6章・5節

 ――その子は、物心ついた時には奴隷であった。自分が何処で生まれたのか、誰から生まれたのかも定かではないその子は、ある時とある市民に買われた。

 それからというもの、その子は今日明日を生き抜く為に主人の言う事を聞き続けた。主人はその子にとっていい人ではなかった。事ある毎に手を上げたし、食事だって、まるで犬にでも食わせるかの様に地面で食べさせた。

 その子にとって幸いだったのは、そんな日々が長くは続かなかった事だ。

 戦があったのだ。その子のいた国は征服され、その主人から解放された。

 次にその子を買い取った主人は優しい人間であった。奴隷である筈のその子に教育を受けさせ、まるで我が子の様に接してくれた。その時代がいつかは分からない。だから、その当時の社会がどうだったかなんて知らないけれど、その子はとても感謝していたらしい。

 やがてその子はある先生の元で学問をする様になった。その先生は女性であったが、才知の誉れ高く、評判は凄ぶる良かった。


 ――憧れの先生がいて、切磋琢磨する友人がいた。

 多分、この時がその子にとって最も幸福であった時期であろう。そう言っても差し支えないくらいその子は殆どいつも幸せそうだった。勘違いかもしれないけれど、淡い恋心の様なものを先生に抱いている様子もあった。

 ただ、その時は長くは続かなかった。

 ある日、その子はいつものように先生の元へと赴いた。少し違っていたのは、その子がいつもと違ってとても上機嫌であった事だ。何故なら、その子は以前先生から出された三つの課題に対して、答えを導き出したからだ。その子はそれを早く先生に伝えたいと、いつもより少しばかり歩くスピードを速めた。

 先生! 丘の上にある学堂の庭に着くなり、その子は元気な声で言った。

 ああ、誰かその子に予め告げる者がいれば良かったのかもしれない。そうすれば、その子は覚悟を持ってそこへ赴く事が出来たのだから。

 その子は、手にしていた先生へのお土産の果物をその場に落とし、力なく膝をついた。

 その子はただただ呆然としていた。目の前の事実をどう処理すればいいのか分からず、ただ、自分を守るために思考をシャットダウンしていた。

 先生は庭の草地の中に倒れたまま、ピクリともしなかった。あちこちに痣があり、綺麗だった髪はくしゃくしゃで衣服は剥ぎ取られていた。

 先生の亡骸を只々その子は見ていたのだ。先生はその子にとって憧れの人であった。だから、この現実を覆してくれるとぼんやりとした思考で考えていたのだ。

 だけど、そんな奇跡みたいな事は起こらなかった。

 先生の亡骸は、暫くしてやって来た同輩の手に手厚く葬られた。


 ――後に判明した事だが、それは、先生の事を快く思わないとある信徒達の仕業であった。兼々、先生は神話や神様に疑問を抱いていたからだ。決してその存在を否定していたわけではない。しかし、自分達より優れた存在である筈の神が余りに感情的で短絡的である事等々に関して、彼女は疑問を持ったのだ。ひょっとして、神話や神はその時々の人間達によって都合良く歪められているのではないか、などと。

 しかし、それはタブーに触れてしまう行為であり、先生を襲う口実にもなった。先生が女であった事も手伝って、いつしか彼女は邪教を教える悪霊の類だという噂が市民の間で広まり、それにかこつけて暴徒達による私刑が敢行される事になった。

 だけどそんな事はその子にとっては一番の問題ではなかった。


 その子は、とても大切な人を失ったのだ。

 只その事が、その子にとって先ず何よりも憂慮すべき問題だった。


 その後、その子は紆余曲折を経て一国の王様になった。人を裏切り人に裏切られた事は何度あっただろうか。時に友人に裏切られ、恩人を裏切りながらもその子は立ち止まらなかった。その理由は簡単だった。いつか先生が言っていた事を、その子は実現してみたいと思ったからだ。


 皆が幸せに暮らせる世界になったらいいのにね


 いつもは思慮深い先生だったが、何故だかその時はひどく感傷的で非論理的な事を言った。ひょっとしたら、それは先生が心の奥底に抱いていた願いだったのかもしれない。

 皆が幸せに暮らす世界とは? その定義は? 条件は? 具体的には一体どんな手順を踏めばいいのか? 

 その子は考えてみたが分からなかった。だから、先ず自分の手の届く範囲の人達を幸せにする事を目指そうと思ったのだ。そうすれば、自ずと見えてくるのではないかと考えて。

 だけど、その子はそれすらも叶えられなかった。誰かを幸せにしようとすればするほど、必ず切り捨てなければならない者達が生じた。その子は必死でそのジレンマを解決しようと足掻いたが、突きつけられる現実は決まって不可能という結論だけであった。

 その子は挫折した。

 その子は王として考えられる責務を果たした後、忽然と姿を消し、以後、その後歴史の表舞台に姿を表す事はなかった。

 

 いつかの日にその子は泣いていた。多くの人を踏み躙って来たのに、大して何も変えられなかった事に。自分が平凡で結局誰も幸せに出来なかった事に。そして、自分ではその願いを叶えられないと思い知らされて。


 イツキは、今日の今日まで生きてきた。

 その夢を諦めつつも、未だ引きずり続けながら。


       *


 準備の方は昼前までに終わってしまい、透の思っていたよりも早く完了した。

 北上山へ赴くのは夜。それまでの時間、宙ぶらりんになった時間で特にやる事も無いのでダメ押しに確認等をしていた透の元に、イツキがやって来た。

「トオル、準備が終ったのなら、少しだけ時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

 それは、イツキの突然の申し出であった。透は首を傾げる。

「いいけど、どしたの?」

「いえ、タルタロスの件とは関係は無いのですが、どうしても行きたい所があるのです。お願いします」


「すみません、トオル。こんな事に付き合わせてしまって」

 夕暮れの学校の屋上、塔屋の上で校内を見渡しながらイツキは言った。

「トオルに校則違反させてしまいました」

「いいわよ。どうせずる休みしてしまってるんだし、今更校則の一つや二つ。いや、まあ迷惑かけないなら、ね」

 イツキの隣で座っていた透が少し弱々しく言うと、イツキはくすくすと笑った。

「トオルは真面目ですね」

「そこ笑うとこ? まあいいわ。ねえ、イツキ」

「何でしょうか」

「私、貴方が珍しく我儘わがまま言ってくれたのは嬉しかったのだけど、こんなんで良かったの? 学校を見たいだなんて」

「ええ、勿論です」

 透はイツキの横顔を見た。

 イツキは下の方を見下ろしながら、「野球の音が無くなったのは少々寂しいですね」などと言いながら微笑んでいた。

 ああ、本当に。

 こんな何でも無いものをとても愛おしそうに見るんだね、君は。

「イツキはさ、その、学生生活というか、青春とかしてみたかった?」

「どうしたんですか? 急に」

「いいから。黙って答えなさいな」

「そうですね。送ってはみたかったかもしれません。勿論、学生生活というのがそう甘くない事も分かっています。今こうしている中でだって、色々抱えながら皆日々を送っているのでしょう。もしかしたら、いじめだってあるのかもしれない」

「イツキ」

「ですが、それでも今こうやって見る光景は、只とても美しくて、えも言われぬ気持ちにさせてくれるのです。私は、この光景が好きです」

「そっか」

「あの、トオル」

 少し躊躇する様にイツキは言った。

「何? 言いにくそうな顔をして」

「ひょっとして、なのですが、私の過去を見ましたか?」

「ああ、それはーその」

 透は気不味そうに顔を背ける。

「トオル、どうか正直に答えてください」

「えと、ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったのだけど、うん、見た。見ちゃった」

「そうですか。何だかトオルらしからぬ事を聞くものですから、もしやと思いましたが、やはりそうだったのですね」

 イツキは笑みを浮かべながら目を細める。

「碌でもなかったでしょう」

「碌でもなんかないよ。絶対に。私が保証するから」

「はは、それはとても心強い」

「ねえ、イツキ。たまにはさ、泣いたっていいんだよ」

「そうですね。私も偶には泣きたい気分にはなります。ですが」

「ですが?」

「泣くには少々、歳を重ねすぎてしまいました」

 イツキは少し寂しそうに笑った。その笑顔の奥に、どれだけの悲痛な思いがあったかは実際の所、透には分からない。ただ、およそ推し量れない内面を抱えたその顔は、それでも、あるいはそれ故にとても愛おしく、美しく思われた。

「私には縁のなかったものですが、透はしっかり学生生活を謳歌おうかしてください」

「ん、言われなくても。ま、先ずは復学へのリハビリね」

「はは、巷で言う所の五月病みたいなものですか」

「そうそう。しかも私だけのずる休みだから、筋金入りの五月病よ」

「それは、大変ですね」

「そうよ。とっても大変なの。はあ、タルタロスの事が片付いてからが本当の戦いね」

 透は笑いながら、憂鬱そうに言った。

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