凍れる幕間

 夜空に浮かぶのは青白く輝く三日月、そこはとても人が住むとは思えぬほど深い森の中。

 二つの影が闇の中を疾駆し、紅蓮の炎と紫紺の稲妻が、空さえも染め上げるほどの光を発し、轟音を立てながらひしめき合っていた。

 杖に座ってひらりひらりと森の中を飛ぶ影を、木から木へと飛び移りながら追いかけ、剣戟を叩き込まんと跳躍するが、炸裂する火球によって阻まれ距離を取られを繰り返していた。

 何十何百と繰り返される攻撃を当てることかなわず、気づけば目の前には煙管キセルを突きつけられ爆炎と共に夜空へと高く舞い上げられた。

『まだまだ甘いね。バカ弟子♪』

 自分の三倍はあるだろう妙齢の女性とは思えぬ、悪童のような笑顔をニカッと浮かべながら腕をつかまれてゆっくりと地上へ降ろされた。

 もう何年、こんなことを続けているのかわからなくなりそうだった。

『うっせぇよ。明日こそ勝ってやる!』

 この人に勝つことができれば、自分の目指すものが見えてくるかもしれない。

 そんな希望を胸に抱きながらも、ここまでやってきた。

『ま、気を落とすことはねぇよ♪ そこいらのガキよりは十分強くなってる、このあたしが強すぎるだけだ』

 気休めのような励ましをもらっても、その胸中は穏やかでいられることはなく、気持ちを少しでも紛らわそうと自分の胸に手をやって違和感に気づいた。

 いつも身につけている大切なものの感触がない。

『こいつか? さっき吹っ飛んだ時に取れたみてぇだな?』

『なんだっていいだろ!! 返せっ!!』

 彼女が手からぶら下げた指輪に慌てて手を伸ばすも、おちょくるようにしてよけられる。

『そこまでムキになるってことは……女だな♪』

 図星を突かれて、ぐうの音もでなかったことは覚えている。

 それ以上何も言わずに、指輪を投げて返された後、先ほどまでの態度とは一八〇度切り替わる。

『なんだよ? 金に換えたいんじゃねぇのかよ?』

『んなこと誰が言った? 逆だ……絶対に手放すんじゃねぇ。この指輪はお前が怪物になりそうな時、心を支えてくれる最後の希望だ』


   *   *   *


 アウローラから再び受け取った指輪を手に、ディーノは一人屋上で食事をしつつも、少し昔を思い出していた。

『知られてしまったな』

 周りのことはともかく、アウローラにだけは伏せておきたかった、自分が”ディーくん”だという真実。

 あの山での一件で、本当は気づいていたのかもしれない。

 アウローラの中では今でも自分はディーくんなのだろう……。

 彼女が自分に向ける屈託のない笑顔を思い出すたびに、心の内にざわざわと風が吹き荒れる。

 嘘までついて遠ざけようとしたはずなのに、アウローラはこの指輪をなんのためらいもなく託した。

 八年の月日は彼女を相応の美しい女性へと変え、その頃の思い出を忘れないばかりか、今なお変わらない信頼を寄せてくれている。

 子供の頃ならば素直に喜ぶこともできただろう、しかし今は……言い表せない複雑な気持ちが心に重くのし掛かる。

 相手は婚約者までいる貴族のお嬢様、対して自分は何も持たない平民、その婚約が望まない相手とのものだったとしても、それに割って入る資格がどこにある?

 どんなに周りが騒ぎ立てようとも、どうにもならない絶壁が聳えている事こそが、ディーノにとっての真実であり現実であった。

「相変わらず一人で食ってるねー♪ 有・名・人♪」

 一人にしてくれと声を大にして叫びたくなる。

 屋上で食事を摂るのが恒例と化したディーノの事情などお構いなしにカルロはやってきて隣に座る。

 この遠慮のなさにイライラが増す。

 眉間のシワが倍増し、こめかみ辺りの血管が十字に浮かび上がりそうなほどだ。

「おいおい、そう怒るなよ? 少なくとも、嫌われてるわけじゃないんだぜ?」

「大して変わんねぇよ……!!」

 この興味本位の視線はいつまで続くのか、七十五日を過ぎる前に怒りが爆発してしまうかもしれない。

 貴族、平民、身分に限らず人間に共通する病気とはなんなのか?

 その病名は《退屈》と言うのだろうと、ディーノはここ数日で痛感していた。

 未来への明確なビジョンを持たず、日々を無為に過ごす人間ほど陥りやすいその病気の療法はただ一つ、それを紛らわせる手段を用いること。

 ディーノのクラスメイトたちにとっては、担任によって明かされた二つの魔術よりも、その前に起きた事件のほうがよっぽと衝撃的に映ったのだろう。

 婚約者が既にいる貴族の女子生徒が、証となる指輪をそれよりも以前から、素性の分からぬ別の異性へと渡しており、その相手が最近になって学園に編入してきた。

 二つの事実関係が噂好きの女子の琴線に触れたのか。

 やれ『闘技祭の試合はアウローラとの正式な婚約をかけた戦いだった』だの『ディーノは身分を隠して学園に通う異国の王子』だの、二年生の間で流言飛語が広まっており、すれ違うたびに名前も知らない同級生がヒソヒソと話しているのが嫌でも目についた。

 あの時、短絡的に指輪を受け取ってしまったことが悔やまれる。

 平気で他者を見下し踏みにじるマクシミリアンの人となり、そしてアウローラがいかに望まない婚約を強いられ苦しんでいるか……。

 アウローラが持ち続ければ、マクシミリアンが執拗に指輪を渡すことを強要してくるのが目に見えていた。

 なら、最初から自分が憎まれ役になれば、その矛先はこちらに向かうだろうと考えたのだが……ここまで事が大きくなるのは想定外だった。

「どいつもこいつもコソコソと……何がそんなに楽しい」

「学園ってのは、悪く言えば同じことの繰り返しだからね。物珍しいことがあればそっちに目が行くのも仕方ないさ。それに、やっぱりおとぎ話が好きなんじゃない? わる~い貴族からお姫様を助け出す王子様か勇者様がやって来たって」

「くだらねぇ……現実を見やがれってんだよ」

 ディーノは残っていたサンドイッチを一気に頬張って飲み込む。

 現実に綺麗な終わりなどなく、無慈悲に残酷に何もかも奪い去って行き、どれだけ泣き叫ぼうとも変わりはしない。

「みんなそんなことはわかってる、むしろだからこそ、現実離れした英雄の活躍は胸が踊るものさ。実際、ディーノを見てると楽しいし退屈しないけど?」

「だったら、お前からは見物料を取ってやろうか?」

「んじゃ、将来の出世払いで♪」

 いつからだろうか? 腹立たしいだけと感じていた相手のはずなのに、口を聞くことに抵抗がなくなって来ているのは。

 これが慣れというものだろうか? そんなものは戦いや旅の中でしか感じ得ないものだとディーノは今まで思っていた。


   *   *   *


 ディーノが学園の中で注目を浴び始め、一部では好意や敬意を持たれ始めていたのとは正反対の評価を受けるものもいる。

 マクシミリアン・ロックス・ブルームは、その煽りを最も顕著に受けている者の一人だった。

 路傍の石程度と思っていた相手に味わわされた敗北、それも不正ではないと教師からも明確に説明された。

 どれだけ否定しようとも変わらぬ現実に、苛立ちは募るばかりだ。

 この才能と地位に誰もがひれ伏し、同学年の頂点に位置する人生の勝利者は自分であったはずなのだ。

 断じて廃れかけの魔術しか持たない薄汚れた下民などではないと言うのに。

『聞いたか? マクシミリアンのやつ編入生にボロ負けしたのにまだ文句言ってたんだぜ』

『うっわ、なっさけなっ!』

『おまけに、婚約者にひっぱたかれて愛想尽かされたってよ』

『いくら家が良くても、あの性格じゃあたしもちょっとパスだなぁ』

 日に日に自分への風当たりが強くなっていく、ただ見ていただけの実力で劣るはずのその他大勢が、影でせせら笑っているのは嫌でも気づく。

 奴がいないタイミングでアウローラに声をかけても、彼女から向けられる視線は、石ころはおろかゴミでも見ているかのような冷たいものだった。

(どうしてあの下民なんだ! あんな他人を寄せ付けない男の何がいい? 負けたからなのか? 魔術と力さえあれば、蛮族でも構わないのか?)

 考えれば考えるほど、その思考の幅は狭まっていくことにマクシミリアンは気づかない。

 もっとも、本人の知ることのかなわないところにある事にも気づいてはいないのだが、そこから見出される結論は決定づけられていると言っても過言ではない。

 あの下民さえいなければ……。

『憎い相手がいるのだろう?』

 得体の知れない声が耳に入ったその時、マクシミリアンは周囲の景色が変わっている事に気づいた。

 光の届かない黒一色の廊下、ひんやりとして乾いた空気に混ざった臭いから、石造りの建造物であることはわかるが、授業が終わって学生寮へと戻る途中、時刻はまだ昼過ぎであり、まだ校舎を歩いていたはずだ。

 廊下には熱さを感じない炎が青々と燃える燭台が規則正しく並んでいる。

 こんな場所が学園にあるのか? それ以前に自分はどこにいると言うのだ?

 かつ、かつ、と視界のはるか先にある暗闇から何かが近づいてくる。

「だ、誰だ! 僕はブルーム公爵家の人間だぞ! こんな誘拐まがいの真似をしてタダで済むと思うなよ!」

 足音の聞こえる方へ向かって、マクシミリアンは精一杯の大声を張り上げた。

 近づいてくる影は人間なのだろうか? 形こそは人間だが、その全容を視界に収めることができない。

 黒一色の何かとしか言いようのないその正体は、マクシミリアンの想像しうる範疇をはるかに超えている。

『心外だなぁ……私は君の理解者さ』

 影の言葉は、この暗闇の中の異様さとはかけ離れた優しげな調子でマクシミリアンに話しかけてきた。

『可哀想に、あの下民が不正なんかしたから、君は今どん底を味わわされている。君は何も悪くないと言うのに』

 光が差した気がした。

 何がなんだかわからないこの状況など瑣末に思えるほど、マクシミリアンの心に広がり続けた暗雲が晴れ渡って、平原をそよ風が吹き抜けていくような心地よさで満たされていく。

 自分を認めてくれるこの影に対して、警戒心を抱くことなど自然の摂理に逆らうも同然の愚行だとマクシミリアンの心が叫んでいた。

『さぁ、これを受け取りたまえ。これがあれば、君は全てを取り戻し、今以上に輝ける存在となれるだろう』

 影はそう言って、手のひらほどもある大きな黒い宝石を、マクシミリアンの前に差し出してくる。

 疑うことなど何もない、マクシミリアンは迷うことなく首を縦に振った。

 影は黒い宝石を持った手を伸ばし、マクシミリアンの胸元にそれを当てた。

 すると、まるで意志を持ったかのように自らマクシミリアンの体の中へと埋まっていく。

「あっ……ああぁっ!!」

 冷たい……。

 マクシミリアンの心に吹いていたそよ風が、宝石が埋まった瞬間に空も平原も白く染め上げる猛吹雪となって荒れくるい始めた。

 だが、恐怖はない……むしろ、豪雪の降り積もった平原のはるか下から言い知れないものが湧き上がってくる。

 雪原の中には一匹の狼が、雄々しく猛々しく遠吠えをあげていた。

 今もたらされている恍惚感には、どんな極上の料理も酒も甘味もかなわないだろう。

 そうマクシミリアンに感じさせるには十分だった。

「すごい……。まさかこれが、魔降術?」

 知ったばかりの単語を口にする。

『その通りだ。これで君に学園の誰もがひれ伏すだろう。あの下民をねじ伏せ、悪辣な手で奪い取られた婚約者を取り戻すといい』

 言われるまでもない。

 自分は今、究極の力を手にしたのだ。

 目の前の影は、あえて姿を見せずに現れた神の使いなのだと、マクシミリアンは信じ切っていた。

「待っていろ下民! 思い知らせてやる! 僕こそが真の勝者なのだと! ハハハハハ……あーっはっはっはっはっは!!」


 その翌日、アウローラとマクシミリアンが学園から姿を消した……。

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