7章・4節

「何だ、もう逃げる算段か」

 きょろきょろと周りを伺う真人に対し、真羽は不敵な顔をしながら問いかけた。

 真人はくっくっと笑いながら目を細める。

「そんなわけあるかい。周りの状況を把握していただけだ」

「ほーん。そりゃ悪かったな。びくびくした小動物みたいなんで、ついどうやったら逃げられるかの方策を必死に練ってるんかと思ってた」

「ふん、魔女め」

 吐き捨てた真人の姿は徐々に朧気おぼろげになっていく。

「櫻子さん!」

「落ち着け、少年」

 真人の姿は完全に消えてしまった。

「奴は勝手に墓穴を掘る。その時は何も反応が無いと奴も寂しいだろうから、君くらいは嘲ってやりな」

「はあ」

 土門は真羽の言っている事が良く理解出来なかった。思えば、彼女の考えている事はこれまでも今いち掴みづらかった。

 魔女なのだから思考が読み取り辛いのは仕方が無い事なのだろうと、土門は改めて思い込む事にした。

 待つ事数秒間、突如、ガラスが割れる様な音がした。実際、土門が見たのは空間が割れている光景であった。真羽の背後、その空間が割れた先にいたのは真人。

 真羽が緩慢な動作で背後を振り返り、真人の頭へと手を伸ばした。しかし、真人はそれに何の反応も示さない。否、真人は反応していた。しかし、その動きは真羽以上に緩慢で、真羽の動きに反応が追い付いていない様子であった。

 真羽が真人の頭を掴む。

「やあ。五秒ぶりくらいかな」

 それだけ言うと、真羽はまるでピッチャーの投球フォームの様な動きで思い切り真人を地面に投げ付けた。

 土埃を上げる地面。普通の人間なら、複雑骨折していてもおかしくはないくらいの光景だった。

 少しの間の後、黒い大山椒魚オオサンショウウオの様なものが土埃の中から飛び出して来た。それは、弾丸の様なスピードで真羽に襲いかかり、真羽の腹を突き刺さった。

 う、と呻く真羽。その前方には、にやけた笑みを浮かべた真人が無傷のまま立っていた。

「はあ、悪い悪い。年甲斐も無く意地になってしもうたわい。こういう直接他人を傷付ける様な事は好かんのだがの」

 真人はそう言いながら相手の様子を伺う。

「ああ、それは悪かったね。所で爺さん、あんたはマゾヒストかね?」

「まさか。他人に傷付けられて恍惚とする程耄碌しとらんわい」

「そうか、それはちょっと申し訳ないな」

 じゃり、と音がした。真人が足元に違和感を感じて見下ろすと、足に鎖が巻き付いていた。

 痛いけど我慢だ。確かに真人は眼前の魔女の唇がそう動いたのを目にした。

 次の瞬間であった。真人は鎖に引き摺られて水平方向に引っ張られ、上に引っ張られた後、そのまま下に叩き付けられる。

「他人を陰からこそこそ虐めるのがお前の十八番だったのにな。こんな所に出端って来た以上、私の玩具になるしかないんだ、お前は」

 真羽の体に傷はなかった。突き刺さっていた筈の大山椒魚は既に地に付してぴくぴくと痙攣しており、その腹には突き刺さっていた痕跡を示すものは何一つ存在していなかった。

 真羽は休めずに鎖を動かし続ける。それに合わせて真人の体は引きられ、体を地面に叩き付けられた。

 真人は地面を転がり、その場にうずくまる。

「魔女、め。忌々しい」

 真人は地面を勢い良く叩く。すると、事前に仕込んでおいたのか地面から学校で見た様な異形の化物のミニチュアがいくつも這い出てきていた。それは、真羽に危害を加えようと、少しずつ彼女との距離を縮めていった。

「へ、まるでエイリアンだな。少年、そろそろ準備しな」

 真羽は鎖を操って真人を翻弄し続け、その体躯でもってその自分を襲わんとする化物を蹴散らした。土門は真羽の言葉にこくりと頷くと、土門は鞄のボタンを開き、中に手を突っ込んだ。

 取り出したのは黒と赤を基調とした弓矢。

 それっぽく構えて、射て。それが真羽からこの弓矢を渡された時に彼女に言われた事である。

 曖昧過ぎる。そもそも自分は弓道の経験もアーチェリーの経験も無いと真羽に伝えたら、真羽からは大丈夫、放ちさえすれば絶対当たるから、という返答が返って来た。

 土門は言われた通りに弓矢を構える。こんな事なら、弓道部の連中から弓矢の構え方を聞いておけば良かった、などと心の中で愚痴りながら。

 吉備真人。同情なんてしない。お前の受けた仕打ちは想像を絶するものだが、だからと言って、他人を弄ぶ様な奴を、友人を弄んだ奴に同情なんてしない。土門は、不思議と心の中が澄んでいる事に気付いた。

 愈々何のためにここにいるのか分からなくなって来たな、と土門は自分に突っ込みを入れながらもその矢を、ぼろぼろになり真羽の近くで蹲っている仇敵に向けた。

「何故じゃ、何故なんだ。ああ、ああ……!」

 そう呻く声は徐々に大きくなり、遂に真人は吠えた。その姿は既に異形のそれであり、その憤怒の声は最早ケダモノの声であった。内々に抱えていたものが表に発露したのであろう。

 だが、土門はそれを見ても怯まなかった。只、冴えた頭で淡々と自分のやる事を遂行した。

 矢が放たれた。それは、風を切りながら真人目掛けて一直線に飛んだ。

 それは、何の抵抗もなく、真人の中に吸い込まれる様に突き立った。

 数秒間の静止が続いた。

 真人の体がぼろぼろに崩れ落ちていく。真人は、如何とも形容し難い音を発しながら、目の前の真羽目掛けてボロ布の様な手を伸ばそうとした。しかし、手が真羽に触れようかという所で、その手は完全に灰になり、風に散らされてしまった。

「さよならだ、吉備真人」

 風で顔にかかる髪をかき上げながら、真羽は言った。


「吉備真人は、どうなったんですか?」

 真人のいなくなった広場で、土門は真羽に聞いた。

「まあ怨霊を殺す事は出来ん。何ったって、もう死んでるからな」

「じゃあ」

「いつか何かの拍子に力を取り戻すかもな。あれはもう、そういう類だ」

「そう、ですか」

「そう湿気しけた顔しなさんな」

「え」

「君は優しいな。あんな奴にまで同情してやるなんて」

「違います。同情なんかじゃない。またあいつが他人に迷惑を撒き散らすのが嫌なだけです」

「そうかい。気休めにしかならんかもしれんが、ま、どっかの神社にでも祀れば祟んないかもしれん」

「え」

「言ってみただけだ。私も神道については良くは知らんからな」

 風が吹いた。それは吹き付ける様な風ではなく、頬を優しく撫でる様な風だった。

「ああ。冷たいけど、悪くはない」

「あの、櫻子さん」

「何だい?」

 真羽が振り向くと、土門は少しだけ俯いて目を逸らしていた。

「ひょっとして告白かな? だとしたら照れちゃうね」

「いえ、すみません。違います」

「ああ、大丈夫だよ。冗談、だから」

 真顔で謝罪する土門に、真羽は戸惑いながら答えた。

「今改めて思ったんですけど、やっぱり櫻子さん一人で――」

「少年。やめてくれよ、そういうのは」

 真羽は土門の肩をぽん、と叩く。

「みみっちい事はいいじゃないか。私がそうしたかったからそうしただけだ」

「そう、ですか。何にせよ、ありがとうございます」

「いいよ。むしろこっちの気まぐれに乗ってくれて感謝してる。さて、と」

 真羽は顔を上空に向ける。

 そこには薄っすらとだが、空中に渦巻く光があった。

「あれって」

「タルタロスってやつだ。何も知らずに見る分は悪くないだろう。だが、彼処から出てくるのは現代兵器も舌を巻く程の大量殺人生物兵器だ。さて、後はあの子と滋丘の娘次第だ」

 真羽は言って、ふう、と白い息を吐いた。

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