魔猫の目覚め −2−

「あなたはどちら様ですの?」

 白銀の髪に紫の目、父以外に大人の男性と言うものを知らない自分に、その人はとても不思議に写ったことは良く覚えている。

 父とは旧知の仲のようで、兄二人の剣術指南としてしばらく厄介になると言うことだった。

「エンツォと申します。イザベラお嬢様に教えることはなさそうですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 自分が部屋の中で勉強をしている傍ら、兄たちが肩で息をしながら指導されているのを窓から毎日のように覗いていた。

「エンツォ様はどうしてお父様にお呼ばれしたのですか?」

 次第に彼への興味が湧いて、合間を縫って話を聞きに行った。

「あなたのお父様は、私をこの国一番の騎士と思われている。気持ちは嬉しいのですが、至らぬところなどたくさんあるものです」

 きっと疲れているはずだと言うのに、嫌な顔一つせず柔らかい笑みを浮かべて答えてくれる。

 彼との話は毎日聞いていてもきっと飽きることはないだろう。

 ある時は、騎士団にいた頃の父との取り止めのない思い出話を。

 またある時は、彼と父と、そしてもう一人の貴族と三人で、誰も見たことのない魔獣と戦った英雄譚を。

 さらにある時は、ふとしたきっかけで出会った黒い髪と言う想像もつかない容姿を備えた美しい女魔術士の話もあった。

 エンツォと言う目の前の人物こそ、まるでおとぎ話から飛び出てきたかのような鮮烈さを持っていた。

「イザベラ、あまり彼を困らせるな。お前もまた一番をとるべき人間なのだ」

 父の言葉には納得していた。

 だからこそ、自分の勉強は怠ったつもりはなかったし、両親から課せられたものの重要性を理解しないほど子供であるつもりもなかった。

「だが、またどこの出身ともわからぬ貴族に負けたのだろう? こんなものにうつつを抜かすからだ」

 ある時出されたのは、自分が大事にしていた猫のぬいぐるみ。

 たったひとつ、侍女に頼んで買ってきてもらった一番の宝物は、目の前で無残なボロ布と綿に成り果てた。

 その時イザベラは想像してしまう。

 ぬいぐるみの行く末が、自分の末路なのではないのかと。

 一番でない限り自分は誰にも愛されない、この家にいることもできない、誰に看取られることもなくゴミのように死ぬと思わされた。

 あの日は激しい雨が降っていた気がする。

 自分の居場所はあの家にないのではないか?

 捨てられるゴミに紛れ込んで、屋敷の外から逃げ出して、ひどく曖昧な記憶だったが、王都を離れて真っ暗な森の中へと走ったのは覚えている。

 たかが六歳の子供、そんな場所へ放り出されて生きられるはずもない。

 服は泥だらけになって破け、鮮やかなバーミリオンの長髪は荒れて、貴族の娘などとは到底思えない具合まで成り果てる。

 きわめつけはイザベラが出くわしたのは狼などよりもっと恐ろしい魔獣の姿。

「もう死にたい……。一番じゃないわたくしなんて誰も大切にしてくれない」

 不思議と恐怖はなかった。

 むしろ、これで終わることができるのだと言う、安息へのほのかな安心が心を支配していた。

 大きく口を開いた漆黒の影が迫り来るその時、稲妻よりも鮮烈に輝く剣の軌跡が、イザベラの目の前にいた魔獣を真っ二つに斬り裂いていた。

「お怪我はありませんか? イザベラお嬢様」

 そう言って、何も変わらない笑顔で手を差し伸べてくれたのは、あの家の中で最も縁が遠いはずの白銀の騎士。

「姿が見えないので、探しにきたんです。夕方に台所で見たと聞きまして、何かに紛れて外へ出たのではないかと」

 まるで遠眼鏡でもあるかのように、自分の手口をあっさりと看破して見せたことに、驚異もなくなったイザベラはあっさりとうなずいた。

「さぁ、帰りましょう。ご両親も心配しています」

 嘘だ。

 と、声を大にして叫びたい気持ちでいっぱいだ。

 一歩でも出てしまったのなら、もう戻ることなど叶わない。

 伯爵令嬢、イザベラ・フォン・ヘヴェリウスという娘など、もうこの世界のどこにもいやしないのだと言い聞かせる。

「もうわたくしお嬢様じゃないんですわ。一番じゃないからお父様もお母様もお兄様たちももう愛してなんかくれない。もういっそのことわたくし、エンツォ様の娘になりたい!!」

「そんなことを言ってはだめだ!!」

 強く両肩をつかまれて、今までには見せたことのないような、はっきりとした怒りがイザベラにも理解できた。

「子を愛してない親などいないよ。君の父上は私に真っ青な顔で頼み込んできたんだ。娘を無事に助け出してくれってね」

 到底信じられなかった……。

 鉄仮面のように険しい表情を崩さない厳格な父がそんな顔をすることなど。

「私にも君くらいの息子がいる。君がそう悩むように、時折自分が愛されてないのではと心配にもなる。人の親というのはそういうものなんだ」

 思い出の中に残る騎士が次第に姿を消していく。

 これは自分が見ている、あるいは見させられている過去の断片。

 今自分の手には、漆黒に輝く宝石が握られている。

『美しい思い出じゃないか。でも、もう君には必要ないんじゃないかなぁ?』

 姿を現したのは、この宝石をよこしてきた張本人の姿。

 人であるのか、そもそもこの世界に生きる者なのかすらもわからなくなるようなそいつは明るい調子で言葉を続ける。

『だけど、君のお父さんは、今でも君のことは認めてなんかくれないよねぇ? 一番になれない君を』

 表立っての態度には出さないが、あの事件からも父との距離は縮まるどころか、むしろよそよそしくなっていった。

『何を迷うことがあるんだい? アウローラさんと言う壁を葬り去り、一番を取る。その為の力を宝石はくれる』

 欲しい、なんとしても欲しい。

 何者かもわからないおぞましいはずの声に、次第に抗う力をなくしていくのが自分でもわかる。

 嫌だと言うのなら、この宝石を力一杯投げ捨ててしまえばいいのに、肩と肘を胴体に釘で打ち付けられたかのように自分の腕はピクリとも動いてくれない。

『さぁ、君の望みを叶えたまえ。イザベラ君……いや、我らの同志”オセ”よ!』

 意識がなくなっていく。

 そして、自分の体が漆黒の毛並みに覆われていくとともに、心地よい眠りの中へとイザベラは落ちていくのを感じていた……。

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