第3話 妹の哀哭

「ただいま」


 息を切らせながら俺は家に入った。玄関には耀ひかりの靴がある。どうやらもう家に帰っているみたいだ。

 悠然と俺はリビングに入る。この時間帯であれば耀はテレビを見ている······はずなのだが。

 瞬間、目に映ったのは――泣きじゃくる耀の姿であった。


「なんで、なんで、急にお兄ちゃんいなくなるの? 帰ってきてよ!」


 まさか失踪一日目でこんなにも耀が傷付くなんて予想外であった。心にくる言葉に俺は鞄を投げ捨てて強い口調で返事をする。


「おい! 俺はここにいるぞ!」


 身体からだに触れようとするが、通り抜けてしまい触れられない。

 俺は透明人間とやらに不満な気持ちを寄せた。

 正直、さっきまでは透明になったことによる利点しか考えていなかったのだ。

 その時の俺は馬鹿であった。欺瞞ぎまんであった。俺がいなくなると悲しむ人がいる。心配する人がいる。号泣する人がいる······。そのことを完全に忘れていたのだ。


「耀! お前のお兄ちゃんはここにいるぞ! だから······頼むから何か反応してくれ!」


 そんなことを必死に訴えかけても無駄であった。一向に様子に変化がない。肩を再度掴もうとしても通り抜けてしまう。

 こんな存在になってしまった自分が憎い。俺は自己嫌悪した。


「くそっ!」


 自分で自分の腹部に思い切り右ストレートを食らわせる。しかし、


「――っ?」


 全く痛みを感じない。今、殴ったはずなのに。恐る恐る、腹部に目を落としてみると――自分の手が自分の身体を通り抜けていた。


「な、なんだよ······これ」


 どうやら俺自身が身体に触れても通り抜けてしまうそうだ。これだと痒い所も掻けないし、自分で身体とか顔とかも洗えない――めちゃめちゃ不便である。


「もう、本当に何がなんだかわからねえ!」


 頭を抱えながら悩んだ。脳がまだ状況を整理できていないのだ。

 だが、それによって脳内には空白が生まれ、お陰で俺はふと思いつく。

 俺はさっき自転車に乗っていた。鞄を持っていた。

 であるならば······。


「ひょっとして物とか意識がない物に触れることはできる······のか?」


 そうとしか考えられなかった。

 まず、俺がこんな存在になっている時点で俺の脳内はごちゃごちゃに散らかった玩具のようになっていたのだ。

 そんな中で触れられるものと、触れられないものがあるなんて俺の脳内はそこまで考えられる思考がとてもじゃないが追いつかない。それによって空白は生まれるのだ。


「そう、だよな! それ以外ありえないよな」


 俺は頷いた。これ以外の理屈がどうしても出てこないのだ。


「――!」


 そして一つのスマホが俺の目に入る。しかも私物であり、電源は入っていなかった。これを見てまたまた一つ思い付く。脳の中身が空っぽだと逆に頭が冴えるらしい。


「こ、これなら! これで連絡すれば耀も気付いてくれる!」


 俺は希望の光を見るように、すぐにスマホを手に取り、電源ボタンを入れた。直後画面には俺と耀のトーク画面が映され、それを見て驚愕する。そこには電話マークと『応答なし』の文字がそのトークルームを支配するかのように埋め尽くしていたのだ。


「······こんなにも俺のこと心配してくれていたんか」


 思わず、感動してしまう。これが妹の愛というものなのだろうか。

 俺は文字入力欄をタップし、出てきたキーボードに『俺はここにいるぞ』とホラー映画に出てきそうな言葉を記そうとした。しかし『あ』の部分に触れようとした時、親指はスマホに触れているという感覚を失った。


「え?」


 思わず声を出した。俺の親指は――スマホを通り抜けていた。


「なんで、なんで連絡もできねーんだよ。物なら触れられんじゃねえのかよ」


 哀調を帯びた声でそう言った。全く理屈がわからない。俺の脳内の空白が暴走し、頭までも痛くなってしまった。

 どうやら俺は神に『孤独に生きろ』とでも言われているようだった。


「お兄ちゃん······帰ってきてよ······」


 耀は悲しみながらそう言って、紙に何か文字を書いている。俺はその紙を凝視する。

 そこには『お兄ちゃんは帰ってくる。お兄ちゃんは裏切らない。』、そう記されていた。

 この文字はまるで神に対抗しているようにも見えた。


「耀······」


 正直、耀の俺に対する好感度がこんなにも上だということに驚いた。起こす際のビンタは愛のビンタであったのだろうか。だとしたら痛がることは耀にとっての失礼に値することとなる。

 今度、またあのビンタを食らえるのであれば、痛がるのをやめ、耀を抱きしめてやろう、そう思った。


「よし、お兄ちゃんは帰ってくる! お兄ちゃんを信じよう」


 耀は前向きな言葉を発した。そして涙を拳で拭いソファから立ち上がると、


「だって私は妹だもんね」


 と、悲しげに言い、耀は自室へと足を向けた。何故か俺にはその時の耀の後ろ姿がどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな感じがした。





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