8章 タルタロス
8章・1節
門の向こうは前方が階段になっていた。他は、取り立てて目立つようなものはない。
「行こう」
透はイツキに言った。
「ねえ、イツキ。イツキはさ、これが終わったらどうするの?」
その階段を登りながら、透はイツキに言った。
「そうですね。実はまだあまり考えていないのです」
「そうなの? じゃあ、どうするか決まるまで家にいたらいいじゃない」
「それも悪くないですが、迷惑ではないですか?」
「構わないわよ。ちょっと窮屈だけど貴方との生活、そんなに悪くはなかったわ」
「そうですね。少し考えて見ます」
やがて屋外の祭壇の様な場所に出た。正方形の空間の周りは夜でも映える白の柱で囲まれている他は、やはりとりたてて目立つものはなかった。ただ一つを除いて。
「お待ちしておりました」
凛とした、しかし童女》わらめ》の様な声が辺りに響いた。
空間の奥に立っていたのは白無垢にベールを纏った少女、雛子であった。
「滋丘の人間とお見受けしますが、如何にございましょうか?」
「そうよ。私は滋丘透。貴方は?」
「失礼いたしました。私めは神守の雛子と申します。タルタロスの門番、にございます」
「そう」
「何年ぶりかな」
「イツキ様。ええ、お久しゅうございますね」
そう言ってベールの奥の顔は笑った様に見えた。
「イツキ、知ってるの?」
「ええ、六年前にちょっとですね」
「透様」
雛子は透の名を呼んだ。
「恐れながら、ダイダロスをお持ちでございましょうか?」
「ええ」
そう言って、透はウェストバッグから黒い小箱を取り出した。
「確かに確認いたしました。では透様、念の為に貴方様のご意思を確認いたしたく存じます。ここに来られたという目的はつまり、開きかけている門を閉じるため、という事でよろしゅうございますね」
「ええ、勿論よ。巨人なんか絶対に外に出させるわけにはいかないわ」
「承知いたしました。それでは、こちらへお越し下さい」
そう言って、雛子は祭壇の中央部分まで透を誘導する。
透はふと下の方に目を見てやると、薄っすらと魔法陣の様なものがあるのが目に入った。中心には丁度小箱が配置出来る程の丸い円が引かれている。
「魔法陣の中心にダイダロスを」
透はしゃがみ、おそるおそる小箱を円の中へと配置する。
「あれ、何も起きないけど」
「魔力が必要にございます。言うなれば、ダイダロスとは電子キー。電気がなければ、只の廃品にございます」
「つまり魔力を注ぎ込めって事ね」
「左様にございます。私めも微力ながらお手伝いさせていただきますが」
「ええ、お願い。今は猫の手も借りたい。いや、貴方が猫ってわけじゃないけど」
透はイツキの方を振り返る。
「イツキ。念の為、誰か来ないか見張っておいてくれないかしら」
「承知いたしました」
「さあ。待たせたわね。始めるわよ」
「はい、では」
魔法陣が青い光を放ち始める。
「透様の魔力を魔法陣に注ぎ込んで下さい。やり方は通常の術式と変わりありません」
「ええ、分かったわ」
透は手を前に突き出す。
長いようで短かった戦いがようやく終わるのだ。
思えば信じられない事ばかりが起きてきた。こちら側に身を置く人間である筈なのに、信じられない事だと感じるのは何の冗談なのか、と透は心の中で苦笑する。
さあ、あと一息だ、透は少しだけ手に力を込めた。
……したくない?
「え」
誰かの声が聞こえた。それは、透にとって聞き覚えのある懐かしい声であった。
いや、気の所為だ。
透は構わず続ける。失敗すれば、巨人がこちらへ出てきてしまうのだ。今は余計な事を考えている暇はない。透は自分にそう言い聞かせた。
「ねえ、聞いてるの?」
今度ははっきりと、その声を聞き取った。一体、誰が。透が瞬きをした時だった。
目の前に、透の母、美琴》みこと》が立っていた。
幼き日の透が見た、その柔らかな笑みを湛えた時の姿のままで。
「お母さん」
気が付くと、周りの風景は屋外の祭壇場ではなくなっていた。
そこは、透にも見覚えのある場所であった。何故なら、そこはあの夢、いや、透が今まで封印していた記憶、即ち、巨人が起こした地獄絵図だったからだ。
「私、何でここに。お母さん」
「久し振りね、透」
そう言って美琴は笑う。その笑みに、透は緊張していた顔を綻ばせる。
「あ、会いたかった。だって、もう会えないかもって心の中で思ってたから」
「ごめんなさい。貴方とお父さんには苦労をかけてばかり」
美琴はそっと透に歩み寄り、透を抱き締める。そして、愛おしそうにその頭を撫でた。
「ああ、大きくなったわね。本当に」
「うん、私、あれからトマトだって食べられるようになったし、グリンピースも食べられるようになった」
「そう、偉いわね」
「そうなの。私ね、少しは成長したんだよ」
「ええ。もう私の知ってる我儘な透じゃないみたい」
不思議と暑くはなかった。周りは炎が立ち上っているというのに、その影響を透は全く感じなかった。母に守られているから?
「ねえ、透。また、一緒に暮らしたくはないかしら」
「一緒、に?」
「そうよ。貴方が望めば、また一緒に暮らせるの」
「どうやって?」
「やり直すのよ。六年前に起きてしまった事を、無かった事にするの」
「何を言っているの、お母さん」
「何を?」
「うん、だってそんな事出来るわけないじゃない。もう起きてしまった事だし」
「そうね。でも、それを覆す事が出来る方法が一つだけあるの。分からない? すぐ目の前にあるものなのだけど」
「ううん。お母さん、それだけじゃよく分かんない。もっとちゃんと言って」
「門よ」
「門?」
「そう、すぐ目の前にある門。異界にはちょっとした奇跡なら簡単に呼び起こせるくらいの魔力で溢れているわ。それを利用するの。限定的な事象改変なら、難しい事ではない」
「本当に?」
「ええ、本当よ。私達だけじゃない。あの時、大切な人を失った人達が一杯いた。皆、もしやり直せるならきっとやり直したいと思ってるわ。それはね、貴方が望めば出来るのよ」
少しの間、無言の時が続いた。やがて、透が口を開く。
「また、一緒に暮らしたいね」
「ええ、私も」
「本当に、一緒に暮らしたかったなー」
透は声を震わせながら言った。美琴は眉根を寄せる。
「透?」
「母さん。私ね、さっきも言ったけど、成長したんだよ。まだちょっと不安だけど、ちゃんと生活出来てるし、今だって、皆に支えられながらここまで来た」
「透? 一体、何を言っているの?」
「お母さん。私は、門を閉じなきゃいけないから、閉じるためにここに来たの。門を開けちゃったら、巨人が出てきてしまう。だから、門を開ける事は出来ない」
透は顔を上げて、母の顔を見た。母の顔は、困惑の色を隠せていない様であった。
「どうしてそんな事を言うの。ああそれなら、巨人を外に出さない様にすればいいわ。異界ならそれが――」
まくしたてる様に言う美琴に、透は静かに首を振る。
「そんな危険な賭けは出来ない。間違えて巨人をこっち側に出してしまったら、今度は局地的じゃ済まないかもしれない。そんな事は出来ない。それにね、お母さん。私はさ、あれから色々あって大変な事も多かったけど、何とか乗り越えて生きてきたんだ。失敗も後悔も多かったし、あの時に戻れたらな、なんて考えたのも一杯あったけど。でもね、このちょっと今いちな人生でも、必死こいて頑張ったり、だらけて自己嫌悪に陥ったり、そうして積み重ねてきたもの、あるんよ。私まだ社会に出た事もない小娘なんだけどさ、都合が悪いからやり直そうって言える程人生って安っぽいものじゃないと思うんだ」
いつの間にかまた声が震えていた。しかし、透はしっかりと自らの母を見据える。
「ごめんね、母さん。私は、門を閉じる。だからお母さんとはもう、さよならなんだ」
透は言った。
「そう」
困惑していた透の母は、納得した様に頷く。
「透。面倒な事、押し付けてごめんなさいね」
「母さん?」
「それと、図々しくてごめんなさいね。お父さんの事、頼んだわよ」
「母さん!」
微かに、美琴は微笑んだ様に見えた。
あの災禍の中で最後に、彼女が透に見せた様に。
「トオル!」
イツキの声が聞こえた。
気が付くと、透は元の祭壇上に立っていた。
「戻られましたか」
雛子は言った。
「今のは、一体」
その言葉に、雛子は首を振った。
「申し訳ございません。はっきりとは分かりかねます。ただ、貴方は今少しの間だけ異界へと参られておりました。もっとも、ここも半ば異界ではありますが」
「異界」
透はさっきまでの出来事を反芻する。異界とは、常識が通じない所だという。だから、さっきの出来事も。
「いいえ、過ぎた事よ」
透は顔を上げる。そして、それを見た。
「ねえ、雛子」
「はい?」
「あれって、想定内なの?」
「と、仰いますと」
雛子は透の見ている方向を見て、目を見開いた。
「いいえ。こんな事は、想定外、にございます」
「嘘。じゃあ何であれが出てきてるのよ」
それは大きな人の様な、しかし明らかにこの世に存在する生き物とは異質の存在だった。それは、まるで実態を持たない青い光体で構成されており、獣の様な咆哮を上げて周囲を威嚇する。それに呼応するかの様に空気が揺れ、建物が揺れ、大地が揺れた。
「透様。やる事は依然お変わりありません。術式が万事抜かりなくやってくれます。そのように、春之助様は準備してこられました。落ち着いて、なさるのです」
動揺しているのか、していないのか、いつもと同じ様な声音で、しかし心なしか捲し立てる様な口調で雛子は言った。
「わ、分かってる」
あの時見たものだ。透はかつての記憶を反芻する。自分の記憶が正しければ、あの時は春之助が身を削って結界を張ったお陰で被害が最小限に済んだ。だが今はどうだ。あれが野に下れば、もうあれを遮るものは何もない。結界はない、自分には、たとえ命を差し出してもあれを防げるだけの結界を築けない。
「ぐっ」
透は唇を噛み締める。絶対にここで食い止めなければならない。透は気持ちが焦るが、かといって魔力を注ぎ込むペースを早める事は出来ず、もどかしさを感じた。
巨人がこちらを見下ろした。
何というか、注視してなければ人間からは蟻》あり》は見えないのだ。だから、同じ様な理屈で巨人からは人間なんて普通気付くもんじゃないって考えてもおかしくはないだろう。透はそんな事を使っていない頭の片隅でぼんやりと考えていた。
透はぞっと激しい悪寒を覚えた。その、怪しく光る目はこちらを見ており、こちらを認識しているという確かな確信を得たからだ。
その巨人は徐にあやふやな体を傾けて、腕を振り上げ、そして振り下ろした。
透はその様子を只じっと凝視していた。さっきから危機一髪ばっかりだと半ばうんざりしながら。
しかし、その腕の動きは神殿の上空で緩やかになり、そして止まった。まるで、そこに何か見えない壁があるかのように。
「ご安心を。神殿には結界がございます。ですから巨人が与える衝撃も数分は防げます」
雛子の説明は淡々としていたが、やはり少し捲し立てる様でもあった。
透は前方を見据え、目の前の事に集中する。それは、誰かの声が聞こえない程の集中力であった。平行作業の要求されない、只一つの事に集中すればいい時と場合であれば、それはとても素晴らしい事であったであろう。
透は、イツキの声を聞く事が出来なかった。透は、視界の端に否応なしに入ってきたその違和感によって、その異変を認識する事が出来た。
しかし、全てが遅かった。
無言であった。
透は、二転三転する状況を理解するための処理が追い付かなかった。そして、リソースは殆ど術式の発動に捧げられており、状況の理解に割けるリソースは残されていなかった。
雛子が懐に携えていた短刀を抜き、透に襲いかかった。血がぽたぽたと雫になって落ちている。雛子は、目を見開き、呆然とした顔をしていた。
「そういえば、遠い昔に同じ様な事があった、っけ」
イツキが少し弱々しく言った。そして、自らの胸に突き立てられている雛子から短刀を取り上げ、雛子を突き飛ばした。
雛子ははっとすると、そのまま手を前に突いて、頭を下げた。
「申し訳、ございません。これは、私は、何という事を」
「いや、全く構わないよ。君の意思ではないのだから、君が呵責を感じる事など何一つとしてない。巨人か、はたまた怨霊の仕業かの、どちらかだろう」
「しかし、手を下したのは――」
「立て、神守の少女よ」
強制力を感じる言葉。かつて、王と呼ばれた者が吐き出すその強烈な言葉に雛子は反射的に立ち上がった。
「ここで後悔するのは時間の無駄だ。自分の役割を果たせ」
透はそのやり取りを視界の端に捉えていた。その最後の言葉は、透にも向けられている様に感じた。
ちょっと。何で貴方が! イツキ! 透は頭のほんの片隅で必死に狼狽えた。
「トオル」
イツキは振り向いた。顔はいつものままだった。しかし、どうしても彼女の視界に入ってしまう胸は赤いケチャップをぶちまけてしまったみたいに、赤く染まっていた。
「あと一押しです。貴方なら、きっと出来る。自信を持って下さい」
イツキは笑った。まるで、それは親が子供に向ける様な眼差しだった。
「は、言われなくても!」
そこで見ていなさい、とっておきのものを見せてやるんだから!
透は声を張り上げた。
術式が大きな光を放つ。門から、光の鎖の様なものが飛び出して来た。
それは未だ緩慢な巨人の四肢を、体躯》たいく》を絡め取り、門の中へと引き戻そうと引っ張り始めた。巨人は藻掻く。まるで、帰りたくないと駄々をこねる子供の様に。
巨人はその鎖を引き剥がそうと全身に力を込める。その思いもよらない力に、鎖は引きちぎれようとしていた。
術式を終えた透には、もう後を見守るしか出来ない。だが、このままでは結局巨人は外に出てきてしまうのではないか、そんな考えが彼女の頭を掠》かす》めた時であった。
槍が飛んできた。
その黒々とした槍は、一直線めがけて巨人の胸部分と思しき場所を穿ち、そして、僅かばかり巨人を弛緩》しかん》させる事になった。
それが決め手となった。
巨人は雄叫びを上げながら、鎖によって門の向こうへと引き摺》ず》られて行き、最後の足掻きと神殿を掴もうとするが、依然発動していた結界に弾かれ虚しく空を掴んだ。
巨人が門の向こうへと吸い込まれる。
そして、それと共に周囲が大きな光に包まれた。
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