6章・2節
透とイツキは日を跨ぐ頃にようやく帰宅の途に着いた。
しかし、家に帰り着いてみると姫子の姿は無く、彼女が帰ってきたのは二時を過ぎようかとしている頃であった。
姫子が帰って来た時、いつもの彼女と様子が異なっていた様に透には思われたが、かと言って彼女は傍目から見たら元気そのものだったので、透は敢えて追及はしなかった。
「姫子さん、朝は遅いのかしら」
翌日、透はいつもより早く起きていた。昨日は彼女も疲れていた筈だったので、むしろ遅く起きるのが道理であると透は思ったが、早く目が覚めてしまったものは仕方がなく、また、いやに目も冴えていたのでそのまま起きる事にした。
しかし、別段早く目が覚めた事に可笑しな事などないと透は悟った。
起きて間もなく、疲れが体中に溜まっている事に気付いたのだ。恐らく、昼を過ぎた辺りで猛烈な眠気が襲って来るであろうと透は悟った。
「分かりませんが、昨日はとても動き回っていたからではないでしょうか?」
「何故か私は起きてるけどね」
「しかしだいぶ疲れが溜まっている様に思います。昼食を摂りましたら、一度お休みになられた方がいいかと」
「いいえ。そういう訳にはいかないわ」
「焦ってはいけません。目下の脅威は去ったのです。既にタルタロスの場所も目処が付いている。そうでありましたならば、今は万全を期す事に全力を注ぐのが懸命かと。そして先ず貴方のやるべき事は、確実に疲労を取ることでしょう」
「そんなに疲れている様に見える?」
「ええ。目に隈が出来てますよ。これではまるで徹夜明けの大学生だ」
「う」
やはりしっかり見ているなと透はイツキの観察力に感心する。透はあまり人の変化に鈍感だという自覚がある。むしろ、他人がいとも簡単に他人の特徴を覚えていたりする事が不思議でならないと思ってさえいた。
「いや、まあ後で休むわよ。でもま、油断は禁物でしょ。昨日の件もあるし」
「そうですね。とはいえ、館の中であれば一先ず安心です。ここは、たとえ神様だって容易には近付けない」
「ええ。腐っても一応滋丘家の本丸だもの」
手洗いに透が外に出ようとした時であった。
「わっ」
ぬっと白い影が現れ、透は思わず尻餅をつきそうになった。
「あ、おはよう。透ちゃん」
白い影は白の寝間着を着た姫子であった。彼女は欠伸をしながら居間の中に入っていく。
「どうしたの、透ちゃん?」
「あ、いえ」
透は目を丸くしたまま答える。
「ん、私は夜型で、朝は、弱いの」
そう言って姫子は覚束ない足取りでテーブルの席に着いた。
「あ、イツキ君。朝食はいいわ。とりあえず牛乳だけ頂いていいかしら」
「かしこまりました」
「改めて状況を整理いたしましょう」
イツキは透と姫子に言った。
「災い転じて福となす、と言いますか、何はともあれ、昨日でおおよその動きがございました。アーサーはもういない。彼の喚び出した死人、竹蔵は戦意が無く、もう脅威とはならない。魔術師と手を組んでいた鬼、六条院紅葉は行方不明」
「鬼は面倒ね。助けてもらっておいて何だけど、一番行動が読めなくて厄介だわ」
透はテーブルに広げた一メートル四方程の紙に現在の状況を書き込みながら言った。
「後は京一郎とクロエ、ですね」
「……ええ」
「申し訳ありません。それと、もう一人追加していいですか?」
「いいけど、誰?」
イツキは黒で塗り尽くされた人物を紙に書き込んでいった。下に名前を書く。
「アンノーン?」
名前を見た透は思わず呟いた。
「はい、異界化された学校で出会った異形を覚えておいでですか?」
「勿論」
「あれなのですが、ひょっとしますと、第三者の介入による可能性がございます」
「じゃあ、もう一人タルタロスに茶々入れてる奴がいるかもってわけね」
「そうなりますね。ですが、あんなものを異界化された空間に送り込んで自らは高みの見物を決め込む臆病者です。そうそう脅威となる様な事はないとは思いますが」
「油断は禁物、という事ね」
姫子は言うと、イツキはそれに頷いた。
「次に、タルタロスが開かれると思しき場所についてですが、これは、北上山の、それも頂上となります」
イツキは紙上の簡易地図に記載されている北上山に、赤いマジックで◯を付けた。
「ねえ、イツキ」
「何でしょうか、トオル」
「それ信じていいのかしら? クロエの言っていた事でしょう」
「騙す理由がございません。鍵となる物、つまりダイダロスは私達が所持しております。ならば、騙して右往左往させても仕方がありませんよ。まあ、クロエという少女が他人を振り回してほくそ笑むのが趣味だというのならそういう事もあるかもしれませんが」
「透ちゃん。私もイツキ君の意見に同感よ。今更小細工をする事に意味を感じないもの」
「まあ、裏を返せば、そこで私達からダイダロスを奪い取ろうという事なのですが」
「そう。じゃあその言葉を信じるわ」
「話を戻します。白崎さんからの話によると、猶予は後一ヶ月近くございます。つまり、ここに引き籠ってさえいれば、後暫くの時間は確保は出来る事になります」
「冗談。そんな悠長に過ごしてなんかられないわよ。私や姫子さんには生活があるし、大体、あの二人が業を煮やして何か別の方法で無理やり門を開ける、なんて可能性もゼロじゃないわけでしょう」
「確かに、仰る通りです。では私見にございますが、ここは一週間といたしましょう」
「その根拠は?」
姫子が言った。
「申し訳ありません、根拠というより直感です。内訳としては法水京一郎とクロエが業を煮やすのが三日、門を無理やりこじ開ける方法を見つけるのが四日、といった所です」
「成程ね。じゃあ私の見立ても言っていいかしら」
「どうぞ」
「三日。前半はイツキ君と一緒ね。でも後半は違って、四日目に透ちゃんが持っているダイダロスを奪いに来る。だから猶予は三日しかない」
「成程。門を開ける方法を探すよりこの館に侵入した方がまだ可能性がありそうだ、と」
それから、イツキと姫子は透の方を振り向いた。
「明日の夜」
透は迷わずに言った。
「ごめんなさい。本当は今日の夜と言いたい所だけど、だいぶ疲労が溜まってるし準備もしたい。だから明日の夜でいいかしら?」
それを聞いてイツキはほっとした。
「勿論です。実は私も諸々の兼ね合いを考えると明日がよろしいかと考えておりました」
「ええ。私もそれで構わないわ。私も、今日は出掛けておかないといけない所があるから」
「じゃあ、満場一致ね」
話を終えてから少しだけ準備をした後、透は案の定強い眠りに襲われた。
どの様にして眠ったかもあまり覚えていない透が昼過ぎの眠りから目覚めたのは、四時も過ぎた頃合いであった。既に西日が差し始めており、窓から日が入り込んで居間の中をノスタルジックな色合いに染めていた。透は居間の中を見回す。姫子はいない。恐らく、出掛けると言っていたのだから外出しているのだろう。何をしに行くのか気になりはしたが、彼女には彼女なりの準備があるのだと透は考えた。
ふと、イツキがいつも座っているスペースを見る。すると、そこではイツキがすうすうと寝息を立てて眠っているのが目に入った。
「寝ちゃったのね」
そういえば、と透は思った。彼女は、イツキが寝ているのを見るのは初めてであった。透がイツキを見る時は決まって目を開けていた。彼女はそれを只の偶然なのだとも思ったし、単純にイツキという存在に睡眠という営みは必要ないものだとも思っていた。
初めて見るイツキの寝顔は
透は眠っているイツキの元へと歩いていく。そして、徐にイツキに手を伸ばした。
何を考えているのであろうと透は思いつつも、イツキをずっと見ていると、イツキに触れてみたいという気持ちに駆られたのだ。
「少しくらいなら、いいよね。一応主なんだし」
背徳感を感じながらも、透はイツキの頬に触れた。
――え。
透は目を見開き、そして少しの間硬直した。
やがて、彼女はゆっくりとイツキから手を離して、口を開いた。
彼女自身にも何故だか分からなかったが、彼女の頬を、生暖かい感触が伝っていった。
「馬鹿みたい、何でそんなに笑ってられるのよ」
震える声で、透は只そう言った。
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