2章・5節

 学校の終業時間を告げるチャイムが鳴り響き、校門から帰宅の途に着く生徒が出ていく。既に十一月も佳境に差し掛かろうという時期なので既に辺りは夕陽に包まれ、校舎の西側はその日の光を浴びて黄金色に、日のあたらぬ反対側はそれに負けないくらいに暗い影を作り出していた。

 昨日、白崎は用を終えると帰ってしまった。どうやら忙しいらしく、明日も別の町で仕事が入っているらしい。透としては白崎に泊まってもらって祖父との話を聞かせてもらいたかったが、流石に我儘を言うわけにもいかないので、白崎をそのまま見送る事になった。

 白崎が帰った後、透とイツキは今後の事を話し合う事になった。一応、何か見つかるかもしれないという事で屋敷内の探索を続けつつも、優先順位としてはタルタロスが出現するであろう場所に目処を付ける事、そして曲者への対処策を練る事が先決となった。


 恐らく、この街は破壊し尽くされ何千何万と犠牲者が出るでしょう


 タルタロスがもたらすという災厄について、白崎が語った推測を透は反芻する。

 祖父は言っていた、タルタロスを開けさせてはならない、と。これは、そういう甚大な被害をもたらすからなのだろうか。

「あっ」

 帰宅途中の生徒に混じっての学校からの下校途中、考え事をしていた透は道路に転がっていた石につまずき、前にいた男にぶつかった。男も考え事をしていたのか、突然の事によろめき、透諸共その場に転んでしまった。

「いった……あ、すみません!」

 透は男からさっと離れる。

「あの、大丈夫ですか」

 透が手を差し出すと、男はその手を取って立ち上がる。

「ありがとう。君の方こそ大丈夫かい」

「いえ、問題ないです」

 透は改めて男の顔を見る。ざっと百八十とちょっとくらいの身長に、年代は三十代前半といったところ。スリーピーススーツに黒のコートを着た男は精悍せいかんな顔立ちで、もし仮に二枚目俳優をやっていると言われても何の疑いもなく信じたであろうと、透はそんな印象を抱いた。

「それじゃあ、失礼するよ」

「はい」

 透は反射的に軽く頭を下げ、坂道を登る男を見送る。

「かっこいい人だったな」

 そう呟いて、透は坂道を下ろうとした。

 ふと、透は地面の下に何かが落ちているのに気が付き、それを拾った。

 それは本であった。

 レッドワインを基調とした装幀で目立つものではなかったが、蔦や扉を用いたその表紙は何処となく数百年前の外国の名著かあるいは百科事典を想起させるものだった。『ロスト ミソロジー』と銘打たれたその中身を透は好奇心から覗いて見たかったが、流石に失礼だと思い直し、危うく本を開きそうになっていた手を止めた。

「あの、すみません。これ落としましたよ」

 透が急いで来た道を戻り、男に声をかけた。男は透の声に気付き、ゆっくりと振り向く。

「落とし物?」

「はい。これです」

 男が差し出された物を見る。その途端、男は一瞬だけ大きく目を見開いた。透はその豹変に一瞬たじろいだが、男はその後すぐに落ち着き払った顔に戻った。

「いや、確かに私の物だ。拾ってくれてありがとう」

「いえ」

「すまない。変な質問をするかもしれないが、君はこの本の中を見たりしただろうか?」

「え、いえ」

 透は首を振る。多分ナイーブな中身の本なのだろう、中身を見なくて良かった、と透は思った。

 男はほっと安堵したような表情をする。

「そうか、それなら良かった。ああいや、インモラルな本ではないのだけれどね、ちょっと人に見られるのは恥ずかしいやつなんだ。兎に角、ありがとう」

 そう言って、そそくさと男は去って行く。

 あんな人にも変な趣味とかあるんだろうか、などと透は取り留めもない事を考えながら、再び男とは反対方向に坂道を下って行った。


「……勘弁してくれ。わざと本を落としてしまうなんて事。肝が冷えたじゃないか」

 男は坂道を歩きながら人気のなくなった事を確認すると、誰もいない筈の脇を困ったように見下ろしながら言った。すると、男が見下ろした先から、「ごめんなさい」という女の子の声がした。

「あまり退屈だったものだから、つい魔が差してしまったの。でも本は問題ないわ。ちゃんと表面をコーティングしていたから、傷一つない」

「そういう問題では……まあいい」

 男は諦めたかのようにそのまま前に向かって歩き続ける。

「さっきの子」

 再び女の子の声がする。それに男は「どうした?」と返事をする。

「ちょっと変わった、いえ、浮世離れした雰囲気をしていたような」

「さっきの子が? 私にはいたって真面目な女子学生にしか見えなかったが」

「外面だけ見るとそうね。でも、少しだけ垣間見えた中身が一般的な女子学生って感じじゃなかったわ。一般的、というのがどの辺りを基準にしてそうなのか、と言われると困るけど」

「まあ、君がそう言うならそうなのかもしれないな。どちらにせよ、私達には関係ない事だ、クロエ」

 男は、やはり誰にもいない場所に向かって言った。

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