6章・3節

 北上山の頂上は古くから景勝地として知られており、特に高度成長期に開発が進んでからは夜景スポットとして人気の場所であった。

 ケーブルカーで登ってすぐの所には展望台がある。また、少し進むと土産店やメルヘンチックなアクセサリー店等があり、現在は登山というよりは、観光地やレジャーの場所としての性格が強くなっている。

 ケーブルカー乗り場の建物から外に出た姫子は昂った心を鎮める為に深呼吸をする。

 落ち着きなさい、姫子は自分に言い聞かせた。彼女は失敗もそれなりに経験してきたが、土壇場では必ず成功を勝ち取っており、それが彼女の自信にも繋がっていた。

 今までと同じだ、姫子は目を閉じる。適度に緊張して、集中を高める。そして、物事を一気に片付ける。

「よし」

 姫子は歩き出そうとした。

「あのー、お姉さん」

 唐突に呼びかけられて、姫子は少しどきりとした。彼女が振り返ると、そこにはコートを来た小柄な老年男性が立っていた。近くには連れと思しき女性が展望台の方を見ている。

「落としましたよ」

 そう言って男性は何かを差し出す。姫子がそれを見ると、それは彼女の手帳であった。

「すみません。ありがとうございます」

 姫子は丁寧にお辞儀をしてそれを受け取った。

「ちょっと色々ありまして。傷心を癒やすためにここに来たんです」

 老人が少し心配そうな顔をしているのに気付いた姫子は咄嗟にそう答えた。北上山は登山客でも無い限り、あまり一人で来るような所ではない。そのため老人は一人でいる姫子の事が気になったのだろうと彼女は考えたのである。

 姫子の言葉を聞いた老人は少し安堵の表情を見せる。

「そうですか、それなら良かった」

 そう言って人懐っこそうに老人は笑った。連れの女性が呼んでいる事に気付いた老人は、「おっといけない」と少し焦った様に言った。

「それでは失礼します」

 そう言って老人は小走りに女性の元へと行った。

「少し気持ちが焦っているのかしら」

 二人が乗り場の駅舎屋上の展望台へと登っていくのを見送った後、姫子はそう呟いた。


 姫子は周りの視線に気を付けながら道を逸れ、草木が生い茂る方向へと入っていった。

 当然の事ながら全く整備されていない土地であったが、姫子は構わず腰辺りまで伸びている草を掻き分けて進んでいった。しばらく行くと、何も無い原っぱの様な広場と、少しなだらかな坂があった。姫子は広場を横目に、坂道を登っていく。すると、視界が開けた場所へと出てきた。

 少し強い風が吹き抜ける。

「ここがそうなのね」

 姫子は辺りを見回した。眺めは良いが、少し奥まった所にあるためか、その場所は開発らしき痕跡は無かった。

「でも」

 不自然だと姫子は思った。周りは草木が生い茂っているのに、この場所だけ開けている。それは、果たして自然の力だけで成し得るものなのであろうか。

「いいえ、考える迄もないわね」

 姫子はその広がりの中心部分と思しき場所まで歩いて行った。

「ここでいいかしら」

 姫子は徐にコートの内ポケットから小箱を取り出す。中を開くと銅鏡が入っていた。

「久し振りに客人というわけですね」

 唐突に背後から幼い少女の声がした。

 はっとして姫子が振り返ると、そこには少女が立っていた。

 十を一つか二つ過ぎたばかりであろうその少女は白無垢姿であり、半透明な被衣かつぎから覗く髪は雪の様に白かった。

「月隈のかんなぎよ。異界破りなどする必要はございません」

「貴方は何者?」

「申し遅れました。私は神守、いえ、タルタロスの門番を務めている雛子と申します」

「門番?」

「はい。役割としてはその名の通り、門を不逞の輩から守り通す事にございます」

「そう」

「時に月隈の者。貴方様は如何様いかような目的にてここへと参られたのですか?」

「勿論、タルタロスの門よ」

「失礼いたしました。聞くまでもなかったですね。しかしながら、門の修復には滋丘の者が立ち会うかと思いましたがこれは少し意外な事態となりましたね」

 そこまで言って、雛子は目を細める。

「いえ、もしやにございますが、貴方は門を開こうとしている?」

「……

「なりません」

 まるで中身がごっそり変わったかの様に雛子の雰囲気が変わったのを姫子は感じた。

「月隈の者よ。何処いずこにての事を知ったのかは存じませんが、門へ近付くのであれば、滋丘の者の了承を取ったと証明出来る物が必要にございます。門を開くのであれば、いえ、そもそもそんな事は想定外なのですが、もし開く事という事になりましたならば、少なくとも滋丘の者の立ち合いを要求いたします。つまりは」

「出直してこいって事ね?」

「はい。ご足労頂きながら誠に遺憾ですが」

「ごめんなさい。その言葉は聞けない。あの門なら、災厄を外に出す事はないのでしょう?」

「確かに仰る通りにございます。ご存知かもしれませんが、キュクロプスは滋丘の春之助様がしつらえたもの。目的は、の様子を監視するためのものです」

「ならば、何の問題も無い筈」

「なりません」

「その理由は?」

「そう仰せつかっておりますので」

 姫子は少しだけ口元を歪ませる。その微細な変化を読み取ったのか、雛子は怪訝な顔をした。

「一体、貴方様は何を求めておいでなのですか?」

「話した所で……」

「改変、にございますか?」

 姫子は目を見開いた。

「やはりそうなのですね。貴方様は大事な方、葉月様を亡くされたから、その事実を無かった事にされたい」

「聞き届けられないなら、強引にでも通らせていただきます」

「私の様な端女はしためには貴方様の深い悲嘆を推し量る事もかないません。ですが、例外はございません。月隈の姫子様」

「何かしら」

「最後の忠告にございます。どうか、ここはそのたかぶるお気持ちをお沈めいただき、お帰りいただきたく。滋丘の立ち合いございましたら、私めも貴方様に」

「ごめんなさい」

 姫子は鞘をしたままの刀を取り出し、そのまま雛子に斬り掛かった。

 しかし、鞘付きの刀は雛子の体に達する前に強い衝撃によって弾かれた。

「怪我をさせたくないというお気遣い、痛み入ります。ですが、貴方様のその行動を看過するわけには参りません」

 姫子は無言のまま刀を構える。

「ですから、私もそれなりの対応をさせていただきます」

「え」

 姫子。

 その声に姫子は激しく心を揺さぶられた。恐る恐る姫子は背後を振り返る。

 ――あ。

 あの時と変わらないショートの髪、溌剌はつらつとして愛嬌のある顔、ボーイッシュな服装。

 そこには、文乃葉月があの時のままの姿で立っていた。

「葉月、ちゃん」

「少し大きくなったかな、姫子」

 そう言って笑う葉月に、思わず姫子は笑みがこぼれた。

「そうだよ、だってあれから六年も経つんだもの」

「そっか、そうだよね。にしても姫子、成長したね」

「ええ、勿論よ。私だっていつまでも葉月ちゃんに依存していられないもの」

「そうだね。少し寂しい気もするけど、それは大事な事だ。良かった良かった」

「ねえ葉月ちゃん。私ね、貴方と一杯話したい事があるの」

「そっかそっか。あれね、積もる話ってやつ?」

「そうよ。だって長く会ってないんだもの。一体何から話せばいいのか」

 そうやって喜々とする姫子だったが、ふと、葉月が憂いを帯びた顔である事に気付いた。

「どうしたの、葉月ちゃん」

「あのね、姫子。私、さ。貴方に話せる事が無いんだよね」

「えと、何を言っているのかしら」

 途端に、眼前の光景が変わった事に姫子は思わず目を見張った。

 その光景には見覚えがあった。青い炎に包まれた光景。崩れ落ちていく人。

 幻想的で美しい光景なのに、実際にそこにあるのは只の地獄。

「やだ、何これ」

 姫子は辺りを見回す。何処を見ても、彼女が記憶しているあの時と同じ光景であった。あまりに強烈過ぎて脳裏に焼き付いた、美化も風化もないありのままの光景。

「葉月ちゃん!」

 姫子は叫んだ。いつの間にか葉月が姿を消していたからだ。

 姫子は叫び続ける。まるではぐれてしまった母親でも求めるかの様に必死に叫んだ。

 ふいに、姫子は腕にずしりとした重みを感じた。布越しに感じる柔らかい肉の感触。姫子はその抱えているものが何かを確かめたいと思う一方、確かめる事への恐怖に襲われた。

 姫子は、まるで見てはいけない物を見るかの様にゆっくりを視線を下ろす。

 そして、それを見た。

「葉月……」

「姫子成長したのにね。私は姫子に何の報告も出来ないや」

 だって、私の時間はあの時止まってしまったから。

「いや、違うの」

 こんなのは違う。あってはならない事なの。だって、貴方がいたから私はやってこれた。

 姫子の頬に手を触れる。

「姫子、ごめんね」

「いや、いやよ」

 慟哭どうこくが辺りに木霊こだました。恐らく、彼女は人生の中でこれ程までに慟哭した事は無かったであろう。彼女を知っている者が見れば、それを本人だとは到底信じなかったであろう。

 体裁など構わない。彼女の嘆きは、人としての何かが決定的に壊れた様な響きがあった。

 やがて慟哭も収まり、姫子は「やだ、やだよ」などと、まるで駄々をこねる子供の様に啜り泣く声に変わっていった。

 黙ってそれを見つめる雛子。その瞳には侮蔑の色も無ければ、また、敵愾てきがいの色もない。只、感情の起伏の乏しい彼女にあったのは少しばかり憐憫の情だけであった。

「当時の記憶を意識の表面に顕在化させました。貴方様がそれに対してどう反応をお示しになったのか迄は具体的に把握しかねますが」

 雛子は目を細める。

「そこまでのショックを与える事になるとは雛子めも思うておりませなんだ」

 姫子は刀を抜いた。それから、その刀をゆっくりと自分の喉元へと寄せる。

「葉月」

 姫子は、その刀を引いた。


 血が滴り落ちる。姫子は目を見開いていた。

「……死に体っつっても、痛いもんは痛えんだよな。ったく」

 刀身部分をがっしりと掴まれ、刀は微動だにしない。

 姫子は只、呆然と目の前を見つめていた。

「そんなに見つめないでくれよ。惚れちまうだろ」

「何で」

 絞り出すように姫子は目の前の男に言った。

「何でって言われても、そりゃあ、そうしたかったからさ」

 そう言って、竹蔵は快活とした笑みを浮かべた。そのまま姫子から刀を奪い取る。

「これはとりあえず没収だ」

 姫子は暫く竹蔵を虚ろな目で見ていたが、やがて、力なく俯いた。

「斬らないの? 私は、貴方の寿命を縮めた張本人なのに」

 呟く様な声で姫子は言った。

「いやまさか。どちらにせよあの時俺は旦那に反旗翻しちまってたんだ。遅かれ早かれこうなってたさ」

「そう」

「おっと、舌噛むような事をするなよ。んな事しようとしたら、あんたの口に手突っ込んで無理やり止めてやる」

「どうしてそんなに構うの」

「そりゃあ、さっきも言ったがそうしたかったからだ」

「何で。私が死んた所で貴方には何の関係も無いのに」

「関係無くはないだろう。ま、細かい事はいいじゃねえか。俺は、意地でもあんたを死なせたくない。少なくとも、今此処では絶対にだ」

 少しの間竹蔵は姫子の返答を待っていたが、姫子はまるで死んだように微動だにしない。

「なあ嬢ちゃん。胸触ってもいいか」

「駄目」

 反射的に返された言葉に、思わず竹蔵は笑う。

「何だ、まだ断るくらいの気力はあるんじゃねえか」

「破廉恥ね。昔の男って皆そうだったのかしら」

「さあね」

 竹蔵は顔を背けると、丁度背けた先に雛子が立っているのが目に入った。

「死人、にございますか」

「ああそうだ。これまた可愛らしい嬢ちゃんだこと。これはあんたの仕業か」

「……否定は出来ません。しかしながら、言い訳がましい事ですが、私は少し揺さぶりをかけたまでです。こうまでなってしまうとは全く想定外でございました。まるで」

「誰かが無理やりそうさせたみたいだ、とか」

 雛子はこくりと頷いた。

「成程ね」

 竹蔵はしゃがみ込む。

「なあ嬢ちゃん。歩けるか? 家まで送ってやるよ」

「放っといて」

「と言われてもな。仕方ない」

 そう言うと、竹蔵を軽々と持ち上げた。

「なっ」

「悪いが、俺は現世の人間じゃないんだ。だから破廉恥などと言われても聞く耳持てんぜ。それとも抵抗するか?」

「もういい。好きにしなさい」

「ああ、そうさせてもらう」

 竹蔵は雛子の方を振り返る。

「一応確認なんだが、後ろから刺してきたりしないよな」

「はい、勿論でございます。私の役目はあくまで門を守ること。誰かを殊に損なう事ではありませんので」

「そうかい。じゃあ退散させていただく」

「はい。どうかご達者で」

 竹蔵は少しだけ笑みを浮かべてその場を飛び去った。


 竹蔵はおよそ人間では考えられない脚力と跳躍力でもって、山を下りていった。

 風が吹き付ける。寒いというより、少し痛みのある風。それも無理はないと姫子は思った。何故なら元々の寒気に加え、今はかなりの速度で移動しているのだから。

「貴方、不思議ね」

 観念しているのか、大人しく竹蔵に抱えられたままの姫子は言った。

「ん? 何がだ」

「死人というのに、死臭がしないわ。寧ろ、少しいい香りがするもの」

「そりゃあ、旦那の腕が良かったんだろうな。そこに関しては旦那に感謝だ」

「貴方は、もっと生きたいとは思わなかったの?」

「ああ、それか。前に別の嬢ちゃんにも言ったんだが、生きたいとは思ってたさ。第二の人生に強い興味があったからな。だが人間のさがってのがどうも邪魔して、結果的に旦那を裏切っちまったし、あんたを助ける事にもなった」

「後悔は?」

「しているし、していない。だが間違いなく言えるのは、俺は間違ってなどいないという事だ」

「強い自信ね」

「だろ? あ、ところで何処に連れていけばいいんだ」

「もう、何も考えずに連れ出したの?」

「悪い、済まなかった」

「ふふ、冗談よ。滋丘の館って言えば分かるかしら」

「そうだなー。出来れば、道案内を頼みたい」

 竹蔵は困った様に言った。


「ありがとう、ここで十分よ」

 滋丘の家のすぐ近くにある公園まで来たところで、姫子は言った。

「そうか」

 竹蔵は姫子を下ろす。

「だいぶ落ち着いて来たみたいだな」

「ええ。お陰様で」

「んじゃあな」

「ええ、ありがとう」

 姫子は踵を返してその場を後にしようとするが、ふと振り返った。

「今気付いたのだけど、貴方みたいな人、結構好きかも」

 そう言って姫子は少しだけ微笑むと、その場を後にした。

「嬉しいねえ」

 一人残された竹蔵は呟いた。

「さて、もう時間も残されちゃいないか」

 竹蔵は手のひらを見た。指先の辺りが毒に侵された様に黒ずんでいる。

「ま、これはこれでいいかね」

「それでええんならええけど、最後に華々しく散るのも悪うないんやあらへんか」

「ん?」

 竹蔵はふと公園の脇を見た。そこに立っていたのは六条院であった。

「何日かぶりやなあ」

「おお、いつぞやの別嬪の鬼さんか。確か、紅葉さんと言ったかな」

 それを聞いて六条院は片手で口元を覆い、目を細める。

「せやせや」

「今日はどないしたんどすかー」

「竹蔵はん、口調移っとるよ」

「いや失礼仕った。つい真似したくなってしまってね」

「ま、私も元々似非えせもんやねんけどな」

「紅葉殿よ。旦那はもういないぜ」

「やっぱそうやったか。道理で探しても居ないわけや」

「蛇足で言うと、俺ももう長くない」

「やろなあ。持って夜明け前、持たんで間もなく、って感じやもん」

「多分そんな感じだ」

「最後に只終わりを待つだけなんも寂しかろ? せやから私の遊び相手なってくれへんか」

「いいとも、鬼と仕合出来るなんざ滅多にない。だがその前に一つ、約束してくれないか」

「何や」

「嬢ちゃん達にもうちょっかいかけるのは勘弁してやってくれ」

 六条院は目を丸くする。

「可笑しな人やな。あんさんも、敵同士やった筈やのに」

「成り行きでな。あんた十分楽しんだだろ。じゃあ今回は手を引いてくれんかね」

「はあ、仕方あらしまへんな。やけど、半端な仕合なったら承知しまへんで」

「勿論だ。文字通り死力を尽くして立ち合おう」

「決まりやな。ほなら少し広い所に移動しようか」

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