7章・7節

 外から微かにだが音が入り込んでくる。

 透は、その雑音とも言い難い音を聞き流しながら、目の前の事柄に集中する。

 法水から放たれる斬撃を躱しては打ち込み、躱しては打ち込みと、その応酬が続いていた。透は一応武術の心得があるが、法水はどうだろうか。少なくとも、彼は透の攻撃をいなしてはいたし、踏み込み過ぎず、致命的にならないように間合いを保っていた。しかし、所詮は少女に過ぎない自分に後一歩踏み込めない所を見ると、法水京一郎という男が競技用であれ剣を扱う機会は殆ど無かったのであろうと透が結論するに至るのは、そう長い時間を要しなかった。

 しかし、一方で法水の腹の中を透は測りかねた。結局の所、それならばクロエを頼みにしているかというと、必ずしもそうとも言い切れないし、むしろ本当に自分だけの力で透を倒してしまおうと考えているのかもしれないとも思えたからだ。

「いや」

 法水から距離を取った透は呟いた。

 あくまでクロエは助けに来ないと仮定し、尚且、法水は自分の力だけで倒してしまうつもりなのだ。無駄な甘えや憶測をして足元をすくわれないように、そう、透は仮定した。

 男の決闘に対する驚異的な順応性を鑑みても、技術に関してはまだ透の方が上である。だけど、透の方は透の方で中々後一歩が踏み込めなかった。

 前の闘いはテリトリーの中であり、それ故に竹蔵の刀を躱せる確信があった。しかし、今はこの生身の体一つである。勝てるという算段はあったとしても、もし、と考えると後一歩が踏み出せない。

 覚悟はしていたのに、後一歩なのに、いざって時にすんなりと動いてくれない。透はそのもどかしさを唇を噛む事で紛らわそうとする。

「どうしたのかな、怖いなら、ダイダロスを置いて逃げても構わないよ。そうすれば私は別に、君を追いはしない」

 その言葉に透は無言で答えた。

「いや、今更だったね。失礼」

 法水は苦笑する。いつの間にか、外から漏れてくる音が消えていた。

「いい加減ケリを付けようか」

 法水は踏み込んだ。

 来る! 透は確信した。今度はもう、止まらない。今度こそ、どちらかが倒れる。

 やらないと。透は身を低くした。右手で剣を構え、左手の中には飛び道具を仕込む。

 透は、純粋に剣と剣で応戦するつもりなどは毛頭なかった。そもそも、これは試合などではない、透にとっては、勝つ事が何より最優先事項であった。

 法水が肉薄すると、すかさず透は槍の贋作使魔》フェイクファミリヤ》を放った。法水はほんの一瞬だけ意表を突かれるも、しかしすぐにそれを躱した。

 法水の態勢は崩れていない。彼は、流れる動きで透の左手の方向へと至り、薙いだ。透はそれを剣で受け止めた。

 しかし、受け止めた筈のものは只の手帳だった。新書程の大きさの手帳。しかし、それは刹那の間だけ透の視界と思考を奪った。

 しまった、と透は身を引こうとした。しかし、法水はそれを上回るスピードで得物を袈裟懸けに斬り上げた。

 ああ、これは間に合わないな、透は身の危険が間近に迫りながらも、冷静に状況を分析している自分がいる事に気が付いて、思わず苦笑したい気持ちになった。

 ごめんイツキ。偉そうな事言ったのに、私、ここまでみたい。


 鮮血が高く舞い上がった。それは本来喜ばしからぬ出来事である筈なのに、その光景はとても綺麗で、やがてそれは重力に従い、まるで雨のように地面に落ちてきた。

「はあ、はあ」

 法水は胸の辺りを抑える。顔には苦渋の色が現れつつも、その目はしっかりと前にいる小さな闖入者》ちんにゅうしゃ》を見据えていた。その子もまた、それに応えるかの様に無言のまま法水を見つめている。

「そうか、君がここにいるという事は、クロエは」

「イツキ」

 いつの間にか尻もちをついていた透は、自らの使い魔の名を呼んだ。彼女は自分の体を手で触ってみるが、やはり何の外傷もないという事を理解した。

 イツキは透の呼びかけには答えず、只目の前の男へとその視線を向け続けた。

「だが、それでも止まるわけにはいかない」

 法水は折れてしまったサーベルを捨て、代わりに拳に魔力を込める。

 一瞬であった。それは、およそ人間の瞬発力ではない。しかし法水は、只の一度だけだったが、その人間を越えた瞬発力を見せた。

 拳をイツキの胸に叩き込もうとした。瞬発力然り、拳についてもその動きは最早人間のものではなかった。

 イツキ! 透は最早自分ではどうにもならないと思いながらも、イツキの名を叫んだ。しかし、次に見た光景はそんな焦りを杞憂だと一掃してしまうものであった。

 法水京一郎の拳は空を穿っていた。

 しかし法水の胸には、イツキの得物が突き立たっていた。

「――あ」

 法水の口から、胸から血が流れ落ちていく。彼は大きく目を見開いた。

 彼は歯を食いしばり、力を振り絞ってイツキを突き飛ばした。

「イツキ」

 イツキは今度こそ法水に引導を渡そうとするが、透の静止の声によって動きを止めた。

 イツキが透の方を横目で確認する。透は、首を横に振る。

「……だけじゃ、ない」

 血を失いながらも法水はぶつぶつと呟き、透の方へと今にも倒れそうな覚束ない足取りで歩いて行く。目はもう透が見えているのかいないのか、分からない程に虚ろであった。

「誰か、だけが幸せになる世界じゃ、ない。誰もが、皆が幸せになる世界で、なければなら、ない」

 気が付くと、法水の目から涙が流れている事に透は気付いた。

「嫌、なんだ。誰かが、不幸になってしまう世界、が。だって、馬鹿げているじゃ、ないか。そんなの、は、あってはならない。だから、やら、な、ければ。私が」

 透の目の前に到達した法水は、弱々しい動きで透へと手を伸ばす。

「たるた、ろす、ではない。ぱんど、ら、なんだ。災厄の中、に、希望が」

 自分の身の事など、この男は微塵も気にしてはいなかった。

「お願い、だ。た、たのむ。だい、だ、ろすをわた、私に。このせか、いを私、は」

 しかし、その手が透へと到達する事はなかった。

 法水の体は地面へと崩れ落ちた。

「みん、が、しあ、せ、に……かなめ、ちゃ」

 そう言ったきり、法水は動かなくなった。

 法水の体の周りに血溜まりが出来ていく。

「行こう」

 その場に立ち尽くしていた透はイツキに行った。

「私達にはまだやる事がある。ここで立ち止まってなんかいられない」

 半ば自分に言い聞かせるように透は言った。

 透は踵を返し、神殿の奥にある門へと歩いて行く。イツキもそれに従い、門へと向かう。

 ふと、イツキはそこに倒れている法水を見て立ち止まった。

「イツキ」

 少しの間立ち止まっていたイツキは呼ばれて、再び透の元へと歩いて行った。




 私は正義の味方なんかじゃあない。

 むしろ、現状を幸せに暮らしている多くの人達の命を踏み躙るかもしれない悪党だ。

 本当ならやってはいけない事だ。だって人を傷付けると、皆が嫌な思いをするから。

 皆が苦痛に歪んでいる顔をするのは、とても心がずきずきする。

 だけど僕はそれでもやらなくちゃと思ったんだ。

 その痛みの先に、誰も嫌な思いをしなくてもいい世界が叶うかもしれなかったから。


 君が、死ななくても良い世界が出来ると信じたから。

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