4章 クロエの神隠し

4章・1節

 多分ここ連日の事で疲れていたんだろうと、透は思った。だから、こういう事が起きるのも無理なからぬ事だと思った。

「あ〜あ」

 目覚まし時計を確認する透、その針は既に午前九時を指していた。透は最後の希望に縋るように未だ朦朧とした意識でナイトテーブルに置いてある携帯へと手を伸ばす。

「やれやれ、遅刻確定か」

 映し出された画面は淡々と冷酷に正確な時間を透に提示していた。折角だから二度寝してやろうかと透は思ったが、最早覚醒しきってしまったので、そんな気にもなれなかった。

「ああ、なんて中途半端な時間」

 透はもそもそとベッドから出て、のそのそと洗面所に向かった。


 居間へ透が向かうと、相変わらずイツキはソファの一部を陣取って本を読んでいた。

 イツキは透に気付いて「透、おはようございます」とにっこりと微笑む。

「おはよ」

 透はテーブルを見る。彼女の席にはラップのされた皿がいくつか置かれていた。中にはベーコンの添えられた目玉焼きとサラダ、そして焼き色のついたトーストが乗っている。

「温め直しましょうか?」

「いやいいよ、ありがとう」

 そう言いながら透は冷蔵庫に向かい、中から豆乳を取り出した。昔はそんな事は無かったが、高校生になった辺りから牛乳を飲むとしばしばお腹の調子がよろしくなくなるから、透はあまり牛乳を飲まないようにしていた。

 席に着いた透は何の気なしにイツキの方を見る。饗宴などと題された本をめくりながら、イツキは透の視線に気付いたのか、本から顔を上げる。

「どうされました?」

「いや、何でもない。いつも何読んでるのかなと思っただけ」

 豆乳を注いだコップを口に運びながら透は言った。

「そうですね。私は雑食性ですからノンフィクション、フィクション、評論等特定のジャンルに拘らず様々に読んでいます。お陰様でどれもこれも中途半端な知識が蓄えられ、何かのジャンルについて取り立てて詳しくはなれないのが辛い所ですが」

「ふうん、そうなんだ」

「トオルは本は読みますか?」

「ええ、勿論よ」

「それは参考書や魔術指南の本以外で、つまり単なる娯楽や教養としてでもですか?」

「えと、まあ、多少は」

 言われて透は目を背ける。正直な所、漫画や参考書、魔術関連以外であまり本は読めてはいない気がする。興味が無いわけではない、しかし、如何せん時間がないのだ。

「無教養な女で悪かったわね」

「いえ、責めているわけではありません。只、必要に迫られてではない、自らの意思に従った時、貴方は一体どんな本を選び、読むのだろうと好奇心から尋ねてみただけです」

「あら、そう。でもね、読書が嫌いなわけじゃないよ。ミステリー小説とか好きだし」

「それはいいですね。実に貴方らしい気がする」

「らしいってどういう事よ。私は人が死ぬ小説が好きな陰険野郎って事?」

 苺ジャムの塗ったトーストを口に運びながら透は目を細めてじっとイツキを見ると、イツキは慌てて弁明するかのように口を開く。

「いえとんだ誤解です。知性的で貴方らしい、と思ったのですよ」

「そ、そう。まあ、ありがと」

 透は少しだけ頬を赤らめる。何を以てイツキは自分の事を知性的だと判断したのか分からないが、言われて悪い気はしないと透は得意になる。

「それはそうと、トオル。学校はよろしいのですか?」

「ああ、学校ね」

「はい。恐れながらとっくに登校時間は過ぎ、今は授業中なのではないかと思うのですが」

「ええ、そうね。でも今日はやめよ。学校には行かない」

「はあ」

「もう遅刻しちゃったんだから、今更登校しても手遅れよ。それだったら、中途半端に登校するよりいっその事休んじゃった方がいいじゃない」

「という事はずる休みですか」

「人聞きの悪い事言わないの」

「失礼。しかし私は構わないのですが、後々学校に行き辛くはなりませんか?」

「そこもちゃんと考えてあるわよ。っていっても体調悪くてやばいから休みますって連絡するだけだけど」

 そう言った時、携帯が鳴った。

「あら、あっちからきたわ」

 電話に出る透。そんな透をイツキはやれやれといった面持ちで見つめた。


 透は学校に休みの連絡を入れた後、着替えをして街に出た。

『トオル、トオル』

 透が丁度駅前の書店に寄っていた時、トオルの頭の中にイツキの声が響いた。透は「何?」と返事をする。

『いえ、ふと思ったのですが、貴方は高校生の身だ。そんな子が、こんな平日のこの時間に街中を闊歩するのはいささか心配だと思いまして』

「あら、そんな事? それなら心配する必要なんかないわ」

 大人のためのジュブナイル、と銘打たれた特集コーナーの前で本を手に取りながら透は言った。

「いい? 私は私服。高校生の記号たる制服を身に纏ってない。つまり、私は皆にとって高校生じゃないのよ」

『はあ、成程。しかし、知り合いに会ってしまったらどうしましょう』

「大丈夫よ。友達は皆高校。駅前で鉢合わせするような知り合いなんていないわ」

『まあ、それならいいのですが』

「何なら、貴方も来ればよかったじゃない」

『いえ、私を連れ立って歩くと愈々怪しまれるかと思いますが』

「ああ、それもそうね」

 透は一昔前に映画で話題になった小説の原作本を手に取る。

「タイムリープものね」

『え、何か言いましたか?』

「ううん、何でもない。それより、貴方が何と言おうと今日はもう思う存分楽しむ事にするから。安っぽい流行りに乗っかるようであれだけど、自分へのご褒美ってやつ」

 パラパラとページをめくりながら透は言った。

『トオルも人の子ですね』

「そりゃそうよ。私は人の子。化物の子じゃない。偉人や少年漫画の男の子でもないのだから、常識外れな体力してないし、徹底的に自分の欲望も制御出来ない。私は意志薄弱であり、繊細、かつか弱き女子高生なのよ」

『高校はずる休みしていますがね』

「お黙り」

『しかし、そんな事なら姫子女史でも誘えばよかったではないですか。確か彼女、今日は大学はお休みだとお伺いしました』

「姫子さんは頼りになるお姉さんだけど、才女で万事手抜かりなさそうな感じがして、一緒にいると多分落ち着かないのよね。私はね、リラックスしたいの」

『左様ですか。ならば、今日一日は存分にお楽しみ下さい』

「あー、ごめんね。ほんとはタルタロスの事もあるのだけど」

『いえ、お気になさらずに。息抜きは大事な事です』

「ありがとう。イツキ、何か欲しい本ってあるかしら」

 本を元の場所に戻し、別のコーナーへと歩きながら透は言った。


「うー、っと」

 市立美術館から出てきた透は体を伸ばす。

 まだ四時を過ぎた辺りだが我ながらとても充実した一日を過ごせた、と透は思った。既に陽は傾きつつあり、焦げ茶色の美術館は日に照らされてきらきらと赤い光を放っていた。

「さて、そろそろ帰りますか」

 階段を降りてバス停へと歩いていこうとした時、見知った顔が透の目の前に現れた。

 やば、と透は焦ったが既に相手の方も透の事を捕捉しており、制服姿のその目はしっかりと透を見据えていた。

「土門、君」

「滋丘」

「ぐ、偶然だね、こんな所で遭うなんて」

 言いながら透は不自然な笑みを浮かべる。

 透は焦った。体調不良を理由に学校を休んでいたから、街中で遭いたくはなかった。

 そうか、既に下校時間を過ぎていたのか。この馬鹿野郎、外に出るなら学校の時間割くらい気にしておけ。透は浮かれすぎていた自分を心の中で責めた。

「滋丘はここで何してるんだ?」

「ええと、まあ、気分転換かな。ここんとこちょっときつかったから」

「ああ、最近お前風邪気味だもんな。まあいいんじゃないか。病は気からとか言うし」

「は、はは」

「ま、仮にお前が無断欠席でも俺は言わないから気にするな」

「ああ、ばれてますよね」

「まあ病み上がり間もない人間がこんな所を溌剌と歩くわけないからな。普通そうなる」

「はは、そりゃそうだ」

 透は苦笑する。一方で、土門がこれ以上追求しないつもりらしい事にほっと安堵する。

「話逸らすつもりじゃないんだけど、土門君はここで何してるの?」

「俺か? 俺も同じだよ。学校終わったからここに絵を見に来た。部の練習もないから勉強漬けになってんだけど、なんつうか、勉強ばっかじゃ流石に辛いからな」

「そっか。でも意外」

「何が」

「土門君もこういう所来るんだ」

「ああ、まあな。絵とか好きなんだ。っていっても、普段はネットとか本とかで眺めるくらいで美術館には行かないんだけど、今回は好きなのが特別展でやるってあったから」

「ふふ」

「何だよ」

「ううん。いいと思う。ちょっとギャップ萌え、って感じ。土門君ってモテそう」

 言われて、土門は顔を背ける。頬の部分がほんのりと赤みを帯びている。

「知らんし、そんなの」

「じゃあ、そろそろ私はこれで」

 そう言って透は土門の傍を通り抜けようとした時、「なあ、滋丘」と土門が引き止めた。

「昨日さ、刀持ったおかしな奴に追われてなかったか」

「え」

 透は目を見開く。

「え、何、何の話? 夢?」

「いや、夢じゃない。現実の話だ。そんな事、お前が良く分かってるだろ」

 土門が透を真っ直ぐに見つめてきた。思わず透は目を逸らす。

 見られてしまった。よりにもよって同級生に。透の額から一筋の汗が流れていく。

「いや、ちょっと訳が分からない。侍って土門君、それ日本良く知らない外国人ネタ?」

「誤魔化さないでくれ。嘘付くにしてもこんな訳わからん冗談なんか言わんぞ、俺は。何だったら、何処で見たかも言ってやろうか――」

「え、何で。土門君あの辺りに住んでたっけ」

「いや。ちょっとあっちの方にちょっと用があってな。そしたらお前を見た。何だったんだ、あれ」

「さあ、正直私もよく分かんないんよね。いきなり刀持った人に追われてさ、逃げるのに必死だったっていうか」

 透は苦し紛れの言い訳をする。実際、竹蔵と名乗った男が何者なのか透は知らなかった。

「滋丘。お前、ひょっとして何か危険な事に巻き込まれてんじゃないか」

「えっ、と。それは」

「刀持った奴に追われてるなんて尋常じゃないだろ。頼む、話せる範囲でいいから話してくれ」

「……ごめん。ほんとごめん。こればっかりは、話せないんだ」

 透はバス停に向かって歩いていく。

「滋丘」

「土門君を巻き込むわけにはいかない。これは、私の問題だから」

 「また学校で」そう言って透はやって来たバスにそそくさと乗っていってしまった。

 土門は、透の後ろ姿が見えなくなるまでをただ見送った。

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