
マナが尽きかけているこの状況で、普段の稲妻も何回使えるかもわからない、先ほどの戦いの消耗は思いのほか大きかった。
ならば、どうする?
アウローラとイザベラに目線を向けながら、ディーノは考えを巡らせる。
この空間が魔符術に及ぼす影響は自分の比ではない、先ほどまで戦っていたアウローラに、目の前の敵に取り憑かれていたイザベラ、この二人に加勢を期待するのはあまりにも酷だ。
それに記憶が付随するように、一つの光景が頭をよぎる。
アウローラたちと共にマクシミリアンを倒した時に出した”あの力”だ。
しかし、ディーノはその想像、いや夢想を即座に振り払った。
自分の意思で能動的に発動させることのできない不確定要素はあてにできない。
今自分が信頼できる武器を再び頭の中で洗い出せば、最終的な選択肢は一つだけだった。
目を閉じ、意識を集中する。
『よせ! 今の状態では危険すぎる』
「このままでも死ぬだけだ!」
紫の稲妻がディーノへと向かって落ち、閃光と轟音と共にもう一つの姿が現れた。
鎧のような白い体に紫の手足、そのシルエットは人間とドラゴンを掛け合わせたような異形。
奴らディロワールとそう大差ないだろう見てくれの怪物がバスタードソードを構えた。
『それだよ。始めようか、邪魔者?』
オセは嬉々としてディーノへと飛びかかる。
スピードに乗った一撃をバスタードソードで捌くが、万全の状態でないディーノはそれだけでよろめいた。
一体化が成功したのは辛うじてのものだ。
おそらく、二度目は本来の制限時間よりもさらに短く、スピードで勝る相手を仕留めるための勝算極めて薄い。
オセの爪は文字通り目にも止まらない速さでディーノの鎧を引き裂く。
一撃は軽いが何度も連続して食らえば徐々に鎧には亀裂が走り、守られていた肉を引き裂き、白い体は流血で真紅に染まっていく。
『ほらほらほらほらぁっ!!』
返り血を浴びて赤黒く染まるオセは歓喜の声をあげながら、さらに激しい攻撃を繰り返す。
「ごふっ! げほっ!!」
鎧の限界は思ったよりも早かったのか、ディーノは激しく咳き込んで口に溜めていた血を一気に吐き出す。
そして、その体はふらりと力を失い、大の字になって背中から倒れ込んだ。
『アッハハハハ!! もう限界かい? 無様だねぇ!!』
「らしいなぁ。一思いに頭でもぶっ刺してくれよ」
ディーノは諦めたように呟くと、握り込んでいた剣までも手放してしまう。
「もっと刺しやすい体制の方がいいか?」
普段なら考えられないようなセリフだったのか、視線を動かせばアウローラの顔は今にも泣きそうなほどに歪んでいる。
隣で動けないイザベラも、苦虫を噛み潰した表情をこちらに向けてきた。
二人とも決してディーノを責めているわけではない、ただただ自分たちの無力を心の中で嘆いているのだろう。
『十分だよ! じゃあ心置きなく死になぁっ!!』
オセの体は両方の爪を伸ばした状態で大きく跳躍し、空間の中にある木々よりもさらに高く、天へと向けた足で空中を蹴って突進してくる。
さらに、それだけでは終わらず、体を高速で横回転させながら、放たれた矢の如くオセの体はディーノを射殺さんと迫る。
『ディーノさん! 逃げてぇっ!!』『構わずにお逃げなさい!!』
同時に発されたアウローラとイザベラの悲鳴にも似た叫びが響き渡る。
絶望という名の戯曲がクライマックスを迎えると確信したオセは高笑いをあげながらディーノを貫かんとした瞬間だった。
(かかった!!)
考え付いたのは先ほどの一合で倒された時だ。
仰向けに寝転がってしまえは、モグラのように地中や、あるいは空間そのものを捻じ曲げるような力でも持ってなければ、敵は必然的に上からしか攻撃できなくなる。
ディーノはバスタードソードを再び握り、その場から大きく飛び退いた。
『しまった! こっちは、止まれないぃぃぃっ!!』
高所から高速で突進していたオセは、軌道の修正などかなわず爆音と砂煙をあげながら地面に突き刺さっていた。
長く伸びた爪が深々と突き刺さり、自身の最大の武器は今、自慢のスピードを殺す格好の”くさび”となって動きを封じていた。
「しっかりと見せてやるよ。お得意の雷をなぁっ!!」
残り少ないマナを振り絞り、ディーノは自らの剣に稲妻を呼ぶ。
『い、いやぁぁぁぁぁっっ!!』
バスタードソードの刃は吸い込まれるようにオセの体を真っ二つにし、胸の宝石を粉々に砕く。
神の怒り、未開の時代にはそう呼ばれたかもしれないと思わせる一撃。
ディーノは自身を神などと思わないだろうが、振り下ろされた稲妻の剣が、一人の少女をたぶらかし、多くの人間を傷つけようとした悪魔に裁きを与えた瞬間だった……。
ディロワールの死と戦いの幕引きを告げるかのように、ディーノの体を覆う鎧がマナの粒子となって消失し、姿は元の人間に戻っていく。
それを皮切りに、滝のように振り続けていたはずの雨が次第に勢いを弱めて、空を覆う雲が避けていき、彼らを祝福するかのように金色の光と果てのない蒼天、そして緑豊かな森林へと空間が姿を変えていた。
「これは……?」
ディーノは、周囲を見回しながら驚愕と戸惑いの混じった声をため息のようにもらす。
やがて、その風景さえも蜃気楼のように消え去って行き、三人は元いた学園の旧校舎近くに戻って来ていた。
「二人とも、無事か?」
ディーノはアウローラとイザベラに向けて淡々とした口調で問い詰める。
「わたしたちは大丈夫ですけど……あんなの無茶です! もっと自分を大切にしてください」
物言いこそ強く咎めているアウローラの目は、心配で見ていられなかったと言葉には出さずに主張しているようだった。
「お前らが傷つくよりはマシだ」
素っ気なく返すディーノと、言葉を失うアウローラ、しんと静まり返ったその時だった。
「それより何が起こってますの?」
二人の間に割って入り、イザベラが矢継ぎ早にまくし立てるように問いを発する。
「怪しげな部屋に連れ込まれるわ、気がつけば見知らぬ森の中で……」
そこまで言って何かを思い出したように表情が変わる。
「わたくしは、アウローラさんに……」
近くで座り込んでいたアウローラにイザベラは思わず駆け寄っていた。
よく見れば、
その有様にイザベラはかけるべき言葉が思い浮かばなかった。
「あの……その……」
あれほど敵愾心をむき出しにしていても、自分の本意でないことに対する罪悪感は持っていたようで、しどろもどろになっていたイザベラに対して、アウローラは怒った様子もなく首を横に振る。
「わたしだって、そんなに強くはないんです。だから、自分を責めないでください」
何かを思い出したようにイザベラを諭すアウローラを見て、ディーノは一つ思い当たるところがあったが、それを口に出すことは憚られた。
『まさかディロワールを、弾き飛ばすとは思わなかったよ』
信じられないと言わんばかりの声を発したのは、その傍で事態を静観していたシュレントだった。
「ぶ……ブチちゃんが喋った!?」
ことの顛末を知らないイザベラからは素っ頓狂な反応が帰ってきた。
アウローラも同様に何が何だかわからないと言った顔をしている。
「そいつは師匠の猫、らしい……なんでお前に懐いたのか知らねぇけどな」
ディーノも、まだ事態を完全に把握できてないことから、いかにも億劫そうに説明を加えた。
「事は済んだんだ。一からきっちりと説明してもら……う……ぞ……」
シュレントに問い詰めようとしたディーノは、ディロワールの空間でないにもかかわらず、がくんと肩に重みを感じる。
突如視界が霞み、石の壁がせり上がって自分に向かって来たのが、ディーノが目にした最後の光景だった。
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