7章・6節
法水京一郎はかつて神童と呼ばれていた。
彼は幼い頃から勉強においても運動においても大人が舌を巻くような成果を見せ、いつだって周囲の期待に応えてみせた。本人にはそのつもりはなかったが、結果的に、彼の残してきた成果は周囲の期待に応えるものであった。
後に法水はT大学の法学部へと進学し、やがて弁護士となった。
法水なら安心だ。
これは、彼を知っている者が彼を評する時にいの一番に出てくる言葉であった。
彼は如何なる社会集団に属しようとも、周囲からの信頼は厚く、その信頼に足るだけの働きを成してきた。おそらく、法水は一般的に連想されうるエリートという言葉を体現している人物であった。
そんな法水京一郎にはとある趣味があった。それは、俗に創作と呼ばれる営みである。
彼は幼い頃から物語が好きだった。少女が不思議な世界に迷い込んでしまったり、少年が困難を乗り越えながらも闇の魔法使いを打ち倒すために奮闘したりする。特に、最後は誰かが酷い目に合ったりするのではなく、皆が笑って終わるような作品を彼は好んだ。
成長してからも変わらず物語が好きで、大学に入る頃から創作活動を始めるようになった。しかし、その趣味が自らのイメージには合わないことも理解していた法水はそのことを周囲に伏せながら生きてきた。無論、隠しつつも彼は創作を止めることは出来なかった。何故ならそれは、既に彼の根幹を成す大事な営みであったからだ。
そして、法水は大学も終わりに差し掛かった時にある本を書き上げた。
本の名前を『ロスト・ミソロジー』と言った。
おそらく彼がこれまでの何よりも心血を注いだそれは、創作神話であった。彼は各国にある神話類を調べ上げ、時に個人の手によるファンタジー世界、神話を参考にし、一つの世界を作り上げた。
彼はこれを同好の士に
彼はその本を後生大事に持ち続け、どんな心境の変化があろうとも、決して手放すことはしなかった。
法水は幼い頃、物語のような世界に憧れた。
世界は夢に溢れており、困難で打ちのめされることはあっても、最終的には報われる世界。
多少のずれはあっても、それがこの世界の姿であると幼い頃の法水は信じて疑わなかった。
昔のことだ。
法水には幼い頃、
要は田舎から出てきた子のようで、法水の知らないことを色々教えてくれた。温室育ちであった法水にとってはそれらの遊びは瑞々しい体験で、多分、要に出会わなければ一生出会うことはなかったであろう遊びであった。
要は、自分がかつて住んでいた田舎にくればもっと色んな遊びを教えてあげられるのになあと、いつかの日に言った。そうすると興味を持っていた法水はじゃあ行ってみたいと言うと、要は喜んで、田舎はちょっと遠いからすぐには無理だけど、きっといつか行こうと言ってくれた。
それから間もなくして、要は死んだ。
理由は判然としない。だが、どうやら要の家は貧しかったようで、それで一家心中を図ったのだということを法水は聞いた。田舎から都市部に出てきたのも、どうやら父の仕事のためだったらしいということも、その時に併せて知った。
法水は喪失感に襲われ、彼は普通の人間がそうするように、親しい友人の死に泣いた。
そんな時、ふと傍にいた自分の母の顔を法水は視界の端に捉えた。
母の顔は、安堵している様に見えた。
法水は理解した。母は、要と一緒に遊んでいる事を快く思ってはいなかったのだという事を。そして、この訃報に内心喜んでいたのだと。
法水はこの時初めて、母が自分の知らない生き物のように思えた。そして、母を心底軽蔑した。
彼は、潮騒の様な静かな絶望と違和感に襲われた。恐らくそれが、法水がこの世界に対して初めて感じた不信であった。
世界は、優しくなんかないかもしれない。
法水は、そんな事はないと頭の中で否定し続けた。気付きたくはなかった。この世界の
しかし、法水は成長していくにつれ、子供の頃に思い描いていたそんな世界が幻想なのであると嫌でも理解するようになった。
世界は変えられない。
法水は苦悩した。法水は、自らが類稀な才能に恵まれている事を自覚していた。だが、所詮自分は人間であるという事も理解していた。どうにか受け入れるしかなかった。自分が置かれている現実を。そして皮肉にも、法水は適応力についても人並み以上であったので、どうしようもない現実を脇に置いて、人生を送る事が出来た。
故に、もしその出会いがなければ法水は世間の模範と言われるような生き方を送り続けただろう。幸か不幸か、法水は超自然的な存在との接点がなかったからだ。
しかし、彼はある時その女の子と出会った。
休日の事だった。遠出が好きだった法水は朝比奈市に隣接している市の、北に行った所にある山地を訪れていた。とある小料理屋で日本各地を旅して回っているという男と隣席になり、その時にとある話を聞いたからだ。
昔、とある村の若者が
少女が何をしにここへ来たのかと問うと、男は迷い込んでしまったから帰りたいと訴えた。男は少女がこの社の神様なのか、それとももっと別の何かなのかてんで見当も付かなかったが、兎に角帰途につきたい一心で懇願すると、承諾したらしい少女はやおら男の前に手を
似たような話がいくつもある。恐らくは誰かの作り話で馬鹿馬鹿しいかもしれないが、と男は最後に言ったが、法水はかねてよりそうしたものに惹かれる性質だったので、折を見てそこへ赴く事にした。
最寄りの人里よりさほど離れた場所ではなかったものの、法水が最初に感じた印象は、人を拒絶する、というものだった。具体的な柵があるわけでも、まして壁があるわけでもない。ただ、その場所は人が本能的にあるいは無意識的に避けてしまうような、そんな場所だった。だからこそ、今の今まで碌に開発もされない場所になったのだろう、そう法水は思った。
最後に整備されてからだいぶ時が経ったであろう道を進んでいくと、ふと眼の前に石段が見えてきて、その石段を登っていくと、やがて木々のない開けた場所に行き着いた。奥の方に目を凝らすと、古い社があるようで、神社なのかもしれない、と法水は思った。
「しかし」
奇妙だ、と法水は思った。社は古かったが、目立って朽ちているような箇所はなく、こまめに人の手が入ったかのような整然とした様であったからだ。これまでの碌に整備の行き届いていない道とは大違いであった。
法水の頭にふと、先日男から聞いた話を思い出した。それならばひょっとしてここがそうなのではなかろうかと。
「いや」
法水は首を振った。馬鹿げている。それは只の伝説だ。きっと、ここに迷い込んだ誰かが誇張してそうした話を作ったのだろう、そう法水は自分に言い聞かせた。そして、法水は早々に去った方がいいのではなかろうかという思いに駆られた。神社の中には、本来良くないものを鎮魂等の目的で祀っているものもあると法水は聞いたことがある。人界と隔絶されたこの神社もそういった類のものではないのか。法水は一度は踵を返そうとした。
しかし、男の好奇心はそれに勝ってしまった。
何という愚かな事をしているのだろうかと思いつつも、法水は自身に渦巻く厄介な猛獣を抑える事が出来ず、社の方に歩いていった。
「今時珍しいわね。こんな所に人が迷い込むなんて」
気が付けば、少女がいた。歳にしておよそ十二前後の少女。法水は呆然としてその少女を見る。
「人除けの結界を張ってあったのだけど、不具合かしら。それとも、貴方はそういうものに鈍感な人間? いえそうだとしても、いくら街から近いとはいえここは車も入れないような場所よ。たとえ結界が張ってなかったとしても、そんな所にわざわざ足を運ぶ貴方は
「君は、一体?」
法水は自分が馬鹿にされた事などまるで意にも介さず、少女に尋ねた。
「一応、ここに祀られている神様よ。でも、もうここに来る人なんていないのですけどね」
「では、この神社は一体誰が整備を」
「私よ。誰も来ないもの、自分で自分のお家を整備するしかないじゃない」
「君が?」
「
少女が手をひょいと動かすと、法水の背負っていたバッグが一人手に動き出し、法水の元を離れて少女の腕の中に収まってしまった。
「なっ」
「こんなものよ。どう、信じる気になった?」
バッグをひょいと法水の方に投げる。法水は慌ててそれを受け取った。
「あ、ああ。だが、何故こんな所に? 神様というのだったら、人里近くにいればいい」
「驚いた。神様に意見しようというわけね」
「あ、いや。決してそんなつもりでは。ただ、素朴に疑問に思っただけだ」
「名無し神だからよ」
「名無し神?」
「そう。外界は知らないけれど、この
「何故そんな事を私に?」
そう言われて、少女は目を見開く。
「確かに、何故だろうか。私はどうかしている」
少女は視線を下に向けて何かを考え出した。法水はどうすることも出来ないので、彼女の動向を見守る。
やがて少女は顔を上げ、口を開いた。
「お前、名前は」
「……いや、それは」
法水は一瞬名前を言うのを
「何を今更。お前は私の手の平の上だ。無理やり言わせる事だって出来る。安心して、別に取って食おうなんて思ってない」
「法水、京一郎」
「そう、京一郎というのね。いい名前。時に京一郎、さっきから気になって仕方がないのだけど、お前の内に仕舞っているその本を見せてほしい」
言うや否や、少女は手を前に突き出すと、法水の背負っていたリュックサックが一人出に開き、中から透明のブックカバーがされたハードカバーの本が出てきた。その本は、まるで野球選手がボールを投げるくらいのスピードで少女の元へと向かい、その小さな可愛らしい手にすっぽりと収まった。
「あ」
男はその一瞬の出来事に思わず声を漏らした。少女はそんな法水の様子など気にも止めずに、奪い取った本をぺらぺらとめくり始めた。
ロストミソロジー。少女は呟いて目を細める。
「この本はいつも持ち歩いているのかしら」
少女はページに目を走らせながら法水に尋ねた。
「いや、休日に出掛けたりする時だけだ」
法水は一人になれる時、よくこの本を携帯して読み耽る。好きな作家の本を持って行く事も多かったが、結局自分で書いたその本が一番自分の世界に浸る事が出来たため、気が付けば一人で出かける時は必ず携帯するようになった。
「そう」
尚も少女はページをめくり続ける。何十分か経っただろうか、と法水がふと思った時、パタンと本を閉じる小さな音が鳴った。少女は法水の方を見ていた。
「これは、誰が書いた本かしら」
「……私、だが」
「お前が?」
少女は目を見開いた。そして、口元を綻ばせる。
「そう。珍しい事もあるものね。私もかつて多く人を見てきたが、お前のような奴でこんな物を書いたという男なんて見たことがないもの」
「それは、不毛な事だから」
こんな物を書いた所でお金になるわけではないのだから、客観的に考えると自分の行いは無駄な営みだ。そんな事は法水もとっくに理解していた。
「何故、そんなにも後ろめたそうにするの?」
「……別に」
「おかしな奴」
「それを返してはくれないか」
「嫌よ」
「何だって」
「だってこの本、気に入ったもの。だから私の物にするわ」
「な」
「この神域に無断で立ち入った代わりだ。つまりは入館料ね」
少女は無邪気な笑みを浮かべる。しかし、その光景を見て少女は目を見開く。
「頼む。大事な物なんだ」
男は膝をついて頭を下げていた。少女は怪訝な顔をする。
「何故そうまで執着するのかしら」
「それは」
法水にも分からなかった。只、彼にとってそれを失くすことは自分の半身を失くすような感覚があった。ずっと持ち歩いているからだろうかとも彼は思ったが、兎に角、法水はどうしてもそれを失うわけにはいかなかった。
「てこでも動かなそう、仮にも神霊を前に強情な人間もいたものね」
「何とでも言ってくれ」
「どうやら入館料程度では釣り合わないという事ね。やれやれ、だわ。では、こうしましょう。貴方の願いを言いなさい」
「願い?」
男が顔を下に向けたまま、言った。
「ええ、そうよ。貴方の願望を。大した事はしてあげられないかもしれないけど、私の力の及ぶ限りその成就に協力してあげましょう」
大金、社会的な成功、名誉、何だかんだと言って結局この男が願うのもそんな俗的な事だろう、そう少女は思っていた。
「本当、ですか」
男は顔を上げた。
少女はその顔を、その目を見た。その時、自分は何という馬鹿な事を考えたのだろうか、と少女は思った。
この男が願うのはそんな俗的なものではない事は分かっていた筈だ。
この男の願いは自分や身の回りの幸福などでは収まらない。そんな矮小なものをこの男は願わない。
エリュシュガーデン。
そうだ。この男の書いた本にはそんなものが書かれていた。あれは、只の設定上の都合などではない。
この男の秘めたる願望が発露したものだ。
「貴方の願いは理解した。人間の癖に、実に分不相応な願いだ。自覚せよ、神の手にも余る事を、貴方は人の身でありながら願っているのだ」
少女は呟くと、法水は項垂れる。
「……そう、ですか。やはり」
「だけど」
少女は手を差し出した。
「可能性はゼロでは無いかもしれない」
「ゼロでは、ない?」
法水は顔を上げる。その顔は、雷に打たれた様な顔をしていた。
「ええ。いくつか心当たりがあるの。もし貴方が望むなら、貴方の願いの成就に協力いたしましょう」
「あ、ああ。お願いだ、よろしく頼む」
差し出された手に、京一郎は迷わず手を重ねる。
少女の体が光に包まれる。京一郎はそれに驚くが、神様である筈の少女の方もそれに驚いた表情をしていた。
間もなくそれは強い光となり、京一郎は眩さに目を細め、そして閉じた。
光が収まり、京一郎はゆっくりと目を開けると、眼の前にいる少女の容姿は先程までとは全く別の物に成り代わっていた。
「信じられない、こんな事が」
少女は目を見開いたまま、呆然として呟いた。黒髪だった髪は銀髪へと変わり、目は青。装飾の少ないゴシック調の服装に身を包んでいた少女は、自分の姿を見る。
「ふむ、悪くはないわ。悪くはないけど、京一郎。お前はこんな少女趣味があったのね」
そう言って、少女は悪戯な笑みを浮かべて京一郎を見た。
「あくまで、物語を形作るために必要だったんだ」
「お前がそう言い張るなら、そういうことにしておきましょう」
京一郎は苦笑いする。
「そうだ。君の名前を聞いてなかった」
「私の名前?」
「そう。このままだと君を呼ぶ時に何て言えばいいか分からないじゃないか」
「そうね。ではこれからクロエ、と名乗ることにしましょう」
「クロエ?」
「やだ、自分が創造した女神様の名前を忘れちゃったの。案外薄情ね、京一郎という人間は」
「いや、そんなつもりじゃ」
「じゃあ、クロエで決まりね。改めてよろしく」
「あ、ああ。よろしく、クロエ」
「私が見届けましょう。京一郎、貴方のその願いの先にある末路を」
「ああ、喜んで。どうか、見届けてほしい。私の行き着く先にある結末を」
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