7章 その子の望んだ世界
7章・1節
夜は八時に差し掛かろうとしていた頃であった。
「イツキ、準備はいいかしら」
いつものようにコートを着て、ウェストバッグを着けた透は言った。
「はい。私の方はいつでも。しかし、よろしかったのですか?」
「姫子さんの事?」
「はい。彼女がいた方がいざという時にも対応出来るかと」
イツキは言った。
今日の朝方から、姫子は熱を出してしまっていた。昨日の出来事が思いの外彼女に負担をかけたのであろう。命に関わる様なものではなかったが、とても動けるような様子ではなかった。
私も手伝うわ、姫子は出発する前にそう言って体を起こして来たが、透の指示を受けたイツキによって程なく眠らされる事になった。
「いいえ、姫子さんが回復するのを待つ必要はないわ。言ってたじゃない。これ以上焦らすと法水京一郎とクロエが強硬手段に出るかもしれないって。それとも、あれだけ自信満々に彼らの秘密を教えてくれたのに、今更怖気づいちゃったとか」
その試すような問いに、イツキは肩を竦める。
「まさか。それではもう何も言いますまい」
「よろしい」
「それで、透の方はよろしいのですか? 女の子の支度は時間がかかると言います」
「あら、主人に対して随分とした口振りね。いつからそんな軽口を叩く様になったのかしら」
「申し訳ありません。つい」
「真面目に答えるとケーブルカーの時間が無くなってしまうから、これ以上は遅らせられないわ。それとも、頑張って登山する?」
「吝かではありませんが、今回に限ってはケーブルカーを使わせていただきたいものですね」
「じゃあ決まり。出発しましょう」
「あー」
「ん? どうしたの?」
イツキは外に出るなり、まるで宿題を忘れた小学生の様に口をあんぐりと開けた。
「すみません。私は徒歩なので、少しだけ先にケーブルカー乗り場まで行っております」
「え、ああ、いいけど」
その提案に少し不自然さを感じながらも、透は頷いた。
「何かあったらお呼び下さい。不審な人物は近付けないように」
「まさか、前回の
透は頷くと、イツキはそそくさとその場を後にした。透はイツキが居なくなった後で首を傾げる。
「変な子ね」
そう言いながら庭の隅へと歩いていった。
目的地である北上山の山頂へはケーブルカーが出ているが、透はそこへは自転車で行く算段であった。ケーブルカー乗り場前のバス停はあったが、バスは遅れる事がある上に、大幅に迂回をするからだ。透の自宅から大真面目にバスを使うとなると、最寄りのバス停行く時間を含めると軽く四十分近くはかかってしまう。それよりはちょっとしたウォーミングアップも兼ねて自転車を使った方が遥かに有意義だと透は考えた。
彼女は愛機のミニベロのスタンドを上げると、自宅の門を開いて外に出た。
いつもの静謐な夜だ。透は深呼吸をした。
「よし」
透はサドルに跨ろうとした時であった。
ふと、近くに誰かの気配を感じた。
「透」
呼ばれて、透は振り向いた。そこに立っていたのは満であった。
「お父さん」
「行くのか」
そう言った満の顔は、透がこれから何をしようとしているのかを悟っているかの様な顔であった。いや、実際に知っているのだろうと透は思った。何故なら、満が六年前の事を知らない筈はないのだから。
「うん。止めたって行く。私はやるって決めたんだ」
「ああ、分かっている。なら、これを持って行きなさい」
そう言って満はお守りを差し出した。
「これは」
受け取りながら透は言った。
「昔、母さんが作ったものだ。お前に渡そうとしたのだが……透、母さんはな」
「うん、知ってるよ」
それを聞いて、満は目を見開いた。
「透、ひょっとして」
「うん。思い出したよ。お母さんの事も、あの門の事も、何が起きたのかも」
「そうか」
満は、そう言って、静かに頭を下げた。
「父さん?」
「済まなかった、透。お前の気持ちも考えず、私の勝手な判断で母さんの事を、話さなかった」
「ねえ父さん。私に謝るのは間違ってるよ」
「透?」
「だって、父さんは私の為に最善を尽くしてくれたんだもの。父さんは、私が母の死を思い出して駄目になってしまわないようにしてくれた」
「ああ、済まない」
「だから謝らないでってば。それじゃ、自分のやってる事後悔してるって事じゃん」
「ああ、そうだな。確かにそうなってしまう」
ばつが悪そうに満は顔を背けた。
「ねえ父さん」
「ん? 何だ」
「あのね、何か、さ。ちょっと上手く言えないんだけど、ほんと、こんな面倒臭い娘の事、しっかり面倒見てくれて、ああ、その、あり、が、とう」
透は頬をほんのりと紅潮させながら言った。満は少しだけ戸惑った後、やんわりと口元に笑みを浮かべる。
「ああ、どういたしまして」
「んじゃあ、あんまり時間もないし、そろそろ行くから」
「ああ、行ってきなさい。そして、必ず帰って来なさい」
「勿論、言われなくても帰って来てやる」
そう言って、透は父の元から離れて歩き出した。
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