2章・6節

 六条院紅葉にとって、生きる事とは愉しむ事であった。

 いつからそうなったであろうか、六条院はそれを思い出そうとする。

 彼女はかつて、とある島で同胞達と共に幸せに暮らしていた。楽土斯くの如くあるやと、鬼達は学問を修めながらも時に踊りを踊り、詩を唄ったりしていたし、ささやかながらも勇敢な鬼の語る冒険譚に耳を傾けたりもしていた。鬼の娘などは芸事や家事を身に付けたり、花束を作っては恋する物に与えたりする可愛らしい一面を持っていた。また、彼らは姿を隠して周辺の国と交易をしており、進んでの争いを好まない平和的な者達であった。

 六条院も他の鬼の娘と同じ様に、教養豊かな女となるべく努力に励み、また、同胞達と語らう時間を楽しんだ。六条院は他の鬼達よりは少しだけ悪知恵が働くので、他の鬼達にからかわれた時などは屁理屈を言い返し、時に大人の鬼達をも面食らわせる事があった。

 鬼達はずっと思っていた。こんな日々が続けばいいのだと。その時の六条院ですら、誰かが不快な思いをする事もないこんな安穏とした日々が続けばいいと思っていた。

 しかし、そんなものは呆気無く幕を閉じてしまった。

 人間達はその島を征服するべく攻めてきた。きっかけは些細な事だった。交易で人間達と接していた鬼の一人が、その正体を見られてしまったのだ。その異貌に恐れをなした人間は即座に腕の立つ武者に自らの妄想が入り混じった情報を報告した。その話を聞いた武者は手柄と名誉、財宝を求め、そして大義を掲げ仲間を引き連れて島へと上陸した。

 鬼達は平和的な者達であった。無論、如何に平和的といえど、有事の備えが無かったわけではない。

 だが、抵抗などは無意味であった。鬼達は一方的かつ瞬く間に侍達に惨殺され、その無残な骸を楽土に晒していった。鬼の女達で器量の良い者達は飢えた侍達に慰み者にされてからある者は斬られ、ある者は連れて行かれた。

 六条院も侍に襲われた。だが、気絶した事で死んだと勘違いされたのか、運良く六条院は生き延びる事が出来た。

 気絶していた六条院が気が付くと、既に侵略者の気配はなくなっていた。代わりにあったのは、最早楽土とは言えない地獄であった。血があちらこちらに飛び散り、無残な死に顔の骸もあちらこちらに散乱している。そこには、六条院のよく知る馴染みの顔もあった。

 涙も出ない。途方に暮れて歩いていた六条院はふいに、頭に手をやった。

 片方の角が欠けていた。多分、襲われた時に角を折られたのだろう。

 これじゃあみっともないな、と六条院は思った。

 六条院は辺りを見回すと、女の骸を見つけた。彼女はその骸に近付き、その頭を撫でた。

 

 ごめんね。このままじゃみっともないから、大事な角をもらいます。


 六条院はそれから僅かばかり残っていた食べ物や生活用品を持って島を出た。

 彼女は放浪した。

 人の振りをして人里に溶け込み、島で身に付けた芸事等を駆使して生計を立てたり、時には妖怪退治屋の真似事をして人々から報奨金を得たりする事もあった。

 ある日、彼女は島を襲った武者達を発見した。

 武者達はとある屋敷の庭で夜の花見を催していた。それなりの広さのある庭であり、武者は高い地位にある人間なのだろうと六条院は推測した。

 浮かれている今こそ絶好の機会と六条院は刀を構え、屋敷の背後に盛り上がっている小山の斜面の木陰から様子を伺う。

 そう、何度でも機会はあった。上手くいけば、憎き武者を打ち取り、敵を取る事も出来たであろう。

 しかし、出来なかった。

 怖い、怖い、怖い。手は震え、足は震える。あの時の記憶が蘇る。まるで、悪鬼のような下衆な顔。ああ、何とおぞましい。お前達こそ化物だ。そんなお前達をいつかくびり殺してやろうと思っていたのに。

 ちくしょう、ちくしょう。人の故郷を滅茶苦茶にした癖にのうのうと酒を飲みやがって。悪党共。死んでしまえ、死んで今すぐ詫びろ。

 腹が立つ。こんな奴らが大手を振って世を謳歌している事にも、そんな奴らに何も出来ない自分にも。

 ちくしょう。


 時間が解決してくれるという言葉がある。幸か不幸か、それは六条院にも当てはまる事になった。

 己が内に燃え盛っていた炎は、決して消える事などないと思っていた。

 しかし、長い時間の経過で糧となる燃料が無くなってしまったらしい。炎は次第に鳴りを潜め、只の燻る火となり、そしてほとんど消え失せた。強烈なトラウマとなっていた筈の体験も、いつしか記憶の彼方になってしまい、最早他人事の様な気分になってしまった。

 情熱は既に枯れ果てた。最早敵などどうでもよくなっていたし、そもそも、時の経過は侵略者共を須く髑髏に変えてしまっていた。

 故に人生にこれといった明確な目的のなくなった六条院は、日々の生活を如何に楽しく生きるかが重要な命題となり、それが、今の生きる理由となっていた。


「おもろい事が起きそうな気配なんやけどなあ」

 朝比奈市の北側に位置する北上山。その山中の休憩所にある木造のベンチに座っていた六条院は呟く。彼女の人差し指からは、奇怪な金色の文様が出て来ては踊る様にうねっており、それを眺めて鬼は薄っすらと笑みを浮かべていた。

「あの坊や手強そうやし。さて、どうしたもんやろ」

 尚もその文様を眺め続ける六条院。ふと、右の方から足音がした。六条院がゆっくりとそちらの方を向いて見ると、そこには金髪の白人の男が立っていた。

「あら異人さん。こんな所でこんな時間に珍しいな」

 しかし、男は黙ったまま何も答えず、六条院を見つめ続ける。

「どないしましたの。ひょっとして日本語話せへんの? そら困りましたな。私、こんななりでも生粋の日本産なんです。異国の言葉はよう分からへん」

「噂に聞くジャパニーズデーモン、か。初めてお目にかかる」

「あら、日本語話せるんか。でもなんやの、それ。私悪魔さんちゃうよ」

「失礼。他に適切な訳語が存在しないものでしてね。私はアーサー・ブラックウッドという。貴方の名前をお聞かせ願いたい」

「名乗られたからには名乗り返すのが礼儀。いいでしょう。私は六条院紅葉。見ての通りの鬼、や。ほんで、どないしたんの?」

「いやなに。邪推ながら、六条院殿は退屈しておられるご様子だったものでしてね。ここは一つ、面白い話があるのですが、如何か」

「きっと、貴方の興味を惹くものかと」

 アーサーは口元をにやけさせた。

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