7章・3節
「ここね」
透は言った。そこは木々に囲まれた雑草地帯で、一見すると何の変哲もない場所であった。
「とても何かがあるように思えない」
「そうですね。ですが、だからこそ何かを隠すにはうってつけの場所とも言えます」
透はその周辺を探るような手つきで動かす。
「トオル」
「ごめん、ちょっと探してみただけ。何か実感湧かなかったから」
透がそう言うと、イツキは笑った。透は少し頬を赤くする。
「何、そんなに可笑しかったかしら」
「いいえ。可愛らしくて良いのではありませんか」
「意味が分からない」
透はウエストバッグからダイダロスを取り出す。
「さあ、そろそろ始めるわ」
「ええ。始めて下さい」
透は目を閉じて、ぶつぶつと詠唱を始める。
「きゃ」
詠唱が終わったと同時に、突如透は弾かれたように尻餅をつく。
「いったー」
腰をさすりながら、透は前を見た。
「あれ、何も起きてない」
透は呟き、振り返る。
「ねえイツキ。もしかして私何か間違ってた?」
「落ち着いて下さい、透」
「落ち着いてって、何も起きてないのに落ち着いていら――」
背後で音がした。まるで、鏡が砕けるような音。透は背後を振り向いた。
そこには、明らかにこの場には不釣り合いな、巨大な建物があった。まるでギリシャ・ローマ建築を思わせるような荘厳な作りの神殿。
「ちょっと呪文の読み込みに時間でもかかったのでしょう。ままある事です」
「大きい。信じられない」
そこにあるには余りに異質で、これは幻なのではないかと透は思った。ただ一方で、とても綺麗だと思った。
「異界化というやつです。実際、この建物は本来山の上には存在しない。今もこの木々に囲まれた空間の外からはこの建物は見えず只の山が聳えているだけです」
「不思議ね。こんな日本の山の上にこんな異国情緒マックスの建物があるなんて」
「あるじゃないですか。市内にも」
「でも、ここまで遠慮のない建物はない」
「それは確かに」
「んで、イツキ。ついでにもう一つ」
「はい、何でしょうか?」
「上のあの鳴門海峡みたいのは何かしら」
言われて、イツキは上を見上げる。
「あー」
「ひょっとして、ひょっとしないわよね」
「ええ、あれはタルタロスですね。既に開きかけている。外から見えないのは、まだここが異界と現世の中間にある場所だからかと」
「そう、あれが」
透は空中に渦巻く光の渦を凝視する。
それは、幻想的な光景ではあった。しかし、あの先から産み落とされるのは只の残酷な災厄。
現世に存在する事を許してはいけない。神が人間社会に姿を見せない様に、巨人も人の世界を侵してはならない。
ここはもう、神秘に人間が振り回される神代ではないのだ。
「さあ、何はともあれ入り口が開いて良かったわ。行きましょう。ここで全部の決着をつけるの」
乳白色を基調とした建物の内部は広々としていて、天井は遥か上にあった。正面奥には、十メートルはあろうかという男の像がまるでこの部屋の主であるかの如く立っている。
その像の脇、そこに重厚な石造りの扉があった。
「行こう。この先に門がある」
透とイツキは扉に向かって歩き始めようとした時だった。
「成程。ここがタルタロスに繋がる神殿か」
男の声が響いた。透はその声にゆっくりと振り向く。
「来ると思っていました。法水京一郎」
透は落ち着いた声で告げた。
建物の入り口には、法水とクロエが立っていた。
「また会ったね、滋丘透。君と会うのは数日前の公園以来かな」
「ええ、まだそんなに経っていない筈なのに、あれから随分経ったように思える。でも、貴方の顔は決して忘れなかった」
「そうか。ところで、ダイダロスを持っているのだろう」
「ええ、勿論」
「ならば、渡してくれないかな。滋丘透」
「それは出来ない。法水京一郎。またあの時の問いです。何故、貴方はタルタロスを求めるのですか?」
「何故、かい?」
「そうです。ここまで来たんです。今更隠してどうするんですか?」
「別に、隠しているわけではないのだけとね」
「ロスト・ミソロジー」
法水ははっとして透を見た。
「詳しくは言いませんが、とある経由でそれを手に入れました。本の中に、こういう記述があります。この世界から切り離された何処でもない世界。そこは人々を追い詰める絶望的な状況も不条理も、飢えも差別も偏見も何もなく、代わりに平和や祝福、幸福で満たされていると。その場所の名はエリュシュ・ガーデン、又の名を永遠郷、ヤヒロトコシエノニワとも。ひょっとして、貴方は」
「ああ、そうだ。私は私がかつて夢想した理想世界を、タルタロスを開く事で実現させる」
「……タルタロスは巨人の牢獄。災厄の詰まった門です。私は以前、それを目にしました」
「ああ、そうみたいだね」
「非道い有様です。人がボロ布の様に崩れ落ちていきました。大人も子供も関係ない、皆あれの前には平等でした。あんなものは、もうここに喚び出してはいけない。なのに貴方はそれを、また再現しようとしている」
「滋丘透。ダイダロスを、鍵を渡してくれないか」
「いいえ、渡しません」
法水は黙ったまま、透を見る。
「法水京一郎。貴方が一体何を経験して、何を見てそこまで考えるのに至ったのか、それは分かりません。確かに、それ相応にたる理由はあったのかもしれません。ですが、そんな叶うか分からない目的のためにタルタロスを開かせるわけにはいかない。いいえ、そもそも門自体を開かせるわけにはいかない。門が開けば今度こそ数え切れない程の被害が出る。そんな事を私は認めるわけにはいかない」
「そうか。では、どうする?」
「滋丘の人間として、貴方を止めます」
少しの間、場がしんと静まる。しかし、その静寂をクロエが打ち破った。
「来なさい、坊や」
クロエはイツキに言った。
「私と坊や、滋丘透と京一郎。この組み合わせで決闘しましょうって提案しているの。それとも、主人離れが出来ていないのかしら」
「まさか」
イツキは透の方を振り返る。
「私は大丈夫。話し合ったと思うけど、これも想定内よ」
「トオル」
「神様とエリートさん止めるんだもの。少しくらい私だってリスク背負わなきゃ。だからクロエは任せたよ、イツキ。私は、必ずこの人を止めるから」
「はい。分かりました」
「坊や、外に出ましょうか。滋丘透を巻き添えにしたくないでしょう?」
「言われなくても」
クロエの姿が霞の様に消えた。イツキは、入り口に向かって歩き始めた。
法水とすれ違う。イツキは彼を横目で見るが、法水は前方を見据えたまま何の反応も示さなかった。
やがてイツキの姿も消えてしまった。
「行ったようだね」
法水は淡々と言った。
透は何も答えずに手に忍ばせていた、剣を型どった紙を軽く振る。それは、薄い光を放つ簡素な剣へと形を変えた。
「貴方は只の人間だ。そして、貴方を守るクロエはここにはいない」
「だから私には勝機がないというわけか」
「はい。貴方では私には勝てません」
「だけどね、少し離れたからといって、クロエから支援魔術を受けられないわけではないよ」
「いいえ。クロエはそんな事に力を割けないです」
「何故?」
「イツキがそんな事をさせないからです」
それを聞いて法水は軽い笑みを浮かべる。
「そうか。それは想定外だ。では私一人で何とかするしかないか」
そう言って法水はぶつぶつと呪文を唱え始めた。
「何を――」
言って、透は目を見張った。
法水の手には、いつの間にかサーベルが握られていた。
「クロエから少しだけ魔術の手ほどきを受けた。とりあえず、紛い物だがこれくらいの物を出す事は出来るようになったというわけだ」
法水はその刀身を透に向けた。
「済まないね。学生だからといって手加減をするわけにいかない。何をしてでも、タルタロスへと至ってみせる」
透はすぐに気持ちを引き締め直し、力強い眼差しで法水を見据えた。
「結構です。私も手加減はしませんから」
透は一歩も退くつもりはなかった。
それが、たとえ法水京一郎を殺す事になったとしても。
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